5 噂話
午後3時を過ぎると、次々に子供たちが学校から帰ってくる。
最初は小学二年生の菜弥子、その後30分程度して五年生の沙樹子。それから一時間ほど後に中学一年生の凛々子が帰宅し、夕方6時から8時の間に慶一朗が帰宅する。慶一朗の帰りがまちまちなのは、隣町から一時間に数本の電車で帰ってくるから。バスの時間とずれることもあり、毎日同じ時間に帰宅するのは難しい。
一人一人、子供が帰ってくる度に、ハナとお留守番をしている悠司の表情が明るくなっていく。例え、宿題をしていてほとんど相手にしてくれなくても、隣にお兄ちゃんやお姉ちゃんが居るというだけで、悠司は満足するようだ。あるときは宿題に落書きをして怒られ、あるときは隣でジュースをこぼしてランドセルをベトベトにし、またあるときは大事なお知らせをぐちゃぐちゃに丸めて遊び、多大な迷惑をかけ怒鳴られたとしても、悠司は楽しそうだった。
このバタバタに、ハナは根気よく付き合ってくれる。
メチャクチャにしたランドセルも、広げっぱなしのおもちゃも、丁寧に声をかけながら、悠司と一緒にお片付けする。人間なら途中でブチ切れてしまいそうな状態でも、ハナは何食わぬ顔でやってのけるのだ。
毎日のように手作りのお菓子を作り、家事全般を行い、子供たちの遊び相手になり、話し相手になる。
今日何があった、誰がどうした、それでどう思った。お喋りな三姉妹は休む間もなくハナに話し続け、ハナも最後までそれを聞く。それが例え、ハナにとってどうでもよいことであったとしても、ハナは優しい顔で、うなずいてくれる。
生まれたときからずっと一緒。母のような、姉のような存在。――それが、ハナだった。
「そういえばこの間、お父さんたちに話してた公園の不審者のこと、どうなったの」
凛々子は帰ってくるなり、冷蔵庫を開け、飲み物を物色しながらハナに聞いた。
「不審者、というと、黒い車に乗った、羽帽子のご婦人のことですか」
ハナは洗濯物を畳む手を止め、今思い出した風に、とぼけたような声を出した。
「そう、それ。学校でも変な車を見かけたって、話題になってて。今もその車、あの公園にいるの?」
凛々子はあの日、入浴前に風呂場とトイレを行き来している間、偶然話を聞いてしまったらしい。
ダイニングテーブルで宿題を広げていた菜弥子と沙樹子も、「その話知ってる!」と、声をそろえて話題に乗った。
「如何にも怪しそうな女の人がこの辺ウロウロしてるって」
「そうそう。それでね、古い機械人形の話をあちこちで聞き回ってるらしいよ」
ビクッと、ハナが震えたのを、凛々子は見逃さなかった。
古い機械人形。
ハナも、50年以上昔の、古い機械人形だ。
「公園では、あまり見かけなくなりました。少なくとも今日は、午前中公園へ行きましたが、あの車はありませんでした。朋美様が通報なさったからでしょう。一方で、小中学生の間でも話題になるほど活発に動き始めていたとは、わたくしは知りませんでした」
ハナはまた、洗濯物を畳み始める。家族七人分の洗濯物は、畳むだけでも一苦労だ。
午前中、公園で思いっきり遊んで、疲れ切った悠司はぐっすりと眠ってしまった。いつもは悠司に邪魔される菜弥子と沙樹子も、今日は安心して宿題ができると、のんびりハナの手作りクッキーをつまみながら鉛筆を走らせているところだった。
「私が聞いた話だとね、何とか協会の者だけど、古い機械人形の保護をしていて、価値があるから博物館にどうのって。それらしき家を訪ねて歩いてるらしいよ。でも何か、怪しいよね」
五年生の沙樹子が言うと、「私もそう思う」と、二年生の菜弥子が相づちを打った。
「でも、古い機械人形に価値があるっていうのは、間違いじゃないよ」
凛々子は冷蔵庫で見つけた清涼飲料水のボトルのフタを開けながら、小学生の妹たちに向かってそう言った。
「最新型は最新型で、高価だし、技術は優れてるし、何でもできて、人気があるでしょ。でも、古いものには古いなりの価値があるわけよ。例えば、今は手に入らない、昔の切手やお金。それから、おじいちゃんやおばあちゃんたちが晴れの日に着てた、和服。あとは、ガソリンで動く車や、昔の職人さんが作った、綺麗なお皿。鑑定番組、偶に見るじゃない。そこで、凄い金額出てさ。みんなで、『あんなのがあんなに高いんだ』って、この間も話してたでしょ」
ああ、そういえばと、小学生たちが納得の声を出す。
「古い機械人形も、多分古いなりに価値があるのよ。最新型にはない、何か別の特徴があるとか。長く保つってことは、それだけ丁寧に作ってあるってことだし。美術的価値も高いのかも!」
もっともらしく理由を付け、小学生たちが「なるほど」の声を上げると、凛々子は勝ち誇ったように、腰に手をやってグビグビと清涼飲料水を飲み始めた。悠司が起きていると、“ぼくにもちょーだい”をされ、ゆっくり飲めないが、今は邪魔もされず、安心して飲めるのだ。
「じゃあさ、じゃあさ」と、宿題を擦る手をすっかり止めて、菜弥子が言った。
「ウチのハナちゃんも、もしかして高いの?」
――え?
