2 記憶障害
ハナの体が、重い。表面温度が、低くなってきている。
慶一朗の頭から、スーッと血の気が引いていく。
何が起きた、何を言った、何でこうなった。
ハナの頭を抱え、呼びかけても返事がない。これは、この症状は。あのときと同じ――。
「あなたが……、原因だったのか。あなたがハナを……」
こみ上げる怒りを必死に押さえ、とにかくハナを何とかしなくてはと、自分の肩をハナの下に入れ、彼女の体を浮かそうとする。
「お、重い……」
力の抜けたハナは、信じられないほど重い。
「わたくしが、手伝いましょう」
後ろの座席に座っていた秘書の長村がサッと現れ、紺野に席を立つよう促した。背の高い長村は、屈んでいた慶一朗にも「どきなさい」と声をかけ、ハナの体の下に腕を入れた。慶一朗が踏ん張っても全く動かなかったハナを、長村は軽々と持ち上げ、肘掛けを上げた三列シートにそっと横たわらせる。
「あ……、ありがとうございます」
申し訳なさそうにペコッと頭を垂れて礼を言うと、
「機械人形は、見た目よりもずっと重い。人間もそうですが、自立していない場合は特に、力が要ります。機械人形調律師を目指しているなら、体力も必要ですよ」
いつの間にそんなことを。誰に聞いたのだと警戒する慶一朗に、
「先日お邪魔したときに、あなたのご両親から伺ったのですよ。今勉強中のご子息が居らっしゃると。それもこれも、ハナさんのためなのだと、おっしゃっていましたね」
長村は見た目こそ強面だが、紺野よりもずっと、人当たりが良い。
車両の後方がにわかにざわめき始め、何人かが席を立って、慶一朗達の側までやってきた。心配そうな顔で大丈夫ですかと声をかけるのに、慶一朗が上手く返事ができないでいると、すかさず長村が、「ご心配おかけしております。大丈夫です。どうぞ席にお戻りください」と声をかける。
「このお嬢ちゃんも、やっぱり、言葉に反応したのね。どうなってるのかしら」
横たわるハナを見下ろして、紺野が言う。
「言葉? さっきの、“ブラック……”なんとかって、一体」
「“黒い箱の乙女”。川端製作所06シリーズスペシャルモデルの別称よ。黒い箱が埋め込まれた乙女ってことね。箱の中身は、感情基板。感情を司る、大事な基板が入ってる。彼女たちは、基板が狙われてるってことを、何らかの手段で知っていたのね。別称は骨董商や闇市場での愛称。つまり、その名前で呼ばれることに対して、彼女たちは機械人形ながらに、恐怖に似たものを感じ取っていると推測されるわけ。……もしくは、そう感じているように見せる、プログラムが働いたか」
「じゃ、じゃあ、他のスペシャルモデルも」
「ええ。意識を失ったり、意識レベルを著しく低下させたり、起動停止したり、散々だったわ。まさかこのお嬢ちゃんにも同じ症状が出るだなんて、思ってもいなかったけど。これでハッキリしたわね。川端製作所は、別称を耳にしたときに動きが止まるよう、彼女たちに最初から仕組んでいた……、もしくは、メンテナンスの段階で、そういうプログラムを落とし込んでおいた。そういうことのようね。で、長村、どう?」
「はい、大丈夫です。意識レベルが落ちているだけで、復帰は可能です」
長村はハナの体に耳を当て、起動音を確認した。それからハナの体をグイッと背もたれ側に倒し、背中をめくる。
慶一朗は思わず手を出したくなって……、ぐっと、堪えた。長村がハナの体に触れたのは、修理のためだ。
背中の四角い扉を開け、プレートを外し、液晶を確認。長村は作業工程を確認するように独り言を呟きながら、ボタンを幾つか同時に押した。
「これで、大丈夫です。あと五分程度で意識レベルが戻ります」
「ありがとう、長村。やっぱり、頼りになるわね」
どうやら長村は、機械人形調律師。機械人形鑑定士の紺野に同行し、何かあったら対処する役目も負っているようだ。
ハナの洋服を直し、体の向きを戻して仰向けにさせると、長村はスッと立ち上がって、スーツの襟を正した。
