4 湖畔の乙女
終点、十和田湖畔休屋にある十和田湖駅でバスを降り、慶一朗は久方ぶりに携帯電話を手にした。うっかり忘れていたわけではなく、どうしても触りたくなくて、ポケットにしまい込み、マナーモードにしておいたのだ。新幹線に乗ってからシャトルバス、路線バスに乗っていた間、やはりというべきか、家からも親からも、そして川端輝良斗からも、着信とメール、メッセージが大量に届いていた。
鉄道会社の運営する駅舎内は、観光案内所と土産屋、二階にはレストランが併設されている。ハナは今度こそ土産を買うと、意気揚々に売店に入ってしまい、あれがいいこれがいいと、品定めを始めたようだ。今ここで買わなくてもと、慶一朗は思ったが、目に付く場所にハナが居て、しかもそれなりに時間を潰してくれるようなので、今のうちにと携帯をいじる。
慶一朗は待合席に座り、荷物を脇に置いて携帯電話を凝視していた。輝良斗のメールを確認しようとして、昼過ぎに、母が寄越したメッセージに目が止まった。
≪慶一朗、そっちは大丈夫? 今どこ? 連絡ちょうだい≫
一番心配していそうな母からのメッセージはこれっきりで、父からのメッセージは全くない。その代わり、二人からは着信が何回かあり、凛々子が帰宅後、ひっきりなしに電話とメールを寄越している。
≪順調なら順調で、メールは?≫
≪こっちはこっちで大変だったんだから。そっちはどうなの≫
要約するとこんな内容で、それが言い方を変え、何度も何度も、嫌がらせのように続いていた。
とりあえず、両親と凛々子、三人に同様のメッセージを送る。
≪十和田湖に着きました。無事です≫
余計なことを書いて心配させてはいけないと、慶一朗は簡素な文面で済ませた。
ハナがまだ物色しているのを確認して、今度は輝良斗に電話をかける。一応、予定通り。夕方五時を過ぎた頃だ。
『やっと繋がった! ダメじゃないか。きちんと連絡をって話だったのに。で、結局、来たのかい?』
のっけから輝良斗は、慶一朗を怒鳴った。受話器から飛び出んばかりの大声で、慶一朗はくっと肩をすくめ、受話器を思い切り耳から離した。
「す、すみません。ちょっといろいろ込み入った事情があって……」
慶一朗は必死に誤魔化し、取り繕うとしたが、輝良斗の怒りは収まらなかった。
『君という人は、あまりにも物事を単純に考えすぎてる。道中、本当はとんでもないことが起きてたんじゃないだろうね? ダメだよ。何かあったらきちんと連絡しないと』
興奮した輝良斗は、なかなか声のトーンを抑えようとしない。受話器からはみ出した声が、待合室中に響いているような気がして、慶一朗は思わず周囲を見回してしまった。
「そ、それより、着きましたけど、会社の場所……メールには記載されてなくて。住所はあったんですが。マップで確認しろってことですか?」
慶一朗は話題を逸らし、何とか会話を続けようと試みた。
すると輝良斗も、思い出したように声を落ち着かせ、
『それね。ちょっと待ってて。実は、そこから歩いて行ける場所にあるもんだから、こっちから迎えに行こうと思って書いてなかったんだ。ちょっと待ってて。えーと、十分くらいかかるかな。ちなみに、どこから電話してる?』
「十和田湖駅の中です。ちょっとなら……、ハナがお土産買っているので、大丈夫かと」
『お、お土産か……。そっか。うん、わかった。じゃ、待ってて』
つくづく、川端輝良斗は忙しい人のようだ。喋るだけ喋ってブツッと電話を切ってしまう。
慶一朗はハナの居る売店へ足を運び、彼女が何を買おうとしているのか、様子を見ることにした。
何してるのと声をかけるよりも先に、ハナの腕の中に沢山の土産品があるのに目が行った。どれもこれも、妹たちが好きそうな、可愛いご当地キャラクターのペンやらハンカチやら、タオルやら。何世紀前の土産品だよと、突っ込みたくもなるが、彼女はそれを可愛いと判断したようだ。腕の中の土産は減る様子がない。何を選んだらいいのか判断できなくなってしまったのか、こぼれ落ちそうな土産品を、絶妙なバランスで持ち続けていた。
