1 これから
落ち着いて、やっと人の話を聞けるようになるまで随分時間がかかった。涙涸れるまでとはよく言うが、最後の方になると、意地で泣いていた。涙腺が乾いてきて、涙なんてとうに出なくなってきているのに、ハナのスカートに涙と鼻水を擦りつけて、泣き続けた。
くだらない芝居に、ハナは付き合い、慶一朗の頭と背中を交互に擦る。柔らかな彼女の手が動く度に、本当にお別れなのかと、嗚咽しながら呟く。その度に、そのようですねと彼女は言った。
直ぐに行うはずだったハナの調律は、明日に順延。輝良斗が申し訳ないと頭を下げると、紺野めぐみは、
「仕方ないわね。明日まで待ってあげるわよ。そのかわり、きちんとお別れを済ますことね」
そう言って笑っていた。
「そもそも、機械人形鑑定士の紺野さんは、ハナが完全に動かなくなってから、博物館にどうかと、提案をしてくださっていたんだ。君んとこに行って、君とお父さんに追い返され……。その時に、愛されすぎているハナさんを、簡単に引き離すのは無理だろう、それならいっそ、動かなくなってから、スクラップになる前に、博物館へという方法もあると」
輝良斗は言うが、紺野は、
「止めてちょうだい。わたくしたちは、そんなに優しくないんだから」と言って、後ろ手に手を振りながら、長村と共に、先に宿へと向かって行った。
* * * * *
結局、自分から親に電話することができないほどの体たらくを、輝良斗に晒した。
泣きはらした目をこすりながら、輝良斗のかけた電話に出る。そこで改めて、ハナのことは諦めなさいと父に諭される。信じたくはなかったが、信じるしかない。だが、事実を事実として飲み込むのは、慶一朗には難しすぎた。
輝良斗が予約してくれていた旅館に夜遅くチェックインし、そのまま泥のように眠った。これがハナとの最後の夜だというのに、慶一朗はほとんど、ハナと目を合わせることも、会話することもしなかった。
「お荷物に、お手紙が挟まっていました」
朝早く、ハナが慶一朗を揺すり起こして見せたのは、意外なもの。
寝間着のまま水玉のカートを広げると、奥底に、かわいらしい花柄の封筒が五つ、入っていた。ハナの大好きな、淡い花柄の封筒は、凛々子の仕業だろうと、直ぐに予想が付く。封筒の表面には、様々な字体で“ハナへ”“ハナちゃんへ”と書かれている。ミミズの這ったような字は、悠司のだ。
「読んでも、いいですか?」
ハナは慶一朗の目を見て尋ねる。
「ハナ宛の手紙だから、ハナが読むといい」
慶一朗の言葉にうなずき、ハナはそのうちの一つを開封した。
≪ハナちゃん、青森は遠いと思います。行ったことはないけど、地図の上の方で、とてもびっくりしました≫
と、これは菜弥子だ。覚えたての漢字で、一生懸命書いたらしい。
≪しゅう理が出来て、おうちに帰ってくるのを、楽しみにしています。
でも、もし、しゅう理が出来なかったら、どうしよう。
お父さんとお母さんに言ったら、だいじょうぶだよと言いました。本当かな。
ハナちゃんは、しゅう理のとき、こわくないですか。もしこわくなったら、わたしたちのことを思い出してね。がんばってください。 なみこより≫
「“こわく、ないですか”? 怖くないです。わたくしに悪いところがあれば、きちんと診てもらいます。そうしないと、皆様にご迷惑をおかけしますもの」
ハナは手紙を読みながら、うんうんとうなずき、返事をする。目の前に、手紙の主が居るわけでもないのにと、慶一朗が笑うと、
「お手紙をいただくのは初めてです。でも皆様、ご自分にお手紙が届いたときにはこうやって、見えない差出人に、言葉で返事を出していらっしゃいましたよ」
ハナに言われて、そういえば自分も、手紙の中身に一喜一憂し、笑ったり、泣いたりしたよなと思い出す。
次の手紙は、沙樹子。五年生の沙樹子の字は、菜弥子のよりずっと大人びてしっかりしている。
≪ハナちゃんへ
小さいころからずっといっしょだったハナちゃんが、青森まで修理に行ってしまうなんて、とても、さみしいです。田所のおじさんのところで修理できたらよかったのに、どうしてこんなことになってしまったのかと思うと、とてもつらい気持ちになります。