「自己防衛しているつもりなのかもしれません。別称を知る人物に、秘密を話したくないばかりに、防御プログラムが働いて動作を停止してしまっていると考えるのが妥当でしょう。壊れたから価値がない、触れて欲しくないと、彼女たちは思っているのかもしれません。それがプログラムによってなのか、それとも、感情基板によって形成された“心”によるものなのかは……、現時点ではハッキリしませんが」
通路に立ち尽くし、気の抜けた慶一朗の肩を、長村がそっと撫でる。
「安心しなさい。わたくしたちがこの場でハナさんを狙うことは、まずありませんよ。ね、先生」
すると紺野も、
「ええ。高すぎて、手が出せなかったもの」と笑う。
「大抵、八桁積まれたらうんと言うモノよ。あなたのお父様は、これから何が起きるかわかっていて、それでも、わたくしたちの提案を拒否した。無理なものは無理なのよね。わかっていたわ。公園でお嬢ちゃんを見かけたときから、ずっとね」
フフッと小さく笑いをこぼし、紺野は車両の壁に寄りかかって、腕を組んだ。
「美しい機械人形は好きよ。だから、鑑定士なんてやっているんだもの。古くても大事にされ、美しさを保っていた機械人形は、沢山居たわ。特に06シリーズは愛玩用。裕福な家庭で、お人形さんみたいに着飾って、愛人のように過ごしている人形もいた。資産家のステータスと言っても過言じゃかったわ。でも、田舎町の子沢山世帯に同居するこのお嬢ちゃんの方が、なぜかしら、幸せそうに見えたのよね。彼女らに、そんな感覚、あるわけないのに」
機械人形鑑定士紺野めぐみ……、サングラス越しにハナを見る、彼女の目は優しかった。若作りはしているが、年と経験を重ねた貫禄は、伊達ではない。家に尋ねてきたあの日、慶一朗は紺野のことを、横柄な態度で憎らしい女だと思っていた。あれは、わざとだったのだろうか。
「世の中に、お金よりも大切なものがあると知っている人は、強いわ。本当に、それが揺るぎないものならね。ただそれが、絶対的な価値観だという過信は恐ろしい結果を生む。世の中、理想通りには行かないものよね。だから、わたくしたちのような仕事があるんですもの」
シートに横たわったハナの手が、ピクンと動いた。
紺野と長村を押しのけ、慶一朗が側に寄る。傍らに膝を付き、そっとハナの手を握りしめてやる。
「ハナ。ハナ、大丈夫?」
うっすらと目を開け、ハナはしばらく、天井を眺めた。視界に慶一朗が居るのを確認し、ハナはぼんやりと呟いた。
「慶一朗、様……。わたくしは……」
乱れた髪の毛を、慶一朗はそっと撫で、長いため息を吐く。
「よかった……。どうなってしまうのかと」
動かなくなったのは、ほんの五分程度だったが、ハナはまるで長い眠りから覚めたよう。
「ここは、どこでしょう。わたくしは、何をしていたのでしょう」
薄く開いた目が、右往左往する。そして赤い女のシルエットが、ハナの視界に映り込んだ。
「ど……、どなたですか? あれ? わたくしは家に。違う。移動、しているのですか?」
バッと起き上がり、周囲を見回すハナ。
様子がおかしい。
「ハナ、落ち着いて」
慶一朗が諭しても、ハナはキョロキョロを止めない。
「慶一朗様、わたくしは、わたくしは」
「新幹線の中だよ。青森行きの。今朝から一緒に、電車に乗ってただろう」
「電車? 新幹線? 本当ですか? わたくし、電車に乗るのは初めてなのですよ」
座席から降り、横を向いてハナは車窓にかじりつく。新幹線はいつの間にかトンネルに入っていて、外は真っ暗だ。長いトンネルなのだろうか、景色は一向に見えてこない。
「慶一朗様、これが新幹線ですか? お外が……、見えません。残念です。新幹線からの景色は美しいと、聞いたことがありましたのに」
残念そうに体を戻し、何ごともなかったように、ハナは席に座った。そして改めて慶一朗の方を向き、
「どうなさったのですか? 慶一朗様。それにしても、新幹線は面白いですね。振動が殆どない。信昭様のお車とは全然違います」
……にっこり、笑う。
「どう、なってるんだ……」
慶一朗の顔は見る見る青ざめ、ヨロッと体が傾いた。
「さっきまで、普通に会話してたのに。動かなくなったら急に」
朝からの記憶は、どうしてしまったのか。
新幹線に乗っていることも、朝早くに家を出たことも、まるで覚えていない。それどころか、さっきは震えるほど怖がっていた鑑定士の紺野のことも、全く覚えていないのか、姿を見ても反応すらしない。
