2 確認
遅い昼食をとり、そのまま再び書斎へこもる信昭の背中は、辛いものを抱え込んでいるように見えた。ここ数日で、いきなり老けてしまったようにも見える。慶一朗はそんな父親に、声をかけることもできなかった。
夕方、母の朋美が仕事から帰宅すると、いつもと同じ、慌ただしい時間帯に入る。明日からはウィークディとあって、アレの支度はしたの、これは大丈夫かと、皆にテキパキ指図する。宿題は、提出物は、持ち物は、お風呂の準備は大丈夫か、誰が悠司をお風呂に入れてくれるの、明日の着替えは、予定はどうなっているの。家族の人数が多いこともあって、口に出さないとどんな用事があるのかすらわからない始末。疲れて帰宅したところで、母には休む暇などないようだ。
食卓には、庭の茄子をサラダ油で炒め、シソの葉と甘辛い味噌を絡めたものが一品。鶏肉と夏野菜のグリル焼きが大皿に綺麗に盛りつけられ、その隣にはトマトと薄切りタマネギのサラダが並ぶ。
メニューは大抵、朋美が考える。庭でこぢんまりと作っている夏野菜が、秋の中頃までは大活躍するため、それらで何ができるのか、朝のうちに考え、ハナに伝えておく。昼と夜、ハナはその通りに調理し、きちっと振る舞ってくれるわけだ。
結婚以来約二十年、この連携プレーは続いている。朋美はハナのお陰で安心して仕事ができるし、ハナもメニューを探るという手間が省ける分、安心して子供の世話ができるということらしい。
例え非日常なことが起ころうとも、いつもと同じようにしなければならないこともある。
食事、睡眠、仕事や学校。三笠の家の事情と関係なく、それらは時間通りにやってきて、家族を現実に引き戻す。朋美はいつも以上に気を遣い、努めて日常のルーティーンを壊さぬようにしていた。そうしなければ、家族全体が非日常に引っ張られ、帰ってこられなくなるような気がしていたからだ。
夫の信昭も、子供達も、朋美のそんな気持ちに気がついていて、妻が帰宅したとわかると書斎からはきちんと出てきたし、食事中は日中の出来事をほとんど口にしなかった。差し障りのない会話をし、食べるものは食べ、片付けるモノは片付けて、朋美が家事から解放される頃になってから、ようやくそれぞれが、話すべきことを朋美に話したのだった。
「……で、今のところは、何ごともなく過ごしている。そういうわけなのね」
電報の話から、不審な車の話、田所調律の被害状況まで伝え終わったところで、朋美はなるほどと大きくうなずいた。ダイニングテーブルの中央に置かれた梨をつつきながら、そうなんだよと、皆も同様にうなずいている。
ご近所からいただいた初物の梨は、みずみずしさが際だっていた。甘い香りがフワッと広がり、口に入れればジュースのように果汁がほとばしって、喉を潤していく。十個ほどあった梨も、育ち盛りの子供達にかかればあっという間、みるみるうちに、どんどん胃の中に消えていく。
三歳の悠司も梨は好物で、余程気に入ったのか、シャリシャリと口いっぱいに頬張った。ただ、素手で掴んで食べてしまうため、あちこちベトベトなのを洋服に拭ってみたり、壁に拭ってみたりで、小学生の姉たちが慌ててぬれタオルで手や顔を拭いていた。
「明日学校だけど、悠ちゃん、ハナちゃんと二人きりで大丈夫なの?」
悠司の指をタオルで拭き取りながら、五年生の沙樹子が言った。
「大丈夫って?」
「変な人たちがさ、家に来たら」
来るわけないじゃんと、二年生の菜弥子が笑う。
「鍵掛けてれば大丈夫でしょ、お父さん、お母さん」
変な人が来たら危ないから、きちんと鍵はかけるのよと、普段から聞かされている菜弥子は、そんなことも知らないのとばかりに、沙樹子に突っかかった。