「そんなに買うの?」
「あ、慶一朗様! 電話は」
ハナがクルッと振り向いた途端、土産品がバラバラッと床に散らばる。
「ああ! もう。持ちすぎだよ」
慶一朗はサッと屈んで、ハナの落とした商品を、一つ一つ、拾っていく。よく見ると、同じものが四つずつ。凛々子と沙樹子、菜弥子、悠司の分に違いない。第一、文具なんて、三歳の悠司にはまだ早すぎるのに。
「カゴを使えば良かったんだ。ほら、角にある」
慶一朗が言いながらカゴを掴んで中に商品を入れると、ハナは申し訳なさそうにうつむいた。
「気がつきませんでした……。あまりにも珍しい商品ばかりだったものですから」
まだ目的も果たしていないというのに、ハナはどうしても、今ここで土産を買いたいと言う。
「止めやしないけど、ここは観光地だから、他にもお土産屋さんが沢山あるよ」
「そ……、そうなのですか? 旅行など初めてでしたから、全くわかりませんでした。他のお土産屋さんには、こことは違うものもあるのですか?」
「そうだと思うよ。お菓子も、おもちゃも、それぞれの店にあるから、本当なら、帰り道にどの店で買うのかじっくり考えてから、買った方がいいと思うんだけど。そうしないと、荷物になるだろ?」
「ああ、そう、なのですね……。慶一朗様は、何でもご存じなのですね……」
「いやぁ、そうでもないけど……」
旅行というと、留守番だったハナが、土産物屋を珍しく思うのはおかしくない話。
せっかく選んだんだから買おうよと、二人でレジに行き、個別に包んで貰う。綺麗な包装紙と、土産品だと一目でわかるレジ袋に、ハナはまた感動して、レジの店員を驚かせていた。
買い物が終わって待合に戻ると、ビデオ通話で見慣れたつなぎ服の若い男が、長椅子にでっちり座って待っていた。小柄でヒョロッとした短髪の男は、川端輝良斗に違いなかった。
「川端さん!」
慶一朗の声に気づき、輝良斗はよっと右手を挙げる。
「来たね。お疲れ様。本当に、長い旅だったろう」
すっくと立ち上がり、差し出した右手は、慶一朗のよりもずっと、大きくてたくましい。二人、握手を交わし、「まぁ、座って」と、促され、三人、長椅子に腰掛ける。
「ハナさん、初めまして。君を造った川端健吾の玄孫の、輝良斗です。この町、見覚えはある?」
輝良斗はハナの表情を確認しながら、ゆっくりと話しかける。
「うー……ん、どうでしょう。出荷された当時のことは、曖昧で何故か思い出せないのです」
「ま、八十年近く前のことだしね。でも、そんな時代を感じさせないくらい、ハナさんは綺麗なままだ。ありがとう、大事にしてくれて」
と、今度は慶一朗の顔を見て、輝良斗はニッコリ微笑んだ。
「さて、車持ってきたから、一旦荷物積んで、ちょっと観光しようか。日が沈むまであと少し時間もあるし、乙女の像まで歩いて、それから作業場に行って、中身を見てみよう」
「え? 今からですか?」
観光と聞いて、慶一朗は驚きの声を上げるが、
「せっかく十和田湖まで来たのに、観光もしないで帰るの?」
輝良斗はハハハと笑って立ち上がり、慶一朗の持ってきた水色のカートと土産袋を持ち、そそくさと屋外へ出て行ってしまった。
せっかくなんて言われても、気が進まない。第一、今まで狙われ、生きた心地がしなかったのに、どうして突然。
輝良斗に理由を聞こうにも、彼は鼻歌を歌いながら荷物を荷台に積み、ガチャッと鍵を掛けて「こっちこっち」と、手招きする。仕方なく、輝良斗のあとを着いて歩く慶一朗とハナは、もうすっかり、観光客になってしまっていた。
駅を出ると、直ぐ目の前にも土産屋があり、慶一朗はほら言ったとおりだろうとハナに言い聞かせる。綺麗に整備された道の両側に、土産屋と食事処、旅館がが交互にあり、如何にも観光地と言わんばかりの景色に、慶一朗も圧倒される。二十世紀頃に建てられた古い土産屋もあればと、時代に合わせて建て替えられた新しい土産屋や旅館もあり、新旧織り混ざった不思議な空間がしばらく続く。等間隔で植えられた街路樹が、美しく色づき始めるのを眺めながら歩き、土産物屋街を抜けると、食事処が密集した湖の畔に出た。
