ミトコンドリア王国の、最後の女王
◆ 作品概要・コンセプト
「女王の炎は、母から娘へ。父の血では、決して継げない。」
人体の内部に「ミトコンドリア王国」が実在するこの異世界。王国のエネルギー(ATP)が枯渇すると、人は動けなくなり、やがて消える。王国の統治権は「女王(mtDNA女王)」が持ち、その力は必ず母から娘だけに受け継がれる。父方の血は一切継承できない、これが「炎の法」。
最後の女王候補・マリア(19歳)は、王国が消えかけていることを知る。継承者は彼女ただ一人だが、女王になるには「炎の試練」を乗り越えなければならない。その試練に同行を命じられたのは、父方の血縁者ゆえに「炎を継げない」という烙印を持つ騎士・ジウ(24歳)だった。
母系の絶対法則の中で、父方しか持たない者と、最後の継承者の旅。ふたりが共に歩む中で問われるのは「何が命を繋ぐのか」という問いだった。
◆ 主要登場人物
マリア 19歳 / ヒロイン
「炎の一族」最後の娘。女王の資質は持つが、試練を前に自信がない。「女王になる覚悟」と「ただの自分でいたい気持ち」の間で揺れる。母が幼い頃に亡くなっており、mtDNAを受け継いだことは知っているが、女王になりたくはなかった。
ジウ 24歳 / ヒーロー
元王国近衛騎士。父方の血筋しか持たないため「炎無き者」と呼ばれ、近衛を追われた。しかし戦闘能力は国内最高水準。マリアの護衛を命じられたことに複雑な感情を持つ。自分が絶対に持てないものを持つ彼女を、守ることに何を感じるか。
ソフィア 40代 / サブキャラクター
王国の大臣。女王制度の維持を絶対の使命とする。マリアに女王になることを強いる立場だが、実は彼女自身も「炎を継げなかった者」の苦しみを知っている。
◆ 詳細あらすじ
人の体の中に、もう一つの王国がある。誰も外からは見えないが、確かにそこに存在する「ミトコンドリア王国」。王国が生み出すエネルギー(ATP)こそが、人が動き、考え、生きることを可能にしている。炎の紋は母からすべての子へ渡るが、次の世代へ渡せるのは娘だけ。父を経由した継承は起こらない――これが「炎の法」だった。
先代女王リーナが十年前に急逝した。在位中に継承の石へ残した炎が王国を十年間支えてきたが、その残量が急速に減り始めている。残された継承者は、十九歳の娘・マリア一人。彼女は幼い頃に母を亡くし、女王になることへの覚悟も、自信も持っていなかった。王国のエネルギーが底をつきかけている今、選択の余地はない。
大臣のソフィアはマリアに「試練の旅」を命じた。女王の資質を確かめ、炎を完全に継承するための古来の儀式だ。そして護衛として選ばれたのが、近衛を追われた騎士・ジウだった。
ジウは「炎無き者」と呼ばれていた。母から三十パーセントの炎を受け継いでいたが、旧認定基準の五十パーセントに届かなかったためだ。基準未満の者は王国を守る資格がない、という制度のもとで、彼はずっと外縁を生きてきた。
旅が始まった。最初は互いに距離を置いていたふたりだったが、試練の地へ向かう道で、本音が零れていく。マリアは「女王になりたくない」と告白し、ジウは「公的な認定がなくても命は守れる」ことを身をもって示す。
試練は三段階。それぞれがミトコンドリア王国の本質――エネルギーの生成、外からの共生、世代を越えた継承――を問うものだった。旧認定基準で「炎無き者」とされたジウはどの試練にも直接参加できないが、マリアが倒れかけるたびに、別の方法で支え続けた。
三つの試練を終えた後、調査団の記録が明らかになる。ジウの母は、実は「炎の一族」の傍系だった。そしてジウの体内に三十パーセント残る母由来の炎の紋が残されているという事実。烙印は、真実ではなかったかもしれない。
最終儀式の夜、マリアの炎が危機に瀕する。そのとき、ジウが炎に反応した。「炎無き者」が、女王の炎に手を伸ばした。理屈では説明できない反応。「炎の法」が問い直される瞬間だった。
「あなたが女王になった後、私は何になるのか」ジウの問いに、マリアは答えた。「あなたがいなければ、私はここに来られなかった。それは炎じゃないの?」
