3 渓流
新幹線が青森県に入ると、目の前が一気に開けてくる。八戸の市街地を抜け、おいらせ町、六戸、十和田市を抜けて、七戸十和田駅までは、あっという間だった。車窓から東北の、数百年変わらぬ田園風景を眺め、山々を眺め、うっとりしていたハナを、慶一朗は引っ張るようにして新幹線を降りた。
駅構内の充電スポットで、恐らくこの旅最後の充電を行い、ハナがキオスクでみんなへのお土産を買おうとしているのを必死に止めて、駅南口のバス停へと急ぐ。十和田湖行きのシャトルバスが、そこからでているのだ。輝良斗のメールにあった時刻表によると、午後はこれを逃すと一便もない。乗り遅れたら、タクシーか、別のバスを乗り継ぎながら更に何時間も掛けて向かうことになってしまう。
「せっかく慶一朗様と旅に出ているのに、お土産がなくては、凛々子様も沙樹子様も、菜弥子様も悠司様も、がっかりなさいます。もちろん、信昭様と朋美様にも、きちんとしたお土産をお持ちしなくては。こういうときは、どんなお土産がよろしいのでしょう。やはり、地元の特産品でしょうか。それとも、地域限定グッズでしょうか」
「あのさ、ハナ。悪いけど、お土産は帰り道に買うものだと思うよ。荷物になるし、またこの駅から帰るんだしさ」
帰れるとしたらなのだがと、慶一朗はそこまで出てきた言葉をグッと飲み込んだ。
新幹線内でハナが失った記憶は、思ったよりも広範囲だった。ハナは……、なぜ慶一朗と旅に出たのか、この数日、何が起こったのか、全く、覚えていなかったのだ。
追われる意識のないハナが、自由に行動しようとするのを、慶一朗はどうやって止めればいいのか、わからなかった。彼女の中でこの旅は、慶一朗と二人っきりの、単なる旅行でしかないらしい。目的地の川端製作所の名前を出しても、彼女はピンとこないようで、それは楽しみですねと、見当違いの返事をする。
確かにここ数日は、いろんなことが重なりすぎて、慶一朗も十分頭が混乱してしまっていた。叶うことならば、全て、なかったことにしたい。そう思う気持ちもわかる。かといって、簡単に記憶を消す、時間を巻き戻すなんてことは、できやしない。それを、ハナは自分で――、そんなつもりは一切なかったのかもしれないが、やってのけてしまった。
羨ましい気持ちも、ある。だがそれより、何も知らないハナが、何とも可哀想で、慶一朗はハナの顔をどうしても見ることができないでいた。
駅から出ているシャトルバスは、途中で乗り換えは必要だが、一番効率がいいらしい。新幹線を降りた、十和田湖方面への観光客が十人ほど、バス停で待つ。どうやら、目的地の周辺は観光地になっているようで、皆口々に、観光名所の名を言ったり、地図を開いたりしていた。そのほとんどが年配客。慶一朗とハナは、かなり浮いた存在だ。
バスが到着して乗り込むと、中高年の雰囲気に押しつぶされる。ザワザワと自由にお喋りしていたかと思われた客の視線が、よりにもよって、慶一朗達に注がれたのだ。
「若いっていいわね。二人で観光に来たの?」
七十前後の老婆が、通路の向こうから話しかけてくる。
「あ……、まぁ、そんなところ、です……」
同返事をしたらいいのかわからず、適当に答えると、
「私もね、若い頃、じいさんと一緒に来たものよ。今はじいさんも先立って、友達と一緒だけどね」
品のいい老婆はそう言って、周囲の乗客達を指さした。綿の帽子を被った別の老婆が、慶一朗を見て、言葉をかけてくる。
「いい男ねぇ。あら、こっちのお嬢ちゃんも、美人さんねぇ。私たちも、昔は美人だったのよ」
ワハハハと、数人の老婆が一斉に笑う。
「いやあねぇ、何年前の話よ。五十年前は確かに、引く手あまただったけど、今じゃぁ、手も繋いでくれる相手、居ないものねぇ」
「私ぁ、孫に無理やり手ぇ引かせて、恋人気分味わってるけどね」
「そりゃあ、アレよ。あんたんちは孫まで居るからいいじゃないの。ウチの息子ときたら、結婚の気配すらない。あれじゃあ、孫は無理ね。うちの家系も息子までで終わりだわ」
「何言ってんの。息子が居るだけいいじゃないの。ウチは子作りすら失敗して、今じゃ旦那と二人きり。会話もびったり止んじゃって、息が詰まるのなんの」
「それ言ったら、私なんてその旦那も蒸発して、ずっと独り身よ。ま、一人の方が気楽でいいって開き直ってるけどねぇ」
老婆達の笑い声は、地鳴りのように響いた。
