6 保証書
昼ご飯ができたと呼んでも、信昭は二階から下りてくる気配がなかった。ガサゴソと書斎から音がずっと聞こえていて、とても声をかけられる雰囲気にない。
「先、食べてようか」
子供達だけで食卓を囲むが、みんな、せっかくのオムライスが思ったように喉を通らない。
「おとうさんといっしょにたべたい……」
悠司は寂しそうだ。
「今、大切なお仕事をされているのですよ。悠司様はきちんと食べましょうね。おいしい野菜がたくさん入っています」
ハナに介添えされながら、なんとか具沢山のオムライスを口に運ぶ。普段なら避けてしまう野菜も、ケチャップライスに混ぜてあれば、ちゃんと食べられるようだ。
「ほら、食べられたじゃありませんか。もう、野菜は大丈夫ですね」
ハナが優しく話しかけると、
「うん。おいしい!」
悠司は調子に乗って、スプーンをわざとらしく何度も口元に持っていった。
一方で、上の子たちは、好き嫌い云々の前に、一様に上の空だった。口にスプーンを運んでは、ただ黙々と噛み、飲み込んでいく。味わっていると言うよりは、喉に押し込めている、食道に流し込んでいる、というべきか。
凛々子と沙樹子は、並んで長いため息を吐いた。手を動かす気力さえ、失ってしまったように、だらんと肩を落としている。
「ご飯なんて、悠長に食べてる場合じゃないと思うんだよね……」
凛々子が呟く。
上の四人が皆手を止め、顔をしかめた。
「ハナにまだ具合の悪いところが残っていて、そのハナを、知らない人たちが沢山狙ってて、頼りにしていた田所さんは全然頼れなくて。外に出ようにも出られないし、誰に相談したら良いのかわからない。これは、明らかに異常な事態だと思う。こんな田舎町で、『逃げろ』って言われたって、どうすればいいのかわからないし。一体、何が起こってるの。どうしてハナちゃんが狙われなくちゃならないの」
「凛々子、それはさ」
口を出そうとして、慶一朗はそれきり話すのを止めた。
今のところ、記憶系統の、具体的に何がおかしいのかがハッキリわからない。記憶の一部が欠けているようだとしても、何の問題もなく生活できるなら、だましだましでもいいと、昨日は思っていたのに。
慶一朗の皿の上には、まだ三分の一ほどのオムライスが残っていた。デミグラスソースが甘い卵と絡んで、黄色いレモンのような可愛い形が食欲を誘っている。大好物だ。ハナが作る料理はどれも美味しい。きちんとレシピ通りで。見た目も美味しそうによそってあって。だのに、どうしても食べ進めることができない。
「美味しく、ないのですか? 分量を間違えてしまったのでしょうか」
いつもならペロッと食べ終わるはずなのにと、ハナは口をへの字にした。
「間違ってないよ。美味しい」
慶一朗は作り笑いをして、無理やり口に頬張ってみせるが、二、三口食べたところで手が止まった。
「……ハナちゃん、いつまでも私たちのために、美味しいご飯、作ってくれるんだよね?」
やはり手の止まっていた菜弥子が、涙声で言った。
「よくわからないけど、最近、みんなおかしいんだ。ハナちゃんが壊れた日から、どんどんおかしくなってるんだ。私は……、いやだ。こんなの、いやだ。ハナちゃんがどこかへ売られてしまうのも、ハナちゃんを誰かが連れて行くのも、ハナちゃんが壊れて動かなくなってしまうのも、いやだ。ずっと……、ずっと今までみたいに、楽しくやってくことって、できないの?」
「菜弥子様……」
大粒の涙を流し、泣き始める菜弥子の背中を、ハナはそっと撫でた。その手は、人間と同じように温かく、柔らかい。
「わたくしは、機械人形ですので、自分で何かを決断するということができません。あくまで、主である皆様の希望通りに動くまで。皆様がわたくしと一緒に今後も過ごしたいというならば、そうさせていただきます。ですが、ご存じの通り、わたくしはすっかり古くなってしまいました。遅かれ早かれ、別れは来るのです。わたくしが、皆様のひいおじい様やひいおばあ様、おじい様やおばあ様始め、ご家族の皆様と永遠の別れをしたのと同じように。全ての命には、終わりがあります。機械人形にもまた、寿命があるのですよ」
ハナの言葉は、慶一朗たちの胸に響いた。
ハナも、多くの別れを経験してきたのだ。長い間三笠家にいて、沢山の命を送ってきた。
人間と同じように、ハナも寂しさを感じることがあるのだろうか。ハナの寂しそうな顔を見ていると、慶一朗はふと、そんなことを考えてしまう。心など持ち合わせては居ない、機械人形はあくまでも無機質な存在だというのに。
「皆様、どうなさったのですか。ご飯は温かいうちにお召し上がりください。冷たくなってからでは、おいしさがぐんと減ってしまいます」
しんみりした空気を跳ね返すように、ハナは言った。
機械人形? ――いや、ハナはハナだ。それ以上でも、それ以下でもない。
慶一朗も凛々子も、沙樹子も菜弥子も、うんうんとうなずいて、またオムライスを食べ始めた。おいしい、おいしいよねと、口々に言いながら。
* * * * *
田所調律でハナの謄本が盗まれた――、そう聞いてから、信昭は記憶の片隅に引っかかったものをどうにかしなければと、書斎を引っかき回していた。書斎は、信昭の祖父、京助のから代々受け継がれた書類や物で溢れかえっていた。
色のあせた背表紙の本が並ぶ本棚の上に、様々な書類の入った箱がずらりと並んでいる。家を建てたときの図面や写真、親たちが大事に取っていた小さかった頃の作文や絵、また、何かの説明書や古い日記など様々で、標題もなく、開けてみないことには中身がわからない。