女王になったマリアが最初にしたことは、炎の法に付随する「炎の認定制度」を改めることだった。母系継承の自然法則は変えず、炎の紋が検出され、質と安定性の審査を満たせば、公的に炎の保持者として認める。ジウの烙印は、女王の権限で正式に消された。
第一章
消えかける王国
王国が、消えかけている。
マリアはその事実を、母の墓の前で知った。誰も教えてくれなかった。大臣たちは「まだ大丈夫」と言い続けた。でも、体の奥深くに宿る感覚が、そうではないと訴えていた。生まれたときから彼女の中にある、振動。熱。それが、弱くなっている。
墓石は古い。十年前に死んだ母のものだ。名前だけが刻まれている。「炎の女王、リーナ」それだけ。
「お母さん」マリアは草の上に膝をついて、石に手を当てた。「私、女王になれると思う?」
返事はなかった。いつも返事はない。でも来てしまう。ここに来ると、頭が整理される気がした。
「試練の旅に出ろ、って。ソフィア大臣が言ってた。護衛もつける、って。でも……」
言葉が続かなかった。でも、とその先に何があるのか、自分でもうまく言えなかった。女王になりたくない、というのが本音なのか。自信がないのか。怖いのか。全部か。
* * *
この世界では、人の体の内側に「王国」がある。
誰も外からは見えないが、確かにそこに存在する。「ミトコンドリア王国」と呼ばれるその王国は、一人ひとりの体の中で生命のエネルギー(炎と呼ばれる)を生み出し続ける。その炎こそが、人が動き、考え、感じることを可能にしている。王国の炎が絶えれば、人は動けなくなり、やがて消える。
王国には女王がいる。一人ひとりの体に王国はあるが、女王の炎だけは、それらを同じ律動へ結ぶ基準となる。女王の炎が弱れば、人も獣も植物も、生命の火を落としていく。
女王の存在が、王国を統べる。女王の炎が強ければ、王国全体の炎も強くなる。女王が弱れば、王国も弱る。そのため、女王の継承は王国の存続そのものに直結していた。
「炎の法」は、この一つだった。
炎の紋は、母からすべての子へ受け継がれる。息子もその炎を宿す。だが、その息子から次の世代へ炎が渡ることはない。炎を未来へ繋げられるのは、娘だけだった。
父を経由した継承は、決して起こらない。
これは法律ではなく、自然の理だった。女王の炎を宿すDNA(「炎の紋」と呼ばれる)は、母の細胞から子の細胞へと直接渡される。父を経由すると、その経路が断絶する。理由は誰も知らなかったが、何千年も前からそうだった。
マリアの母、リーナは十年前に急逝した。継承の儀式を行う前に。在位中、リーナは余剰の炎を継承の石へ少しずつ残していた。その蓄積が死後十年間、王国を支えてきた。だが、その残量が今年に入って急速に減り始めた。
だからマリアは、炎の紋を正式に受け取っていなかった。受け取っていないが、母から生まれた娘として、薄い炎の紋を体内に持っていた。それは継承された炎ではなく、生まれながらに宿した炎だった。
今、現女王代理を務めていた大臣ソフィアが、マリアに継承を迫っていた。
王国の炎が、限界に近づいているから。
* * *
ソフィア・ヴォルナは五十代の大臣で、王国の行政を二十年間取り仕切ってきた人物だった。背筋が伸びていて、声が低く、いつも何かを計算しているような目をしていた。マリアはこの人が苦手だった。でも、この人が王国を支えてきたことも、知っていた。
謁見の間で、ソフィアはマリアに向かって言った。
「王国の炎の出力が、先月比で七パーセント低下しました。このまま推移すれば、三ヶ月以内に臨界点に達します」
「臨界点というのは」
「王国全体の炎が、自律的に維持できなくなる閾値です。それを超えると、段階的な崩壊が始まります」
マリアは窓の外を見た。宮廷の庭に木が一本ある。その木の葉が、元気がない。王国の炎が弱くなると、植物にも影響が出るのだ。
「試練の旅は、いつ出発するのですか」
「今週中に。遅れるほど、王国の炎は弱くなります」
「……護衛は」
ソフィアが間を置いた。
「ジウ・クラウスに命じました」
マリアは顔を上げた。
「ジウ……炎無き者、と呼ばれている、あの方?」
「そうです」
「なぜ」
「現在、王国の近衛で最も戦闘能力が高い人間です。護衛として適任です」
「でも、『炎無き者』とされた人が女王候補の護衛を務めるのは――」