慶一朗は圧倒され、言葉も出なかったが、ハナは逆に興味をそそられたらしい。
「皆様、お元気でよろしいですね。いつまでもはつらつとしていられるなんて、素敵ですね。ここにはよく、おいでになるのですか」
ハナが尋ねると、
「二、三年に一度は来るかしらね。今は秋口だから、紅葉出始めだけど、もっと秋が深くなれば、赤や黄色の葉っぱがトンネルみたいになって、本当に綺麗よ。それから、初夏もいいわね。小さな葉が芽吹いて、その傍らにまだ、雪が残ってるの。山深いからこその風景は、なかなか都市部じゃ味わえないもの」
最初に話しかけてきた老婆が、にこりと答えた。
「でも、若い方はあまりお見かけしませんね」と、ハナ。
「そんなことないわ。夏休みや連休の時は、子供連れもよく見かけるわよ。ホラ、今日は平日だから」
老婆に言われ、慶一朗はハッとした。学校を休んで来ていることを、今更ながら思い出し、後ろめたさを感じる。
「で、二人は恋人同士なの?」
帽子の老婆が尋ねる。
困ったなと、慶一朗は苦笑いし、
「いや、そういう関係では」と言うが、
「お似合いなのに。違うの? でも、顔が似てないから姉弟じゃなさそうだし」
老婆はなかなか引いてくれない。できればそっとして欲しいと、慶一朗が思っても、老婆達の興味は二人からなかなか逸れないようだ。
「慶一朗様は、わたくしのご主人様です。あ、正確には、ご主人様の、ご子息です」
「ハ、ハナ……!」
出発前に、なるべく機械人形だとバレないようにと念を押した記憶など、すっかり消えてしまったハナは、ホラ、これですと、髪の毛を掻き上げ、耳のカフスを老婆に向けた。
老婆達はあらぁとそれぞれ声を上げ、
「よくできてるわねぇ。気がつかなかったわ」
と感心し、ますますハナに好奇心の目を向ける。
「綺麗な機械人形ね。本当に、人間みたい」
褒められると嬉しいのか、ハナはありがとうございますと静かに笑っている。
「そういえば、十和田湖畔には、機械人形職人さんが居たわねぇ。なんてったかしら。昔からあの辺には、綺麗な女の子の人形を作る職人さんが住んでいて、その子孫が作った機械人形は、とにかく美しいって、評判だったじゃない」
「そうそう、確かね、川……なんとか、えっと、ど忘れしちゃった。人形館が近くにあったはずだわ。行ってみるといいわよ」
老婆達の年齢を考えると、丁度、機械人形が一般にも普及しだした頃、幼少期を過ごした世代。ほとんど抵抗もなく、綺麗ねで済ませてくれるのは、ありがたいことかもしれない。
「乙女の像って、銅像も有名よ。二人の少女が向き合った像。それに、赤神黒神伝説に出てくる女神も、十和田湖に住んでいたそうだし、何かと美しい女性に縁がある場所なのよね、あそこは」
長いバスでの時間は、同乗した老婆らのお陰で、苦にはならなかった。
どこからきたの、何しに行くの、から始まって、彼女らの人生観や、果ては政治の話まで好き勝手話して、慶一朗達を和ませる。話にはとても入れなかったが、人生経験の豊富な彼女達は、慶一朗が居心地を悪くしているのもきちんとわかって、何かと話題を振った。
バスはその間に、七戸の市街地を通り、八甲田山系の山々を抜けていく。道中はほとんどが山道で、ぐねぐねのヘアピンカーブが幾つもあり、その度に体が大きく傾いて、ハナが慶一朗に、慶一朗がハナに何度も体を押しつけた。背の高い木々が両側にそびえる道、バスが今にもずり落ちてしまいそうな崖の道をズンズン走り、更に標高が上がっていく。坂道ばかりの路線は、景色はいいのだが、酔いそうだ。胸からこみ上げるものを我慢しつつ、外を眺めてグッと堪える。ハナの前でも、親しく声をかけてくれる老婆達の前でも、粗相はしたくなかった。
慶一朗が苦手な急カーブは、ハナにとっては新鮮なものだったのか、凄いですね、凄いですねと曲がる度に大はしゃぎ。バスの運転士さんが都市部の路線バスとは違って機械人形じゃなく、人間だったのも、彼女にとっては驚きだったようだ。熟練した運転技術で、道幅ギリギリの車体を上手に動かしていく運転士のハンドルさばきを、ハナはどうしても間近で見たくなって、危ないと言っているのに席を立とうとしたり、身を乗り出して通路から運転席を覗こうとしたりと、慶一朗は気が気でなかった。