不具合がどんなものか、私にはわかりません。でも、直さないと、小さな子どもといっしょに暮らすハナちゃんにとって、とてもよくないと、お父さんやお母さんに聞きました。
青森までは、ものすごく遠いです。ハナちゃんはいつも、テレビを見ながら、電車にのって旅をしてみたいと言っていましたね。せっかくだから、電車での旅も楽しんでください。
ハナちゃんがぶじにもどって来られたら、もっと料理を教えてね。ハナちゃんみたいに料理が上手な人になりたい。家族みんなに、私の作ったご飯を食べさせたい。いつも、お手伝いをすると、かんたんなことしか出来なくて、ハナちゃんの役に立っているのかなと不安になります。
ハナちゃんがいるから安心して子育てできるんだよと、お母さんも言っていました。私もそう思います。
悠司も、ハナちゃんとはなれるのがさみしそうです。
どうか無事に帰ってきますように。 沙樹子より≫
何度も書き直したのか、ところどころ消しゴムで消した跡がある。それに、消しすぎて便せんの端にシワが出来たところも。
「沙樹子様らしいです。わたくしも、もっと料理を教えたかったです。でも、わたくしも、最初から料理が上手だったわけではないですよ。家事が全く出来なかったので、お役に立てなかったこともあるのです」
ハナはまた、手紙に返事をする。
「でも、沙樹子様はまだまだこれから成長ができます。わたくしたち、機械人形とは違うのです。だから、今できないことを、何も悲しむことはないと思います」
そうだねと、慶一朗は相づちを打った。
≪ハナへ
青森への長旅、どうですか。
機械人形鑑定士の方が来てから、いろんなことがありすぎて、頭の中が整理できません。
ハナが高級な機械人形だと聞いても、私にすぐに信じられませんでした。これは夢なんだと、現実から逃げたくなりました。
でも、目を背けてばかりはいられません。
ハナ、しっかり直してもらってね。
こっちは大丈夫。家のことは心配せずに、私とお父さん、お母さんで守るから。
悠司のことも、ちゃんと面倒見るから安心してね。真紀おばさんも手伝ってくれるし、掃除もお洗濯も、お料理も庭の手入れも、みんなで分担します。
沙樹子も菜弥子も、いざとなればちゃんと一人前に働いてくれるから大丈夫だよ。
ハナが無事、修理できますように、戻って来れますように、祈っています。
大好きなハナ、元気でね。 凛々子≫
凛々子の手紙の終わりの言葉に、ハナはおかしいですねと首を傾げた。
それが、別れの言葉だと、慶一朗は言い出せなかった。
「次は、悠司様ですね。えっと……“ハナ……ちや……”。うーん、読めません。何と書いてあるのですか?」
ハナは困った顔をして、慶一朗に代読を頼んだ。確かに、ミミズが這うどころか、文字配列も自由で、まるでアナグラム。便せんの横線を無視して、縦に横に、好き勝手書いたらしい。たしか、悠司は字なんてほとんど書けなかった。姉たちが一生懸命に教えたのだろう。いつの間に。
「これはね、結構難しいよ。ちょっと待ってね。えーと、“ハナちゃん、が……んば……れ”。えーと、次はこっちか。“だ……い……す……き”“わじ”。わじ? ああ、違う。“ゆうじ”って、書きたかったんだ。読めた」
「す、凄いです! 慶一朗様、よく分かりましたね」
手紙をもう一度手にとって、ハナは文面をマジマジと見るが、やはり読めないようだ。
「凄くないから。これはもう、こういうものだと思うしかない。みんな小さい頃は、こうやってあちこちに書いたりするもんだよ」
「そうなのですか。皆様のお小さい頃、やはり同じように平仮名が散らばったお絵かきをよくなさっていましたが、わたくしは、ただ文字の練習をしているだけなのかなと思っていました。違ったのですね。きちんと、文章になっていたのですね」
「そうだね、機械人形には、ちょっと、難しかったかもね。えっと……、最後は母さんのか。これはどうする? 一人で読む?」
差し出した手紙を、ハナは大事そうに受け取り、「そうします」と一言。
恐る恐る開けた手紙を一通り読み、ハナは難しい顔をする。そして、困ったように、肩を落とした。