「炎の法は、継承の話です。護衛の資格とは別の問題です」
ソフィアの目が、マリアを見た。説明ではなく、決定だった。
マリアは何も言わなかった。
* * *
ジウ・クラウスが謁見の間に来たのは、翌日の朝だった。
マリアが想像していた「炎無き者」は、もっと暗い顔をしているかと思っていた。でも実際に現れたのは、整った顔をした二十四歳の青年だった。ただ、どこかに「余分なものがない」という印象がある。感情が薄いわけではない。ただ、不必要なものを持っていない。そういう感じ。
マリアを見て、一礼した。
「ジウ・クラウスです。試練の旅の護衛を命じられました」
「……よろしくお願いします」
「一つ、確認させてください」とジウが言った。「炎無き者を護衛にすることへの、マリア様の意向を聞かせてください」
マリアは驚いた。こんなことを直接聞いてくる人間は、珍しかった。
「……大臣の決定ですから」
「それは大臣の答えです。あなた自身の意向を聞いています」
マリアは考えた。正直に言えるか。
「……正直に言うと、わかりません。あなたが『炎無き者』と判定されていることで、試練に影響があるかどうか、私にはわからない。でも、戦闘能力が最も高い、というのは信じます」
ジウはマリアを見た。間を置いてから、
「正直に言ってくれてありがとうございます」と言った。「私も正直に言います。『炎無き者』と判定された私が、女王候補の護衛をすることへの複雑さは、あります。でも、命令を受けた以上、全力を尽くします」
「……それで十分です」とマリアは言った。
ジウがもう一度、礼をした。今度は深く。
* * *
出発の前夜、マリアは再び母の墓に行った。
今度は一人で、夜に。松明を持って、草の上に座った。
「行ってきます」とマリアは言った。「炎を継ぎに行く。あなたが残してくれた炎を、ちゃんと受け取りに行く」
風が吹いた。松明の炎が揺れた。
体の奥に、あの振動がある。弱くなっているが、まだある。これが母から受け取った炎だ。正式な継承ではないが、生まれながらに宿したもの。
「お母さんは、女王になることが怖かった?」
答えは来なかった。でもマリアは、来ないとわかっていて聞いた。
「私は怖い。でも、行く」
松明の炎が、また揺れた。今度は風ではなかった。
体の奥の振動が、強くなった気がした。気のせいかもしれない。でも、気のせいでないかもしれない。
マリアは立ち上がり、墓石に手を当てた。一度だけ。それから踵を返した。
第二章
炎無き騎士
旅の初日、昼に村で食事をとるまで、ふたりは話さなかった。
旅の途中、マリアの草履の紐が切れた。ジウが何も言わずに降りて、自分の荷物から予備の紐を出した。マリアの草履に結んだ。慣れていない手つきだったが、なんとか歩ける程度になった。
「なぜ予備を持っていたんですか」とマリアが聞いた。「道中、何が壊れるかわからない」とジウが答えた。
でも夕方、マリアがジウの靴を見ると、紐が一本足りなくなっていた。翌朝、村で予備の紐を買ったとき、マリアがジウに渡した。「道中、何が壊れるかわからないから」と言って。
ジウが馬を操り、マリアが後ろに座った。山岳地帯に向かう街道は石畳が続き、馬の蹄の音だけが響いた。ジウは進行方向を見続けた。マリアは景色を見た。
昼に村で食事をとったとき、ジウが初めて口を開いた。
「試練の地まで、四日かかります。山を二つ越えます」
「わかりました」
「夜は村の宿を使います。野宿は避けた方がいい。体力を温存してください」
「……あなたは、以前にも試練の地に行ったことがありますか」
「ありません。地図と文献で調べました」
「文献を、自分で」
「命令を受けたとき、最初にやることです」
マリアはジウを見た。淡々とした言い方だったが、それは準備を怠らないということだった。炎の試練に関する文献を、護衛の騎士が自分で調べてくる。当然のようにやっている。
「……調べて、どう思いましたか」
ジウが間を置いた。
「試練は三段階あります。それぞれが、王国の炎の本質を問うものです。難しいが、不可能ではない。ただ」
「ただ?」
「炎を持つ者にしか、試練には参加できない。私はサポートしかできません」