牧場地に入ると、途端に視界が開け、牛が何十頭も放牧されているのが間近に見えた。慶一朗様、牛です牛ですと、当たり前のことをハナは子供のように喜んだ。家の近所では犬猫程度しか見かけない昨今、大型のほ乳類が、動物園の外で見れることに、ハナは大感動したようだ。白黒のまだら模様が散った丘を、ハナはうっとりと眺め、凄いですね、凄いですねを連発する。
それからまた、何回かヘアピンカーブを経験し、比較的なだらかな山道を通って更に進むと、いよいよ、道路の直ぐそばに渓流が迫ってきた。山々から流れ出るわき水を集めた川筋は、道路に沿うようにして続いていく。
木々の合間から降り注ぐ日の光、眩しいくらいに輝く水面、サワサワと涼しげな水の音。開け放したバスの車窓からは、爽やかな空気が入り込む。少し寒いと感じてしまうくらい、気持ちの良い風が、バスの中を抜ける。
綺麗だと、慶一朗は素直に思った。
隣に座るハナも、車窓からの景色を堪能し、にこやかに微笑んでいる。
彼女が機械人形ではなくて、ただの女の子なら。最高のデートだったと、慶一朗は思う。
これが、この旅が、ハナの不具合を直して貰うためのものでなかったなら、どんなによかったか。
――『全ての忌まわしい出来事を洗い流してくれるんじゃないかってくらい、美しい場所よ』
機械人形鑑定士の紺野が、新幹線の中で言った、その通りだ。
ハナが倒れたことも、動かなくなったことも、どうしていいかわからず震えた夜も。ハナの謄本が盗まれ、紺野らが家を訪れ、ハナに値段を付けようとしたことも。それから、ハナを沢山の人たちが狙っていて、ハナが06と呼ばれる価値のある機械人形で、修理しようにも、できない状態で。父が行こうとしているのを振り切って、自分が青森に行きますと大口を叩いて、出発したのはいいけれど、感情基板の存在を知らされ、どうにもこうにも、追われるという事実は避けられないのだと思い知らされて。そんなこと、ハナは全部忘れてしまって、何気ない日常を取り戻したかのように見えるが、これは全部、ただ、ほんの一瞬、束の間の休息に過ぎない。そんなことも、何もかも、洗い流してくれそうな、……川の流れが、眼下に見えた。
バスは十和田湖温泉郷に入る。そこで、楽しい会話を提供してくれた老婆達はこぞってバスを降りた。今日は温泉地で一泊し、明日改めて、奥入瀬渓流を散策するのだという。
ありがとうございますと、慶一朗とハナは深々と礼をし、別れを告げる。
慶一朗たちはその後、終点焼山の停留所で降り、そこから路線バスに乗り換えた。
観光バスも兼ねたそれは、数分ごとに停車を繰り返した。観光客の自家用車も、十和田湖周囲で暮らす住民の車も、一本しかない道を、ノロノロ進む。渋滞がなければすうっと通れそうな道も、途中途中、景色を眺めるために路肩に駐車した車の群れに遮られ、上手く進まない。だがそれは、ここでは当たり前の光景らしく、バスの乗客誰一人文句を言うこともなく、ただ外の景色に見とれていた。
シャトルバスで一緒だった老婆らの話では、観光シーズンが本格化するのは紅葉の時期、十月から十一月の始めくらいまで。今は時期がずれているため、観光客は少なめらしい。 背の高いバスの窓から見下ろすと、木々の根までクッキリ見えるほど山が迫っていて、様々な種類の木々がうっそうと茂る山の中をじっくり観察できるのが、案外面白い。観光など全く興味のない慶一朗も、知らぬ間に、ハナと一緒に景色を楽しんでいた。
道路から少し外れたところに目をやると、トレッキングをする人々がチラホラ。渓流の直ぐそばを散策すると言っていた老婆達の目的はこれかと、慶一朗とハナはうなずき合う。
石ヶ戸の休憩所を過ぎると、バスは馬門岩、雲井の滝、雲井の流れを通って、銚子大滝に到達する。道路を降りた遊歩道からなら雄大な滝の流れを拝めるようだが、旅の目的を考え、ハナには我慢して貰う。次第に道路は渓流から離れ、正面がどんどん開けていくと、大きな湖が眼前に広がった。
大きく丁字路を左に曲がり、右手に静かな湖面を見る。木々の合間から覗く湖は、確かに女神でも住んでいそうな、美しいところだ。
子ノ口から宇樽部までは、湖の景色を眺めながら進む。観光船が数隻、弧を描いていくのが見える。
そこから更に進み、バスは住宅地、ホテル、旅館の連なる十和田湖の町の中へ。
ようやく慶一朗とハナは、旅の目的地、川端製作所のある十和田湖畔へ辿り着いたのだった。