何を言ってるのと、凛々子は目を丸くした。
小学生は自由すぎる。そういうことは、ハナのいないところで言わないと。幾らハナが機械人形だからって、言って良いことと悪いことが。
ハナを見る。
案の定、洗濯物を畳んだ手が、止まってしまっているじゃない。
「う、売り物じゃないよ、ウチのハナは!」
慌ててフォローするが、ハナはまだ、動かない。
機械人形は、心を持っているわけじゃないのは知っている。でも、それでも、同じ家族として、言われたら傷つくようなことを言ってしまっては……。
ボトルを食卓に置き、凛々子は恐る恐る、床の上で洗濯物を畳んだまま固まってしまったハナの側に寄る。
ハナは、怒っているのだろうか。
――スッと、ハナの姿勢が直った。
凛々子は驚いて後ろに反り、洗濯物に足を滑らせ尻餅をついた。「……ッたー」お尻を擦って痛みを堪えていると、急にハナは凛々子たちの方を向いてニコッと笑った。
「いやですね、皆様。わたくしはただ古いだけの機械人形です。値段など、付きません」
「だ、だ、だよね! わかった、あんたたち! ハナに値段なんか付かないの! 売り物じゃないから! わかった?」
凛々子は慌てて妹たちを指さして、大げさに振る舞った。
本当に、デリカシーのない。
ハナは何も聞いていなかったように、また洗濯物を畳み始めていた。それが、何だかとても痛々しく、傷つけてしまったのではないかと変に危惧してしまう。
それにしても、だ。
人間と同じように仕事をし、生活をしている機械人形を、物みたいに扱うだなんて。
凛々子はそんなこと、あってはならない、あるべきではないと、強く思った。
家に居るハナのような機械人形はもちろんのこと、父や母の会社にいる機械人形だって、他の従業員たちと同じように働いている、大切な仲間ではないか。それを盗んだり、まして、値段を付けて売ったりなど。
非人道的、いや、機械人形なのだから、人道的と言う言葉は妥当ではないのかもしれない。だけれど、そのくらい大切な存在だ。
人間とは違う、ペットでもない、家電製品でもない、不思議な存在。
もしハナに値段を付けて買い取ってやろうなどと言う不届きな輩が現れたら、絶対に追い返してやる。
凛々子は絶対にそんなこと、あるわけないと、心のどこかで思いながら、淡々と作業をこなすハナをじっと見つめていた。
* * * * *
曇天模様の空の下、一台の黒い高級車が、東永町の住宅地の一角をゆっくりと走っていた。助手席にはワインレッドのドレスを着た貴婦人。色の濃いアイシャドーの付いたまぶたをぱちりとさせると、長いつけまつげがハッキリとわかるくらい大胆に上下した。
「例の人形、この辺に居るって言ってたわよね」
艶っぽい声で女は言う。
「はい。情報では、型の古い機械人形だと。普段は幼い子供と二人きりで留守番をしているそうです」
「幼児を一人きりにさせるなんて恐ろしいことはできないから、今日はあくまで様子見だけよ。もし価値のある人形なら、改めて持ち主に交渉してみるわ。どうしても難しそうなら、別の方法を」
「わかっております」
スキンヘッドの運転手は、女には逆らえない様子。ハンドルを握りながら、慎重に応えている。
古い住宅の並ぶ、半世紀以上前から変わらぬ街並みに差し掛かると、助手席で女はタブレットを操作し、住宅地図を確認した。上空写真で映し出された、瓦屋根の家々。小さいながらも、どの家にも庭があり、低い垣根で囲われている。その画面の一番右上に、問題の家があった。赤い瓦と、白壁の家。他の家よりも少しだけ広いが、大きな木が一本と、敷地の半分を畑にした庭が特徴的だ。
ぽつり、ぽつりと、フロントガラスに雨粒が落ちてくる。
人通りのない路地を進み、目的の家の前に来た頃には、雨はすっかり本降りになっていた。
「どうなさいますか」運転手が聞くと、
「大丈夫。行きましょう」貴婦人は言って、傘を取り出した。
二人同時に車を降り、各々傘を持ってゆっくりと敷地へ入っていく。
リビングに明かりがついているのが外からもわかった。レースカーテン越しに、座って作業する女の姿が見える。あれが機械人形に違いないと、二人は無言でうなずいた。
玄関の扉の前に立ち、運転手がまず、インターホンのボタンを押す。ピンポーンと音がして、リビングの方向で物音がする。ガサゴソと、内部で応答する音が。向こうでは、こちら側の映像、見知らぬ男女の姿が見えているはずだ。