声に、何かが含まれていた。感情を含んだ言い方ではなかった。でも、その事実の重さを知っている、という声だった。
「……悔しいですか」
ジウがマリアを見た。
「悔しいという感情は、今は役に立たないので」
「でも、あるんですか」
沈黙。
「……あります」
マリアは何も言わなかった。その正直さが、意外だった。
* * *
二日目の夜、宿の食堂でジウが食事を終えた後、マリアは「聞いていいですか」と言った。
「炎無き者、と呼ばれているのは、なぜですか」
ジウはカップを持ったまま、間を置いた。
「父方の血筋が、炎の一族ではなかったからです。母は一族の傍系でしたが、私に渡るはずだった炎の紋が、継承の途中で薄くなった。継承に必要な濃さに達しなかった、と判定されました」
「それで近衛を外されたと」
「炎の法により、王国の護衛は炎の紋を持つ者でなければならない。私の紋は『継承に不十分』と判断されたので、近衛の資格を失いました」
「でも今は護衛をしている」
「今回は『炎の法の護衛資格』ではなく『戦闘能力による特例任命』です。ソフィア大臣の裁量で」
マリアは考えた。ソフィアが「最も戦闘能力が高い」と言っていた。その裏に、こういう事情があったのだ。
「……ジウさんは、それについてどう思っているんですか」
「どう思う、というのは」
「炎無き者、という烙印について」
ジウがカップを置いた。
「……受け入れています」
「受け入れている、というのは納得しているということですか」
「事実として受け入れている、ということです。納得かどうかは別の話です」
その区別が、マリアには刺さった。事実として受け入れることと、納得することは違う。ジウはその二つを、きちんと分けていた。
「……私も、女王になることを納得しているかどうか、よくわかっていません」とマリアは言った。
「それは正直な言葉です」
「そう言えるのも、ジウさんが正直だから、かもしれません」
ジウはマリアを見た。何か言いかけて、やめた。
「……おやすみなさい」と彼は言って、席を立った。
マリアはその背中を見ながら、「おやすみなさい」と返した。
* * *
三日目の午後、街道を外れた林道に入ったとき、盗賊が出た。
四人。木の陰から現れた。剣を持っている。マリアは馬の上で息をのんだ。
ジウが馬から降りた。マリアに「そのまま動かないでください」と言ってから、四人の前に立った。
何が起きたのか、マリアにはよく見えなかった。ジウが動き、次の瞬間には四人のうち三人が地面にいた。最後の一人が逃げた。全部で、三十秒もかかっていなかった。
ジウが戻ってきた。傷一つなかった。
「大丈夫ですか」と彼は言った。
「……はい」マリアはかろうじて答えた。「あなたが、怪我をしなかった」
「怪我をしない方が、護衛として効率的なので」
淡々とした答えだったが、マリアは笑った。こういう言い方をする人だ。感情を込めない言い方で、でも言っていることは確かなことだ。
「……炎がなくても、あれだけ動けるんですね」
「炎は力の源ですが、炎がなければ強くなれないわけではありません。別の方法で鍛えればいい」
「別の方法、というのは」
「体の構造を理解すること。動きの原理を学ぶこと。炎は一種のエネルギーですが、それ以外にも人は動ける」
マリアはその言葉を、頭の中で繰り返した。炎は一種のエネルギーだが、それ以外にも人は動ける。
炎の法は、炎こそが全てだと言っていた。でも、ジウは今、炎なしで三人を制圧した。それは何を意味するのか。
考え始めると、止まらなかった。
第三章
三つの試練
火が揺れた。薪が一本、崩れた。ジウは火が落ち着くまで、眠れなかった。
護衛だから。任務だから。それが答えだ。
でも傍にいることを、なぜ当然のように続けているのか。
俺には何もできない。ただ傍にいるだけだ。
マリアが変わっていくのが、傍から見てわかった。ジウには参加できない試練で、マリアだけが何かを変えていた。
試練の地に向かう前夜、ジウは一人で火を見ていた。
試練の地は、山の奥にあった。
四日目の夕方、ふたりは目的地に着いた。古い神殿の跡地。石造りの建物が、時間をかけて風化していた。でも中心部は残っていた。三つの試練の場は、それぞれ別の部屋に設けられている。