「そこから、湖岸を歩けるよ。行こう」
輝良斗はそう言って、食事処の間を進む。慶一朗も、ハナの手を取って、あとについて行く。
湖岸を沿うようにして整備された遊歩道の先に、乙女の像なるものがあるらしい。
「高村光太郎って知ってる?」
「いや、知りません」
「詩人で彫刻家だった人。その人の最後の作品らしい。昭和の作品だから、美的感覚が今と違うのかもしれないけど、ぼくは美しい像だと思うよ」
輝良斗が解説しながら、ゆっくりと先導する。
「そういえば、女神がどうのと、バスの中で観光客の方に伺いました。それと、乙女の像は何か関係が?」
「いや、それとは直接関係はないみたいだけどね。美しい湖面を見てイメージして造ったんだとか。高村光太郎は愛妻家で知られていて、自分の妻に向けた詩を沢山残している。だから、あの銅像のモデルは彼女の妻、智恵子なのではないかという人も居るそうだけど、彼は結局、最期まで明言しなかったらしい」
湖岸をゆく遊覧船は、この日最後の航行を終え、岸へと戻っていくところだ。およそ五十分かけ、ゆっくりと湖内を遊覧するそうだ。
「地元の人間はほとんど乗らないけど、観光客には人気だよ。湖の中から眺めた山々は、また格別だからね。本当にゆったりした遊覧なので、時間がある人向けかな」
バスで通り抜けた奥入瀬渓流も、観光客のほとんどは散策目当てで訪れるらしい。小さな滝や岩々の作り出す清流に、一つずつ名前が付けられていて、景色と水、それから空気を堪能しながら、四、五時間かけて歩くのだそうだ。
時間を超越したような場所だと、慶一朗は思う。自分たちの生きている、二十三世紀とは違う、全く別の空間に迷い込んだような緩やかさと、優しさ、清らかさのある場所。
「慶一朗君の聞いた女神の伝説もね、興味深いんだよ。十和田湖に住む女神に惚れた、赤神と黒神が、それぞれ女神をものにしようと、争うんだ。赤神は、秋田県男鹿半島に住む神、黒神は青森県津軽半島に住む神だと言われている。美青年の赤神は、美しい歌と琴の音を響かせる十和田湖の女神に、恋をした。ところが雄々しい黒神もまた、女神に恋をしてしまう。女神は赤神のことも、黒神のことも、好きになってしまい、とうとう二人の男神は決闘することになってしまったんだ。赤神は鹿、黒神は龍を従えて戦った。差は歴然で、結局赤神は負けてしまう。勝利した黒神が喜んだのも束の間、女神はなんと、負傷した赤神の元へ行ってしまうんだ。黒神はショックでね。十和田湖を背にして、大きなため息を吐いたそうだ。その息が本州と北海道に溝、つまり、津軽海峡を作ってしまったと、こういうお話なんだけどね。神様同士なのに、どこか人間くさくて、面白いよね」
へぇと、慶一朗は感嘆の声を上げる。聞いたことのない、昔話だ。
だが、この美しい湖面と、そこに反射する山々の紅葉を見ていると、そんな物語を昔の人が空想したのが、わかる気がする。この場所にふさわしいのは、男神ではなく、女神。繊細な紅葉は、女性的な優しさを持っている。
昔話を聞きながら歩く遊歩道は、奥に奥に、続いていた。足元に気をつけながら、木々の生い茂る林の隣を進んでいくと、十和田湖駅から十分弱で、乙女の像に辿り着く。
日が傾き、湖岸からの風で、肌寒いなか、高い台座の上に裸体の少女が二人、向かい合うようにして立っていた。彼女たちのシルエットは、昔ながらの日本人体型で、慶一朗はお世辞にも、スタイルがいいとは思わなかった。ただ、今にも動き出しそうな二人の手が、互いに振れ合うことなく止まっているのに、心打たれた。
「綺麗な像ですね、慶一朗様」
ハナは少女達を見上げてそう言った。
「うん。本当に」
見上げた先に、少女と紅葉、赤く染まりかけた山々が重なって見えた。