「鍵なんて、意味ないよ。工場の壁ぶち破って目的の物をぶんどってくようなヤバイ人たちも、ハナのことを狙ってる可能性があるんだから。その人達だけじゃなく、もっと沢山の人たちが、ハナを狙っているとしたらどうだろう。家の鍵がかかってるくらいじゃひるまないと思うけどな」
梨をムシャムシャ噛み砕きながら、慶一朗が言う。
「そうね、この家を壊してでも、ハナを奪っていくかもしれないよね。どうしても欲しいんだとしたら」
凛々子も、奥歯で梨をシャリッと噛んで、ちょっとは考えなさいよという顔で妹たちを見ながら言った。
まさかぁと、小学生二人は苦笑い。が、あながちあり得ない話でもないと二人が思ったのは、兄や姉が、思いのほか深刻な顔をしていたからだった。
「“もしも”を考えるときは最悪のパターンを想定しておいた方がいいらしいよ」と、凛々子が付け加えると、皆ますます険悪な顔をして、口を閉ざしてしまった。
「やはり、わたくしは、三笠家から出て行くべき存在ではないかと」
沈黙を破ったのはハナだった。
台所の後始末に一段落付け、ダイニングスペースへ来るなり、ハナは大胆な一言で皆の注目を集める。
「ハナ。そういうことを言うもんじゃない」
じっと話を聞いていた信昭が、強い口調で叱りつけた。
「だれもハナのことを、邪魔だとか、困った存在だとか、出て行くべきだとか、そんなこと、思っちゃいないんだから。ハナは家族の一員だ。みんな、ちゃんとわかってる。それより、……田所に頼れなくなった分、何とかしなきゃと思っていろいろ調べた結果、少しだけ……、朗報がある」
「朗報?」
それぞれに顔を見合わせ、どんなだろうと首を傾げていると、信昭は咳払いし、立ち上がった。
「ハナを造ったという、“川端製作所”と連絡が付いた」
えっと、一番大きな声を上げたのは、慶一朗だった。嬉しいような驚いたような顔で、ハナと信昭の顔を交互に見つめる。
「だって、川端製作所は機械人形製作から手を引いたって。連絡付かないって田所さんが」
「一か八か、家に残っていた書類ひっくり返して電話してみたんだ。繋がって、電報の差出人とも話ができた。向こうもこっちと連絡を取りたがっていて、電報を送った経緯も説明してくれた。ただ、思っていたよりも事態はかなり深刻で、さっき凛々子が言っていたように、常に最悪の状態を想像しながら過ごした方が良さそうだ。そこで、みんなに、確認を取りたいと思う」
信昭はそう言って、食卓を囲った家族の顔を、一人一人、丁寧に眺めた。
何を言いたいのかわかるかなと、目を見つめ、うなずいては次、頷いては次と。
梨用のフォークをテーブルに置き、子供達はこれから何を言われるのだろうとドキドキしながら、膝に手を置いて姿勢を正した。
「質問が、いくつかある。まず一つは、“ウチに、機械人形は必要なのかどうか”。必要だと思う者は挙手」
バッと、一斉に手が上がった。食べかけの梨の欠片で遊んでいる悠司も、隣で世話する沙樹子に無理やり手を上げさせられていた。
「では、その理由を述べよ。凛々子」
信昭に当てられ、凛々子は一瞬驚いたようにまばたきしたが、「はい」と学校の授業中みたいに良い返事をして、立ち上がった。
「子供の人数も多いし、お父さんやお母さんだけじゃ、とてもじゃないけどみんなの面倒を見切れないからです。私や沙樹子、菜弥子ももちろん頑張ってお手伝いするけど、ご飯の支度や二人が居ない間の悠司の面倒は、やっぱりハナに任せきりになっているし、ハナが居るのを前提としての共働きだと思うから、居なくなったりしたら、大変だと思います」
「他には……、沙樹子」
「はい」と、今度は沙樹子が立ち上がり、凛々子が座る。