「こんにちわ。わたくし共は、マシ……」
『今、参ります』
最後まで言わないうちに、女の声が応答し、通話が切れる。
「だ、そうです。もしかしたら、向こうは」
「その可能性もあるかもしれないわね」
男と女は顔を見合わせ、何かを確認する。
ピカッと、稲光が走り、次いで、ゴロゴロと空が鳴った。薄い灰色だった空が、いつの間にか真っ黒な雲に覆われ、辺りを暗くしていた。
カチャッ、ギィ……と、玄関扉がゆっくりと開く。
男と女の視界に、小柄な少女の姿がハッキリと見えてくる。栗毛の、長い髪。スッキリとした目鼻立ち。機械人形独特のオレンジ色の瞳。そして、耳のカフス。一見、人間の少女のようにも見えるが、それは間違いなく、機械人形。
しかも、目の前のそれは、まさに目的の。
「居たわね。あなたのことを、探していたのよ」
男の後ろに立っていたドレスの女が、傘をずらしてスッと、前に出た。
「どんなご用ですか。わたくしには何のことだか」
機械人形の少女が無表情で応える。
「トボけなくてもいいのよ。知っているのでしょう。わたくしたちが何故」
と、家の奥からパタパタと人の歩く音がした。
「ハナァ~、ハナァ~。ねぇ、誰~?」
年頃の少女の声。予定外だ。他にも人が居たなんて。
「ねぇ、ハナ、誰と話してるの? セールスならちゃんと断らないと」
明かりのついた玄関ホールに、東永中学の制服を着た少女が。――引きつった表情で、両手を顔に当て、悲鳴を上げる。
「き……、キャーッ! あ、あんたたち、公園の……!」
悲鳴を聞いて、また後ろからバタバタと足音。まだ居るのか。
「あ、赤い女の人!」
「黒い車の人!」
クワッと、女は目を見開き歯を食いしばって、次々に現れた子供たちを睨み付けた。次から次へと予定外の邪魔者がわんさか。しかも奥で、火が付いたように別の子供が泣き始めたではないか。
「チラッと確認するだけのつもりが、困ったわね」
女はギリリと歯ぎしりをし、後退った。面倒は御免だ。機械人形は正面でじっとこちらの様子を覗っている。
「また来るわ。――“ ・ ・ ・ ・ ”」
機械人形にしか聞こえない声で、女はそっと囁いた。
長いドレスの裾を、サッと翻す女。傾けた傘の角度を直し、女に渡す運転手。ビカッと激しく光った雷が、辺りを真っ白に変える。
反転した世界の中、機械人形ハナの中で、何かがパンと弾けた。
サンダルを慌てて履いて、「二度と来るな!」ハナを押しのけ、凛々子が帰って行く男女に怒鳴り、スリッパを放り投げつける。掠りもせずスリッパが庭に落ち、女が凛々子の怒号を笑ってかわす。またねと手を高く振って、女は黒い高級車に乗り込みながら傘を畳む。パンと音を立ててドアが閉まる。ギュンとエンジンのかかる鈍い音、そこに重なるように三姉妹の「帰れ馬鹿-!」ザバザバ激しい雨音と、タイヤがバシャバシャ水たまりを撥ねる音。車が見えなくなるまで、菜弥子と沙樹子が庭先で、ずぶ濡れのままワーワー叫び、家の中では悠司が眠たげな泣き声を上げてぐずり続ける。
「何よ……。何よあいつら。まさか、まさかハナのこと、買おうだなんて思って」
斜めに叩き付ける雨でびしょ濡れになったまま、凛々子は車の居なくなった方向を見つめ、ギュッと拳を握りしめた。
気がつけば、全身ガタガタと震えている。ついさっき、機械人形を盗むだの売るだの、変な話をしたばかりだった。余計な話をしたせいで、それが現実になってしまったのじゃないか。凛々子はそんなことを考え、奥歯を震わせていた。
「菜弥子も沙樹子も、中に入んな。風邪引いちゃう」
おいでおいでと、凛々子は全身ずぶ濡れの妹たちを家の中に呼び込んだ。
「でも」と、悔しそうな二人だが、ずっと外にいても、埒があかない。渋々姉に従い、玄関にトボトボと向かってくる。
「ハナも、入ろう。どうして玄関開けたのよ。見えてたんでしょ、誰が来たか」
トンと、凛々子は何気なく、ハナの肩を叩いた。
――グラッと、ハナの体が不自然に揺れる。
「ハナ?」
ゆっくりと、ハナが前に崩れていく。糸がプチッと切れた繰り人形ように、手も足も、体も首も、支える力を失い、落ちていく。
「ハ、ハナァ――――!!」
鈍い音が、辺りに響く。
玄関に倒れ込む、ハナ。
降りしきる雨の中、三姉妹の前で、ハナはピクリとも動かなくなった。