5 行ってきます
朝5時の目覚ましで飛び起き、身なりを整え荷物を持ってリビングへ行くと、両親と凛々子、沙樹子が起きて、ハナの身支度をしていた。
長旅だというのに、ハナは細かい花柄の、丈のスカートを履かされている。スリットが入っているとはいえ、歩きづらそうだが大丈夫かと慶一朗が不安な顔で覗くのを余所に、凛々子と沙樹子は、コーディネートがどうのこうの、やっぱりボレロを合わせましょうかとか、ここはこのまま、肩のラインを見せた方が可愛いとか、どうでもいいことを話し合っていた。
下の二人、菜弥子と悠司はまだ寝ているようだ。昨日の今日で起こすのは可哀想だし、本当は行ってきますと言いたかったけれど、仕方ない。
「慶一朗、ハナを、頼むぞ」
父の信昭が、改めて言う。
「お願いね。慶一朗も、無理しないで」
母の朋美は、胸が張り裂けそうな想いでいるのだろう、泣きそうな顔をしている。
「大丈夫。案内された場所に連れて行って、修理して貰うだけだから。それより、父さんと母さんの方も、小さい子達のこと、頼むよ。ハナが居なくて寂しがるだろうから。それに、変な人たちが来ないよう対策するのと、追い払うのも。真紀おばさんにもちゃんと言っといてよ。やたらと玄関開けるなって」
「わかってるわよ。いやね。急に大人びたこと言い出して」
母は潤んだ目をそっと指で拭き取った。
「慶兄、これ荷物」
沙樹子が寄越したキャリーバッグ。ピンク地に白の水玉模様。頑張って小さくまとめた……つもりなのだろう。
「ハナちゃんに持たせるんじゃないよ。慶兄が持つんだよ。わかる?」
やっぱりか。
いくら機械人形だからって、女の子は女の子。気持ちはわからないではないが、自分の荷物も考えると、何とも微妙になってしまう。
「中に、充電用のコードと、携帯バッテリーが入ってる。充電スポット、わかるよな?」
と、父。
「ああ、大丈夫。機械人形用の充電ステーションだろ?」
「そう。変なところで充電すると、窃盗罪になるから気をつけろ」
「大丈夫だよ。そんな馬鹿なこと、しないって」
始発に間に合うよう、朝食は車内で摂りなさいと、朋美が弁当を渡してくれる。使い捨て容器の透明なフタから、唐揚げだのサラダだの、いつの間に作ったんだろう、慶一朗の好きなおかずが覗いていた。
「川端さんからのメールは、そっちに転送しておいた。それから、お前の電話番号とメールアドレスも、川端さんに教えておいたから、直接そっちに連絡が行くだろう。こっちのことは心配しなくてもいい。が、そっちはそっちで、今どこに居るのか、何かあったら、逐一連絡するように」
父に言われて携帯電話を取り出すと、確かにメールが届いている。添付ファイルを開くと、画面いっぱいに、細かくメモの施された地図が表示された。数枚の画像ファイルに、道程を表した簡単なメモ。この通りに行けば、辿り着くらしい。
「到着するのは、夜だな。丸一日かかる。無理するなよ」
うんと、大きくうなずいて、慶一朗は腕時計を確認した。
もうそろそろ行かないと、間に合わなくなりそうだ。
「じゃ、行こう。送り、頼むよ」
「ハナも、車に」
荷物を持って、玄関へ行こうとする慶一朗達を、「お待ちください」と、ハナが突然引き留めた。リビングに立ったまま動こうとしないハナ。どうしたのだろうと首を傾げると、ハナは一人ずつ、顔を確かめるように目配せした。
「信昭様、朋美様、凛々子様、沙樹子様。それから、慶一朗様。今まで……、ありがとうございました。わたくしは、機械人形として三笠家で過ごせたことを、本当に、嬉しく思います。同じ機械人形の仲間が、人間と同等に扱われることの少ないことは、よく存じております。そんななか、わたくしを家族の一員として迎え、過ごされてきた皆様には、どんなに感謝しても、しきれいほど。沢山の命に触れあい、緩やかな日々を過ごすことができ、わたくしは、幸せでした」
いつもと変わらぬ笑みで、ハナは言う。
だがそれは、ハナの口からは絶対に聞きたくなかった……。
「“でした”は、過去のことに対して言う言葉だ」
慶一朗は、思わず言い返していた。
「もう一度、戻ってくるんだから、“でした”なんて言うなよ」
しかしハナは、引かなかった。
「いいえ、本当に、幸せ“でした”。わたくしの故障の本当の原因がわからず、古いが故に完全な修理ができなかった場合、最悪わたくしは、三笠家に戻ってくることができなくなるのではないのですか」
ハナの言葉に、凛々子も沙樹子も、息を飲んでいる。
「嘘……。ハナちゃん、戻って、これなくなるかもしれないの?」
沙樹子は目にいっぱい涙を浮かべ、眉を八の字にしてハナと慶一朗、両親の顔を交互に見ている。目を合わそうとしない親たちに、沙樹子は「ホントなんだ」と、追い詰められたように涙を流す。
「希望を持つときは、最高の結果だけを予想し続けることだ。沙樹子、大丈夫。ハナは戻ってくる」
涙でぐちゃぐちゃになった沙樹子を抱き寄せる父。
しかし、その顔は少しも笑っていなかった。
「ハナは、初めての長旅で少し緊張しているのよ。笑顔で『いってらっしゃい』してあげなさい」
母も言うが、やはり、寂しそうな顔をしている。
目に浮かんだ涙がこぼれないよう堪えながら、朋美はそっと、両手を差し出し、ハナの両手を握りしめた。