「学校でも時々話になるんだけど、子供の数が少なくなってしまったからっていう理由で、保育所の数がどんどん減ってしまって、悠ちゃんを預けられないからです。東永町に一カ所しかない保育園が満杯で、仕事に出られないお母さん達が増えてるって、この前社会の授業でやりました。かといって、保育園を新たに造るためには、沢山の税金が必要になるし、今後更に少子化が進んでいくとしたら、幾ら新しく造ったとしても、需要がなくなってしまう可能性が高い、だから簡単に増やすこともできないんだっていう話でした。だから、悠ちゃんの面倒は、やっぱりハナちゃんに見てもらうのが一番だと思います」
凛々子に負けず劣らずの演説をして、沙樹子は満足そうに座った。
その通りその通りと、みんながうなずくのを見て、沙樹子はニヤニヤと嬉しそうだ。
「では、“ウチには機械人形は必要だ”ということで、次の質問に進む。次は少し難しくなるぞ……、いいか?」
コクッと、皆がうなずくのを見て、信昭は息を整えた。
「“ウチの機械人形は、ハナであるべきか”。ハナであるべきだと思う者は挙手」
またも全員が手を上げる。
「その言い方、どうかと思う」
噛みついたのは慶一朗だ。あからさまに不快な表情で、父親を睨み付けた。
「“ハナであるべきか”、つまり、ハナじゃない、別の機械人形を購入することも、考えてるってこと? 修理が思うようにできなかったから」
「その話はちょっと待て。今は質問についてだけ答えること。“ハナであるべきか”。慶一朗、どうだ」
「“ハナであるべき”だよ。当然だろ」
「答えになってない。妹たちが答えたように、きちんと理由を言う」
「ハナは家族だろ。もしハナが居なくなったらなんて、考えたこともないし、考えたくもない」
「慶一朗、真面目に」
「結論ありきは嫌だ。あの鑑定士にハナを売ってしまえば、新しい機械人形が買えるから、そういう設問が出てくるんだろ。ハナは絶対に売らない。何があっても、手放さない。家族を売るような真似できないって、父さんも言ってたじゃないか。急になんだよ。どうしてそんなこと、わざわざ聞くんだよ」
次第に高揚し、声が大きくなる。慶一朗はけんか腰になって、テーブルを力強く叩いていた。
ガシャッと鳴った皿とフォーク。
怖いよと悠司が泣き始め、沙樹子にしがみつく。
「興奮するのは勝手だが、悠司を泣かすな。今は感情論じゃなくて、論理的に考えろ。冷静になって、あくまで客観的に物事を捉えないと、あとで大変なことになってしまう。……仕方がない、本当のことを言おう。この家は、安全じゃない」
ビクッと、その場にいた全員が、肩を震わせて信昭を見た。
より一層怖い顔をして、ゴクッと唾を飲み込む姿は、嘘を吐いている、大げさなことを言っているようにはとても思えない。
「謄本が、流出している。慶一朗、お前言ってたな。『ハナの情報があちこちに拡散してるんじゃないのか』って。ハナの情報だけじゃない。ウチの住所も、全部バレてる。謄本そのものがネットにアップされて、それを見た何者かが、どんどんウチの周りに集まってきている。不審者、見たろ?」
菜弥子が顔を強張らせて、うんとうなずく。
「今は様子を覗っているだけでも、明日の朝、皆が出払って悠司とハナだけになったあと、一体どうなるのか。さっきは冗談半分で『この家を壊してでも』なんて話していたのかもしれないが、そうなる可能性は十分ある。いや、ほぼ、確実だろうな」
「け、警察は……」恐る恐る凛々子が聞く。
「警察には電話でさっき相談した。被害届はメールで済ませた。画像の削除についてサーバー管理会社に掛け合ってみるとか、周辺をパトロールしてみるとか言われたが、それがどれだけの抑止力になるのか、わかったもんじゃない。二十四時間、警備員を付けておくわけにもいかない。警備用の機械人形雇うわけにもいかない。そんな中で、どうやってお前達を守っていけば良いのか、考えて考えて、考えても、簡単に結論は出なかった。ハナは大事だ。大事だが、お前達のことは、もっと大事だ。機械人形か、自分の子供達かを天秤に掛けるのだとしたら、俺は迷うことなく自分の子供達を選ぶ。それが、親の務めだ。だが、そうやって一方的な価値の押しつけをしてしまっては、きっと後悔する。だから、今、きちんと話し合う必要がある。わかるか?」
