1 車窓
去年の春から、平日は午前7時23分の電車に揺られ、西川市にある県立の工業高校へと通っている。車窓に広がるのは田園風景ばかりで、最初は退屈で仕方がなかったが、徐々に時間の使い方を覚え、近頃はほとんど混まない車内で、ゆったり授業の予習をするまでになっていた。同じ中学から西川市の高校へ進んだのは、あいにくほとんど絡んだことのない連中だけで、慶一朗と同じ工業高校へ進んだ者は他にいなかった。
西川工業高校は西川市の端、駅からは最も遠いところにある。だから、他の学校の生徒達が西川駅で降り、徒歩や自転車で学校へ向かうのとは別に、慶一朗は学校行きのバスに乗る。そこからまた、片道数十分、学校前の停留所までバスに揺られるのだ。
体力には自信があったが、一年の一学期は毎日くたくたで、勉強どころではなかった。毎日こんなに時間がかかるのかと、自分で選んだ道だというのに、後悔もした。
電車とバスの乗り継ぎに加え、東永駅から家まではずっと上り坂。朝は下りだからまだいいが、夕方帰ってくるときには体力も限界に達していて、何度か駅で仮眠を取った。うっかり寝過ごして、携帯にハナから大丈夫ですかと着信があったことも。口から垂れたヨダレを拭き、ぼうっとした頭を叩いて自転車を引っ張り、家に辿り着くともう、日がどっぷり暮れていて、玄関先でハナと悠司が仲良く手を振って帰りを待っていたこともあった。
雨の日も風の日も、必死になって通っているのはハナのため。ハナと、自分の時間を持ち続けたいと思っているから。
そんな日々が、ある日突然、途切れてしまった。
慶一朗は、ハナと一緒に電車に揺られながら、何気ない日々を羨んでいた。
「慶一朗様、朝ご飯は済みましたか?」
いつもとは違う方向へ進む電車。ボックス席に向かいに座るハナが、すっかり手の止まった慶一朗の箸先を見ながら尋ねる。
「あ。いや、まだだよ」
好物の唐揚げを摘まんだ箸は、なかなか口元へは行かなかった。
始発の電車は空いていた。
通学電車が混んでいる、というわけでもないが、普段よりもっとスカスカで、まるで貸しきりのようだ。同じ車両には他に数人乗っているだけ。スーツ姿のビジネスマンと、旅行帰りらしき老夫婦。席も離れているし、顔を合わせる必要もない。
車窓に目をやると、どんどん山が迫ってきていて、ああ、本当に自分はハナと旅に出たのだと痛感する。いつもなら、西川の市街地が目に入ってくるはずなのに。
濃い緑色が折り重なり、様々な景色を作る。田んぼだったり、あぜ道だったり、背の高い一本松、山を形作る広葉樹……。ビュンビュン景色が飛んでいく。
「わたくし、電車は初めてなのですよ。ガタンゴトンと、定期的に刺激があるのですね」
慶一朗は言われて、そういえばハナはいつも留守番だったと思い出した。
機械人形だろうが何だろうが、電車やバス、タクシーから飛行機、旅館、ホテルまで、人型をしていればお金を取るから困ったものだと、良く父がぼやいていた。本当は、ハナのことも一緒に連れて行きたいのだけれど、自家用車では行けないところに旅するときは、ハナを置いて行かざるを得なかった。
子供の数がどんどん増え、五人になったときには、家族で旅行に出ることさえなくなった。慶一朗でさえ、高校に上がるまでの間、ほんの数回しか電車には乗ったことがなかった。飛行機なんて、一度も乗ったことがない。
世の中、様々な方面で超高速化が進んでいるが、田舎の時間は相変わらずゆっくりだ。
高速化を進めようにも、肝心の人間がどんどん減っている。過疎が進めばそれだけ需要も減るとあって、百年前の高速道路網計画が頓挫したり、リニアモーターカーの延伸が中止されたりと、二十三世紀になっても、百年前、二百年前と同じような時間が経過している。
機械人形が増えたのも、やはり過疎が原因だと言う。
一方では過疎のために人々の移動の高速化が削がれ、一方では過疎のために労働力の機械化が進む。
両極端の現実は、社会のねじ曲がった人口比を如実に表していて、テレビや新聞では連日、何故日本は衰退したのかだの、発展させる方法を見誤ったのは何々政権の時代が原因だの、どうでもいい議論を繰り広げているほどだ。
皮肉なことに、過疎の加速化が激しい地域ほど、機械人形の浸透率が高い。周りを見渡せば、人間の数よりも機械人形の数の多い自治体もあるらしい。
ぼんやりしながら窓の外を眺め、慶一朗は一口、一口、味わうように、弁当のおかずを摘まんだ。始発に間に合うように作ったってことは、かなり早起きをしたんだと、母の顔を思い出す。凛々子も沙樹子も、ハナの準備をするのに、慶一朗よりも早く起きていた。自分だけが必死なんじゃなくて、みんなも。そう思うと、涙腺が緩くなって、慌ててギュッと目を瞑った。
「どうなさいましたか、慶一朗様」
ハナは慶一朗の様子がおかしいのを察し、覗くようにして声をかける。
「いや。何でも。それより、充電は、大丈夫?」
「はい。昨晩はしっかり100%まで充電いたしました。でも、わたくし、長時間の移動は初めてですので、どれくらい持つのかわかりません。移動に支障が出る前にお知らせいたしますが、数度充電する可能性もありますから、そのときはよろしくお願いしますね」