「ありがとう。あなたが居たから、こんなに子供をもうけることができたのよ。あなたは、ただの機械人形じゃない。大切な、大切な家族。みんな待ってるから、ちゃんと帰ってくるのよ」
「わかりました。朋美様、わたくしが居ない間、ご負担でしょうが、よろしくお願いします。特に悠司様は、目が覚めてわたくしが居ないことを、不思議に思うでしょう。わたくしが機械人形であること、不具合を直しに行ったことを、よく、お伝え願えますか」
「ええ。ええ。そうする。馬鹿ね、ハナ。私は母親よ。それくらい、できるわよ」
「悠司様は、寂しがり屋です。それに、南里の真紀おば様には、人見知りするかもしれません。せっかく取れた夜のオムツも、いつもと違うことが起きると、元に戻ってしまうかもしれません。菜弥子様も、気丈にしてはいらっしゃいますが、頻繁に目を掛けてあげなければならない年頃です。宿題も、日々の準備も、根気よく付き合ってあげなければなりません。それから、沙樹子様はよくお手伝いしてくださいますが、うっかりでよく怪我をなさいます。この間も包丁で指を切ってしまいました。洗濯物の畳み方は上手になりましたが、お料理の手伝いはまだまだです。包丁を使う作業でなければ、テキパキ動けるようになりましたから、料理の際は参考になさってください。凛々子様も、学校には慣れてきたようですが、通学距離が長くなって勉強が」
「わかってる。わかってる、わかってる……」
ハナの言葉を、朋美は最後まで聞くことができなかった。
聞いてしまえば、泣いてしまうどころじゃなくなるのは、わかっていた。
「子供達の世話も、庭の野菜の世話も、掃除も、洗濯も、お料理も、大丈夫。一人でやれるわ。真紀さんも来るんだし。心配なんていらないんだから。あなたは慶一朗と、川端さんのところで直して貰うことだけ考えていればいいのよ」
「朋美様……」
ハナも、それ以上は言わなかった。
玄関までの短い廊下を進み、慶一朗は黒のスニーカーを、ハナは茶色の革靴を履く。肩に黒のリュックを背負い、手には水玉のキャリーバッグを持って、「OK?」ハナに確認を取る。いいですよと、ハナは深くうなずいて、つば広の麦わら帽子を被った。
「カフス、見えないように気をつけて」
朋美が言う。
「はい。そういたします」
ハナが答える。
「慶兄、ハナちゃんをお願い」
沙樹子が言う。
「まかせろ」
慶一朗が答える。
「それじゃ、行ってくる」
信昭がそう言って、家族の顔を見渡したところで、バタバタと二階から小さな足音が聞こえてくる。
「待って、待って。あ、まだいるみたい。悠ちゃん、がんばって」
菜弥子だ。後ろから、悠司もたどたどしい足取りで下りてくる。二人とも寝間着のまま、玄関まで一直線に走ってきた。
「ハナちゃん!」
玄関土間まで裸足で突っ走り、そのままハナの懐にダイブ。悠司はそのまま花柄のスカートに顔を埋めた。
「ハナちゃんハナちゃんハナちゃん、……いいにおい」
体臭のないハナは、いつも柔軟剤の香りがする。バラの、柔らかい香り。
鼻水がつっとスカートに付いたのを、沙樹子が気づいて、ハンカチでそっと拭き取ってやる。だのに悠司は、自分の臭いを残そうとしているのか、何度も何度もスカートに顔を擦りつけた。
「いかな……じゃなかった。いって……、いってらっしゃい。ハナちゃん。わるいとこ、なおしてもらうんでしょ」
顔を上げた悠司の鼻は、赤かった。目も、充血している。
「悠司様……、おめめが……」
ハナは悠司と、菜弥子の顔を交互に見つめる。
菜弥子もやはり、顔を赤くしていた。頬には、涙の筋があった。
「ハナちゃん、行ってらっしゃい。ホントは……、笑顔で言うつもりだったのに、ゴメンね。ダメだった。涙が、止まらなくて。頑張って止めようと思ったんだけど、どんどんどんどん溢れてきて。そのうち、お父さんが『行ってくる』って言ってるのが聞こえて。ゴメン、ゴメンね……」
「何故、謝るのですか。菜弥子様。謝らなければならないのは、わたくしの方です。わたくしのせいで、皆様にご心配とご迷惑をおかけしますのに。何故、謝るのですか」
ハナは困ったような顔をして、悠司の頭を撫でた。
何度も何度も、惜しむように撫で、それからそっと悠司から離れ、姿勢を正し、深く、礼をする。
「月曜日の朝、お忙しい時間に、皆様に見送っていただけるなんて、本当に光栄です。ありがとうございます。少しの間留守にいたしますが、わたくし、きっと帰ってまいります。そうしたらまた、今までと同じように、一緒に暮らしていただけますか?」
優しく微笑むハナ。
玄関ドアのガラス部分から、柔らかな朝日が差し込み、ハナのシルエットを暗くする。ハナの笑顔には暗い影が落ち、旅への不安が浮き彫りになる。
「ば……馬鹿ね。ハナ。当ったり前じゃないの!」
凛々子の乾いた笑い声。
堪えていた涙が、ついに凛々子の頬を伝った。
「ハナは大事な家族だから。絶対に、帰ってくるんだよ。……わかる?」
「はい」
「絶対に、絶対に、絶対にだよ?」と、菜弥子。
「はい」
機械人形のハナは、泣かない。
だけれど、慶一朗にはそのとき、ハナがまるで泣いているかのように思えてならなかった。
「行ってきます」
ハナがまた深々と頭を下げると、慶一朗は勢いよく玄関のドアを開けた。