神殿の管理人が一人いた。老人で、もう何十年もここにいるらしく、石のように顔が動かなかった。ふたりを見て、「女王候補が来るのは十一年ぶりだ」と言った。
翌朝から、試練が始まった。
* * *
第一の試練は「炎の生成」だった。
試練の部屋の中央に、台座がある。その台座に両手を置き、王国の炎を可視化させる。炎が一定の強さと持続性を示せば、合格。
マリアは台座の前に立った。ジウは部屋の外で待つように言われた。旧認定基準で「炎無き者」とされた者は、試練の場に入れない。
マリアは深呼吸をした。台座に手を置いた。体の奥の振動を探した。ある。弱いが、ある。その振動を、手のひらに集める。集めて、台座に送る。
台座が、光った。
老人が何も言わなかった。もっと強く、ということだろう。マリアはもう一度、奥から振動を引き出そうとした。でも、今度は出てこなかった。体の奥で、振動が揺れているのがわかる。でも、手のひらまで来ない。
十分後、マリアは試練の部屋を出た。
外でジウが待っていた。
「どうでしたか」
「……一度は光ったんですが、続かなかった。老人は何も言わなかった。合格か不合格かも」
「文献によると、第一の試練は複数回の試行が認められています。今日は最初なので、状態の確認だったかもしれない」
「状態の確認」
「炎の現状把握。どのくらいの強さがあるか。今後の指針になる」
マリアは神殿の外の空を見た。山の空は低かった。
「……正直に言うと、怖かった。炎を出そうとしたとき、体の奥が揺れているのに、手まで届かない感覚があって」
「それは」ジウが考えてから言った。「王国の炎が弱まっているからかもしれない。奥にはあるが、伝達経路が細くなっている」
「どうすれば」
「経路を広げればいい。ただ、私にはそれをする手段がない。でも」
ジウが間を置いた。
「夜、試してみることはできますか。私が補助できることがあるかどうか、確認したい」
「補助? 『炎無き者』と判定されているのに」
「公的な認定がなくても、体の動きを導くことはできます。炎を使う体の動かし方というのが、あるはずです」
マリアは考えてから、「やってみます」と言った。
* * *
その夜、ジウが示したのは呼吸の方法だった。
「王国の炎は、体の奥で生まれます。でも体が緊張していると、伝達経路が狭くなる。まず体を緩める。呼吸から始めます」
マリアが座り、ジウが向かいに座った。ジウが自分で呼吸してみせた。と、深く。腹から。
「お腹が膨らむ呼吸です。胸ではなく、腹から。炎は体の深いところにあるので、深い呼吸の方が伝わりやすい」
マリアが真似た。最初はうまくいかなかった。でも三回目くらいから、変わった気がした。体の奥の振動が、近くなった。
「……何かが、変わった」
「経路が開いたかもしれない。体が温まると、さらに通りやすくなります」
「あなた、これはどこで学んだんですか」
「独学です。『炎無き者』と判定されてから、炎とは何かを自分で調べました。体のどこにあって、どう機能しているか。わかると、補助する方法も考えられる」
マリアはジウを見た。
「炎無き者」と言われた後、その炎について誰よりも深く調べた。資格がないから諦めるのではなく、なぜそう判定されたのかを理解する。その方向に進んだ。
「……あなたは、変わった人ですね」
「よく言われます」
「褒めてます」
ジウが、顔が緩んだ。笑う手前の、変化。
「……ありがとうございます」
* * *
第二の試練は「外との共生」だった。
試練の部屋には、古い記録が並んでいた。王国の歴史。炎の一族の系譜。その中に一つ、異質な記録があった。
ミトコンドリア王国の起源の記録だった。
それによると、王国は元々「外から来た存在」だった。何十億年も前、体の外にあった生命体が、別の細胞の中に入り込み、共に生きることを選んだ。その関係がやがて不可分になり、今の王国になった。炎を生み出す力は、元々この「外来の存在」が持っていたものだ。
試練は、この記録を読み、その意味を「体で理解する」ことだった。
老人が言った。「王国の炎は、あなたのものであると同時に、外から来たものでもある。その二つを同時に感じたとき、第二の試練は終わる」
マリアは記録を読んだ。何度も読んだ。でも「体で理解する」ということの意味がわからなかった。