「携帯バッテリーも入ってるっていうし、何とかなるよ。……多分ね」
小さく、『多分』と付け足したのを聞いて、ハナがまた、困ったような顔をする。
「心配ですか」
「心配」
「なるべく、負担にならないよう、心がけますから」
「いや、そうじゃなくて。家族のこととか、無事に……、向こうまで着けるのかとか」
「心配なさらずとも大丈夫だと、信昭様がおっしゃっていました」
「口だけだよ。本当は、どうなるのか誰にもわからない。でも、今、俺にできることはこれくらいだから」
各駅停車の車内には、駅に着く度、数人の乗客があった。それでも、スカスカなのは変わらず、ゆったりと時間が過ぎていく。
つなぎ目の多い田舎の線路。旧型車両は老朽化して、サビだらけ。床の汚れは取れず、つり革も座席のシートも切れかかっている。レトロ列車はガタンゴトン、ガタンゴトン。ハナはその音が気に入って、リズムに乗るように体を揺らす。
食べきった弁当を片付け、携帯電話を眺めながら、慶一朗もようやく椅子に身をゆだねた。もう一度、ルートの確認。終点の駅で乗り換え、そこからまた、数回の乗り継ぎを経たあと、新幹線で北を目指す。北海道東北新幹線を七戸十和田駅で降り、十和田湖へ向かうのだ。よりにもよって、何でこんな所にと思うほど遠い場所。古い観光地だから、そこそこバスはあるだろうが、地図で見るに山の中で、とても交通の便がいいとは思えない。一応の目安が川端輝良斗のメールにはあったが、果たしてこの通りに行けるのかどうか。本当に順調にいけたとして、夕方には着く。が、ハナの充電タイムもあるだろうし、信昭が言っていたように、夜に着くというのが妥当だろう。
もし、父の方が行くことになっていたら、移動手段は別のものになっていた可能性もある。自家用車かレンタカーなら、時間を気にせず行けたのかも。バイクの免許は持っているが、それだけじゃどうにもならない。それに、未成年じゃ、バイクを借りたくても借りられないわけで。
「今頃ウチでは何してるかな。大丈夫かな」
「どうでしょう。久しぶりに朋美様が朝の家事をなさっていますし、お嬢様方を送り出し、真紀様がおいでになるまでの間はお忙しいでしょうね」
気を紛らせようと適当に呟いた一言に、ハナは律儀に返してくる。
それが何だかとても申し訳なくて、慶一朗はハハッと乾いた声で笑った。
「ハナはいっつも、家事のことばっかり気にしてるのな。愛玩用、じゃなかったっけ?」
「元々はそうですが、わたくしは決して、三笠家の皆様に愛でていただくためだけに存在しているのではないと、わかっていますから。何のために家事育児用プログラムをダウンロードしたとお思いですか。せっかくお買い上げいただいたのに、役に立たずに捨てられてしまうのは、やはり機械人形といえど、嫌なものです。必要とされたいからこそ、わたくしはわたくしのできることを精一杯やりたいと思ったのですよ」
ハナはぷんと怒ったように頬を膨らませた。目線まで反らして、ふくれっ面を見せている。
それにしても、ハナは他の機械人形に比べて、表情も感性も豊かだ。
当然、人間には及ばないが、その辺で見かける機械人形より、ずっと人間らしく見える。これが、高値の理由なのだろうかと、ふと考える。
周囲の工業用、商業用機械人形を見ると、どれもこれも、作り笑いばかりで、確かに人型ではあるが、それ以上の存在ではないと割り切ることができる。ここも人手不足かという、納得材料としての機械人形ばかり。
「ハナは、他の機械人形のことを、どう見てるの。やっぱり、何か感じることはあるの」
気晴らしにそんなことを聞いてみる。
ハナは困ったように眉をひそめたが、そうですねと観念したように答えた。
「わたくしは、他の機械人形も、わたくしと同じ存在だと思っていますが、慶一朗様から見ると、何か違いがあるのですか。どの機械人形も、人間の指示命令に従い、役割を果たそうと必死に動いています。プログラムや構造に多少の差はあれど、全ての機械人形は、人間の暮らしをより豊かにするため、日々頑張って動いているのですよ」
ふぅんと、気のない返事をして、慶一朗はまた、車窓を眺めた。
田んぼが徐々に色づき、穂を垂れているのが見える。今年は台風の影響も少なく、生育も順調なのだと、確か、先週辺り、通学電車で誰かが話していたのを思い出す。
のどかな田園風景は、次第に住宅街へ。古い家屋と新しい家屋の混じる街並みは、どこか懐かしい。尤も、慶一朗にとってはゆかりのない土地。修学旅行で通過したくらいしか接点のない、遠い土地の景色。それがしばらく続いたかと思うと、今度は大小様々な看板が少しずつ視界に入ってくる。背の低い古びたビルを追い抜くように、塔のような細長いビルがあちこちにそびえ立つ、如何にも新世紀都市的な風景が奥に見える。灰色の景色はどこか荒涼としている。そこに沢山の命や生活が密集しているのだとわかっていても、慶一朗には何故か、車窓に映る景色が華やかには映らなかった。
ハナとの会話も尽き、ただぼんやりと電車に揺られる。
胸の奥でくすぶる不安を、どう収めたらいいのか。慶一朗はただ、それだけをずっと考えていた。