普段温厚な父親の苛立ちに、娘達は震え上がった。椅子の背に背中をびったりとくっつけて、肩をすくませる。
怖い。怖いくらい真剣に、話し合おうとしている。
「……わかった」
ボソッと、小さな声で慶一朗が呟くのを聞くと、信昭はフゥと長く息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。
「わかったら、もう一度聞く。“ウチの機械人形は、ハナであるべきか”。慶一朗、どうだ。お前はどう思っている」
食卓から数歩離れたところで、ハナはやりとりをじっと見ていた。表情を変えることもなく、口を出すこともなく、自分に対するやりとりを見続けるなんて、人間ならば、まず無理だろう。
感情を持たぬ機械人形。
人間じゃない。
いずれ壊れてしまう。
修理できない。
直し方がわからない。
川端製作所。
連絡が取れた。
狙われている。
高額。
鑑定士。
別れ。
壊れる。
不審者。
家族。
思い出。
母のような、姉のような。
慶一朗の頭の中を、グルグルといろんな言葉が渦のように巡っていた。
本当は、どうするべきか、わかっているのに。言葉に出そうとすると、口がもごもごする。認めたくない。
ハナのことを考えれば考えるほど、いろんな感情があふれ出してくる。
田所が言った言葉を、慶一朗はふと思い出していた。
――『何って、そりゃ、機械人形とする会話じゃないよ』
機械人形と過ごしているなんて、これまで考えたことがあっただろうか。
生まれる前から、ずっと一緒だったのだ。
慶一朗が悠司と同じくらい小さかったころ、一人っ子だった彼の遊び相手はハナだった。まだ、祖父や祖母は健在だったが、思い出すのはハナとの日々ばかり。公園でブランコを押してくれたのも、ハナ。手を繋いで、走り回って、転んだところを助けてくれて。
小学生になって、自転車の練習に付き合ってくれたのも、ハナだった。広い空き地で何度も何度も、背中を押してくれた。大丈夫大丈夫、お父様もこうやって練習なさったのですよと、優しい声で応援してくれた。
逆上がりができないと泣いて帰ってきた日。公園の鉄棒で、遅くまで練習に付き合ってくれた。こんなに遅くなってと両親に怒られたとき、ハナは慶一朗を庇った。もう少しでできそうだったのですと。
算数がわからなくて勉強が嫌いになりそうだったとき、妹たちの世話をしながら勉強に付き合ってくれたのもハナだった。かけ算、分数でつまづいた慶一朗に、ゆっくり丁寧に説明してくれた。
冷たくなった祖父母と別れるとき、側に居たのもハナ。大切な人との別れがどんなに悲しいことか、それは決して逃れることのできないことなのだと、諭し、慰めてくれたのもハナ。
妹や弟が生まれたとき、一緒に喜んでくれたのも、全部、全部、ぜんぶ……!
「嫌だ……。俺は、俺は絶対、ハナを誰にも、渡さない……! 何が何でも、守らなきゃ」
気がつけば、慶一朗の目には涙が溢れ、ぽたぽたと頬を伝っていた。
家族の前で泣くなんて、いつ以来だろう。
「慶一朗様、泣かないでください」
いつの間にか、隣にはハナが居た。
「わたくしは、機械人形なのですよ。それ以上でも、それ以下でもないのです」
どんな意図があってハナはそんなことを言ったのか。
――『家族みんなに愛されている機械人形なんだな』
――『古い割に痛んでないってのは、そういうことだ』
池野の言葉が、染みこんでくる。
「それは、揺るぎないんだな。ハナを、守るって気持ちは」
信昭が念を押す。
慶一朗は、しっかりと父親の目を見て、力強くうなずいた。