「記憶を……、リセットしたようですね。こういう、仕組みなのでしょうか」
長村も、驚きを隠せない様子。サングラスの下で目を見開き、冷や汗を流している。
「わからないわ。でも、お嬢ちゃんの記憶が、何日か遡ってしまったのは確かなようよ。玄関ドアを開けたときに見せた表情とは、全然違うもの。わたくしたちが公園で見かけたことも、彼女は覚えていないんじゃないかしら」
眉間にしわ寄せ、紺野もかなり驚いていた。
「長村。機械人形が、自分で不都合な記憶を消すなんて聞いたこと、あって?」
「いいえ。初めてのケースです。ただ彼女には、意図的にやったという意識はないでしょうね」
「……記憶、障、害」
慶一朗の口から、ポロッと言葉がこぼれる。
「ハナのメンテしてくれてる調律師さんが言ってたんだ。『記憶系統に、明らかな欠陥がある』『所々記憶が消えている』……確か、そんなことを。これが……、これが原因だったんだ……」
修理の必要があるとは言われたものの、修正プログラムのお陰か、特に何の違和感もなく今まで過ごしていた。が、これは……、この症状は。凛々子たちの前でハナが倒れた直後も、このような状態だったのだとしたら、どんなにショックを受けただろう。
田所調律で、ハナの体の中を見せて貰ったときにはまだ、事の重大性に気がついていなかった慶一朗は、改めてあの日、田所に説明された事項を順々に思い出していた。
謄本と型番が違うことも、田所調律で取説が直ぐに見つからなかったことも、今ならば納得できる。黒い箱はスペシャルモデルの証――田所の先代らは、知っていて、ハナを守るためにみんなでひた隠しに――、慶一朗の祖父も、曾祖父も、みんな知ってて、ハナを少しでも守ろうと。そしてハナ自身も、自分の秘密を余所に漏らさないよう、秘密がバレそうになると記憶を消し、自己防衛しているのだとしたら。
川端輝良斗がどうしても、自分に修理させて欲しいといった理由が、ようやく、わかってきた。輝良斗はこの秘密を、できるだけ口外したくなかったのだ。今の持ち主である父の信昭にも……、慶一朗にも。何も知らせず、できるだけ穏便に事を済ませようと、向こうは向こうで必死だった。だから、青森の奥地から何とかして修理に来ようと。
この、記憶障害は、直りようがないのかもしれないと、慶一朗は思い始めた。
彼女が自分と家族を守るための無意識の行為は、狙われるづける限り、延々と続く。“黒い箱の乙女”という言葉が鍵になっているなら、その言葉を誰かがうっかり口走っただけで、彼女はまた、同じように記憶を消すのだろう。そうして、彼女の時間はどんどん巻き戻り、やがて、……やがて、全てを。
「川端製作所へ行くなら、今のお嬢ちゃんの状態をしっかり説明して、キッチリ直して貰うことね。このままだと、お嬢ちゃんは」
眉間にシワを寄せたまま、紺野は神妙な面持ちで、慶一朗に話しかける。
「――この先のセリフは、言わないでおくわ。口に出して、本当にそうなったら、わたくしはきっと恨まれますものね。それより、今は二人で旅を楽しみなさい」
「え?」
「川端製作所までの道のりは、遠い。でも、素敵な場所よ。彼女にあの美しい景色を見せてあげるのね。そうして、絶対に忘れないよう、二人だけの時間を過ごした方が良いわ」
紺野は突然、妙な提案をする。
慶一朗とハナは、顔を見合わせ、どうしたのだろうと互いに首を傾げた。
「全ての忌まわしい出来事を洗い流してくれるんじゃないかってくらい、美しい場所よ。そして、美しい女神の伝説がある、静かな湖のある場所。家電製品は十年、二十年で寿命を迎えるというのに、お嬢ちゃんは七十年以上経っても現役なんて、それだけでも凄いことでしょ? 人間で言うなら、もうおばあちゃん。わたくしよりずっと、年上なのよ? 今までの苦労を癒やしてあげるくらい、あなたにもできるのじゃなくて?」
最後にニコッと優しく微笑み、
「行きましょう、長村」
紺野は車両から去った。
沢山の機械人形を見てきただろう彼女を、何故か慶一朗は、少しだけ、身近に感じていた。