「慶一朗様。わたくしは、家を出る前から、もう二度とあの家には戻れないと、決まっていたのですか?」
「ハァ?」
「はっきりわかりませんが、そのようなことが書いてあります。“ハナのことを、忘れない”とあるのはつまり、もう二度と会わない、会うことができないという意味ではありませんか?」
オレンジ色の瞳が、じっと慶一朗を見つめている。夕焼けのような憂いの色。
慶一朗は、ハナの問いに答えることが出来なかった。
ハナとはお別れすることになるかもしれないと、出かける前から家族みんな思っていて、口に出さずにいただけだ。
何気ない文面に、別れの言葉がにじむ。
もう二度と会えない。だからこそ、ああやって無理に早起きして、見送ってくれたのだ。
そう思うと、慶一朗の胸は、痛いくらいに締め付けられていった。
* * * * *
湖岸の朝。透き通るような青空にはまだ、月が残っていた。
湖からの風で、肌の下まで突き刺すような冷たさを感じる。
朝食を済ませ、チェックアウトして、川端調律事務所へ。朝早いというのに、もう観光客らは出かけの支度をしている。トレッキングシューズやリュックサック、それから厚手のジャンパーを着込み、手袋をはめ、帽子を深々と被って。これは昨日見た、奥入瀬渓流の散策目的だと、一目でわかる。朝早めに出かけて、昼過ぎまでゆっくり歩く。それからホテルに戻って更に一泊し、次の朝にここを発つのだと、朝食のバイキングで誰かが言っていた。確かにここは、時間のある人向けの観光地だなと、慶一朗は改めて思う。
昨晩同じ旅館に泊まっていた紺野と長村は、既に事務所に到着していた。
一階の人形館も、あと少しで開館時間になるらしく、バタバタと騒がしい。
事務所の社員が数人、おはようございますと挨拶しながら席に着くのを横目に、応接間の横を通り抜け、奥にある調律室へ。壁際にぎっしり並んだ棚と機械は、田所調律にあったのと、大体同じ。
慶一朗と紺野、長村が見守る中、調律用のベッドに横たわったハナに、コードが繋がれていく。意識レベルが落とされ、ハナはいわゆる昏睡の状態に。お腹を開き、一つ一つ、輝良斗が部品の具合を確認する。
「とても、綺麗だ。八十年前の機械人形とは思えない」
「八十年前?」
「ええ。君んところのひいおじいさんが購入して、役場に登録されたのは七十二年前だけど、製造は八十年前。八年間、売れずに陳列してあったってことかな。さみしかっただろうね。周りの機械人形にはどんどん買い手が付いて、主が決まっていくのに、この人形は一人で、じっと我慢して待ってたんだ。だから、君のひいおじいさんが買ってくれたときは、本当に嬉しかっただろうね。……十万なんて、安い値だったけどさ」
輝良斗は言いながら、手際よく部品を確認し、メンテナンス用の一覧表にチェックを入れる。“良好”の欄に綺麗にチェックが並んでいくのを、三人は無言で見つめる。
「メンテナンスを請け負ってくれていた田所調律さんも、良い業者さんでね。この人形が高価で取引される機体だと知って、登録時にわざと“+”表示を外してくれたんだ。役場のチェックが甘かったのか、そのまんま通ったことが幸いして、今の今まで、無事に過ごせた。06シリーズは元々人気があったけど、十体しかないスペシャルモデルに比べ、通常モデルはそれなりに数が出回ってたから、都市部にあった06が先に狙われてったんだ。海端の田舎町が後回しになった結果、最後の一体に。しかもそれが、スペシャルモデルだったから、争奪戦が激しくなったんだろう。……あとは慶一朗君も知っている通り。とんでもないことに巻き込んでしまったのは、安易に基板を埋め込んだウチの先祖のせいなのかもって思うと、責任は感じてるよ」
部品と部品を繋ぐ沢山のケーブルは、田所調律の先代社長の美しい作業のお陰もあって、綺麗にまとめられ、部品の一つ一つも、時代を感じさせぬほど磨かれていた。サビが全くないのに、輝良斗は驚き、ため息を漏らした。
「愛されていたんだ。彼女は。それこそ、みんなにね」