大事なものは金庫にあるはずと、そちらも確認したが、家の権利書や通帳、印鑑など、入っているものは決まり切っていて、目的のものは見つからなかった。
ごちゃごちゃと中身を開けては広げ、戻してはまた別のを開け、を繰り返す。
そうしている間に、床はあっという間に箱だらけになって、足の踏み場さえなくなっていた。が、そんなことはお構いなしに、信昭は黙々と、作業を続けた。
幾つかの箱を確認したところで、やっと、それらしき箱を見つけ出した。
よれたミカン箱の中に無造作に放り込まれていた、“川端製作所”の名前が入った茶封筒。
「あった……! 記憶違いじゃなかった」
何年か前、父が亡くなった後、書斎を整理していたときに一度見たきりだったのだ。
何度も繰り返し触られた形跡もあり、封筒の側面はボロボロになっていた。擦れた跡も、シワだらけの紙も、長い年月を感じさせる。
封筒を取り出し、中身を確認する。分厚い説明書と、パンフレットが数冊。注意書きの紙切れが諸々と、一際分厚い高級紙……品質保証書だ。
初めてそれらを目にしたとき、信昭はハナが家電と同等の存在なのだと、改めて思い知らされた。部位の説明、できることできないこと、充電方法から、もしもの対処方法、日々のメンテナンスなどが、事細かに記されていた。
もしものときに見れば良いと、そのときはそれ以上、気にも留めなかった。
だが、とうとう、そのときが来てしまったらしいのだ。
保証書はエンボス加工の高級紙で、レースで縁取りされ、透かし模様が施してある。販売店のスタンプと、型番、製造年月日等の記載と共に、製造元の川端製作所の連絡先と電話番号が記されていた。最下部にはお客様サービスダイヤルなる番号も記載されている。
昨晩、皆が寝静まったあと、どうしても気になって、信昭は“川端製作所”をネットで検索していた。機械人形鑑定士の女が言っていたとおり、既に機械人形製作から手を引いて、工場もホームページも閉鎖されていた。彼女の所属する財団法人の公式サイトや、骨董機械人形を愛する団体がつくるブログなどで“川端製作所”の文字を散見することは出来たが、過去に美しい機械人形を制作していた、“幻の会社”“伝説”に近い扱いで、全く参考にならなかった。
となると、お客様用のフリーダイヤルは使われなくなっている可能性が高いだろう。が、もしかしたら、直通の番号はどうだ。仮に、後身の会社か事務所があったとしたら。その電話番号として、今も使われているかもしれない。
――“至急連絡されたし。06の件。”
電報にあった06とは、当然06シリーズのことだろう。残念ながら、川端の名字以外に差出人の記載はなかった。7、80年も前の保証書に書かれた住所と電話番号くらいしか、相手と連絡を取るすべがない。相手もそれを見越して、“京助”宛ての電報を寄越したのじゃないか。
保証書を握る手が、汗で濡れていく。
どうする、どうするべき。
朋美に相談した方が良いのだろうか。まだ仕事中、帰りは夕方。それまで待てば。いや、そうこうしているうちに、“至急”を過ぎてしまうのじゃないか。
保証書と取説、パンフレットを床に広げ、信昭はそれらと何分もにらめっこしていた。
田所は、川端製作所のデータを引き継いでいる会社があるはずだと言っていた。本来なら、報告を待つべきだった。が、襲撃され、ハナの謄本が流出した今、田所から連絡を待つことなど、そもそもできるのかどうか。
謄本の流出によって、危惧されることも増えた。ハナの存在が、世間に知れ渡ってしまった。一般人から見れば、単なる個人情報の流出に過ぎないかもしれないが、見る人から見れば、喉から手が出るほど重大な情報に違いない。
携帯電話を隣に置き、番号を入力しかけて止める、を繰り返す。
繋がるのか?
至急連絡? 連絡方法は、電話で合っているのか? 至急とは、どれだけ急いでいるという意味?
書斎に閉じこもり、考えに考えた末、信昭はようやく電話をかける決心をする。
「0……1……7……6……」
通じますように、通じますように。
番号が発信され、しばしの沈黙。
電話の呼び出し音が鳴っている。まだこの番号は、現役らしい。それだけでも救い。
呼び出し音が二回、三回。まだか。十回まで待って、出なかったら諦める。
四回、五回。
相手はなかなか出ようとしない。
十回までと決めたからには、もう少し粘ってみようと、信昭はじっと耐えた。
八回目のコールが鳴り、九回目に差し掛かろうかというときに、『もしもし』若い男の声で応答があった。
「もしもし、……か、川端……製作所、ですか?」
信昭の声は、恥ずかしいほどに震えていた。
『どちら様ですか』
「電報、受け取りました、三笠、ですが」
違うのか。
相手はしばらく黙っていた。
「06の件。教えていただきたいと、思いまして」
喉の奥から捻り出したような声で、何とか言い終えると、電話の男は感嘆の声を出す。『三笠、京助さんの、ご家族の方?』
「私はその、孫に当たります」
『よかった……! 通じた。信じられないな。顧客カードは72年前のしか残ってなかったから、通じなかったら諦めてたとこだ。そうです、川端です。川端製作所をやっていた川端健吾の玄孫の、輝良斗です』
信昭は絶句した。
驚きのあまり、携帯電話がスルッと手を抜けて、床の上に転げ落ちた。