通常なら直ぐに傷が付き、錆びてしまう扉の開閉部も、きちんと部品交換がなされ、新品同様だったし、埃の溜まったような跡もない。劣化しやすい小さなケーブルも、順次新しいものと取り替えたようで、色の違うものが混じったりはしていたが、弱ったり、切れそうになったりしているものは、一つもなかった。
「どうですか、紺野さん。中身は」
「ええ、思ったよりもずっと綺麗。今まで見た中で、一番かもね」
いよいよ、身体の一番奥、黒い箱の中身を開ける。ケーブルの付いたまま、二つの充電ユニットを身体の外に出し、箱を手前に持ち出して、ゆっくりと開く。緑色の基板――“感情基板”が、姿を現した。
「本当に、これが?」
慶一朗は感慨深げに覗き込む。
「そう。彼女の感情の蓄積された、彼女を形作る中で最も重要な基板。そして、欠陥の原因だ」
見た目、どこにも不具合がありそうなカ所はない。錆も、埃も、付いていない。
「状態は良いけど、実際どう動いているかは、機械にかけないとわからないな。田所調律さんの話だと、記憶データがぶつ切りになってるカ所があるそうだね。不要な記憶を消す処理をするのも、この基板が原因だろう。重大な欠陥がある場合、記憶は完全消去される。けど、例え穴ポコだらけでも、記憶が維持できる可能性は十分にある。ただ、解析には数日要するから、今日はここまで。あくまで、中身の確認に立ち会って貰うため、紺野さん達を呼んだんだ。で……、大体お見せできるところはお見せしましたが、他も見ますか? 手足の可動部とか、頭の中とか」
「いいえ、結構よ。大丈夫。査定に必要な分はきちんと見せていただいたわ。三笠さんからわたくしたちが買い取るってことで、話を進めてよろしいのよね? 川端さん」
「ええ。それでいいはずです。念のため、もう一度確認してから、正式文書でお知らせしますよ。売買契約はその後、そちらで行ってください」
淡々とやりとりをする大人達に、慶一朗は黙っていられず、「あの」と口を挟んだ。
「あの、ハナは。ハナは直ぐに、博物館に飾られてしまうんですか」
ギュッと拳を握りしめ、唇を噛んだ慶一朗を見て、紺野はフッと息を漏らす。
「あら。言わなかった? 博物館に展示した機械人形たちは、全部修理不能になったものばかり。ハナさんはまだ十分動くじゃない。川端さんも、まだ修理不能だという判断はしていない。元に戻るとは言わないまでも、今後の稼働に支障が出るほどではなさそうだと言うことでよろしいわよね?」
「ええ。まぁ、そうです。断言は出来ませんが」
「だ、そうよ。三笠家のご長男君」
「と、いうことは、つまり?」
「完全に動かなくなるまでは、“保護”の形で、きちんとお預かりするわ。わたくしの元でね」
紺野は長いつけまつげをパチンとさせ、慶一朗に軽くウインクをした。それが可愛い少女ならともかく、母親よりも年上の厚化粧の熟年女性。慶一朗は思わず仰け反って、棚に身体を当て、慌てて体勢を立て直した。
「これ。どうぞ」
バッグの中から、紺野は一通のパンフレットを取り出して渡す。
「なんですか、これ。――あっ。骨董機械人形博物館!」
セピア色のパンフレットには、美しいゴシック建築の建造物と、少女の機械人形が印刷されている。中世ヨーロッパを思わせる、美しいドレスで着飾った男女の機械人形が、幻想的で、優雅に写し出されていた。
「骨董価値の高い機械人形中心の博物館だけど、動かなくなった機械人形を展示しているばかりではないのよ。裏方や案内係など、様々なところで機械人形を使っているの。ハナさんなら、きっと博物館に彩りを添える、素敵な機械人形になるわ。機械人形は人と関わってこそ、輝く。そうでしょう?」
紺野の話を聞きながら、パンフレットを眺めていると、不意に、細長い紙切れが数枚パラパラと間から滑り落ちた。慶一朗と輝良斗で、急いでそれらを拾い上げる。
「入場チケット……四、五、六……七枚。これは」
「あげる」
「え?」
「あげるから。いつでもいらっしゃいよ」
厚手の特殊紙に、少女の機械人形の横顔と博物館名が箔押しされた、高級感溢れる入場チケット。
「君たちが大切にしてくれたのと同じくらい……とは言えないかもしれないけれど、彼女が出来るだけ長い間動き続けられるよう、守り続けるわ。……きっとね」
紺野はそう言って、静かに笑った。