試練の部屋を出て、ジウに話した。
「外から来た、という感覚が、わからない」
「炎は、自分のものでもあり、自分のものでもない」とジウが言った。「それは、試練の地まで来るこの旅も、同じかもしれない」
「どういうことですか」
「あなたは一人でここに来たのではない。私がいる。『炎無き者』とされた私が、補助している。あなたの試練は、あなたのものだが、一人のものでもない。外からの力を借りている」
マリアは黙った。
「……それが、共生ということですか」
「王国の起源がそうだったように。外から来た存在と共に生きること。それが炎の本質かもしれない」
マリアは神殿の外を見た。山の空が夕暮れで赤かった。
翌朝、試練の部屋に入った。記録の前に立った。深呼吸した。ジウがいることを思った。この人が外で待っている。「炎無き者」とされた人が、自分のためにここまで来た。それが「外から来た力と共に生きること」ではないか。
体の奥の振動が、変わった。
老人がうなずいた。
第二の試練は、終わった。
* * *
第三の試練は「継承の意志」だった。
これが最も難しかった。試練の部屋には何もなかった。台座もない。記録もない。ただ、石の部屋があるだけ。
老人が言った。「女王になる意志を、炎に示せ。強制された意志ではなく、自らの意志を」
マリアは部屋の中央に立って、考えた。自らの意志。でも私は、「なりたい」とは思っていない。ただ、「なるべきだ」という状況がある。それは意志なのか。
一時間後、マリアは部屋を出た。何も起きなかった。
ジウが外で待っていた。
「うまくいかなかった」とマリアは言った。「意志がわからない。私は女王になりたいのか、ただなるべきだからなるのか、区別できない」
ジウは何も言わなかった。黙っていた。
「……マリア様、一つ聞いていいですか」
「はい」
「なぜ、ここまで来たのですか」
「試練のためです」
「それは理由ではありません。誰かに言われたから来た、ということなら、意志ではない。でも、あなたは出発前夜に母の墓に行きました。なぜですか」
マリアが動きを止めた。
「……見ていたんですか」
「護衛なので。あなたが何をしているか、確認する義務があります。でも邪魔しなかったのは、一人でいる必要があると思ったからです」
マリアは間を置いた。
「……行ってきます、と言いに行きました」
「誰に言われたのですか」
「誰にも。自分で行きたかった」
「それが意志です」
マリアは、ジウを見た。
「誰かに強制されたのではなく、あなたが自分で行きたいと思った。女王になることへの意志は、まだはっきりしないかもしれない。でも、この旅に出ることへの意志は、あなた自身の中にあった」
マリアは何も言わなかった。目の奥が、熱くなった。
翌朝、もう一度試練の部屋に入った。中央に立った。母の墓の前での言葉を思い出した。「行ってきます」。誰に言われたわけでもなく、自分で言いに行った。その夜のことを、炎に見せた。
部屋全体が、一瞬だけ温かくなった。
老人が「三つの試練、終わり」と言った。
第四章
父方の烙印
試練が終わった夜、マリアとジウは神殿の外の石段に座った。
空に星が多かった。山の空は空気が澄んでいるので、街では見えない星まで見えた。
「試練が終わりました」とマリアは言った。「ありがとうございます」
「私は試練に参加していません」
「でも、私が終わらせることができたのは、あなたのおかげです」
ジウは星を見た。何も言わなかった。
「……ジウさん、一つ聞いていいですか」
「はい」
「お母さんのことを、教えてもらえますか」
ジウがマリアを見た。
「なぜ」
「炎の一族の傍系だったと言っていた。それ以上のことを、聞いていなかったので」
ジウは星に視線を戻した。黙った。
「……母は、早くに亡くなりました。私が五歳のときです。炎の一族の遠縁で、傍系の中でも弱い炎の紋しか持っていなかった。それが私に渡るとき、さらに薄くなった、と記録には書かれています」
「記録には」
「自分の炎の紋の判定記録を、後で取り寄せました。母から受け継いだ紋は、継承に必要な濃度の三十パーセントしかなかった、と」
「三十パーセント……それは、全くないわけではない」
「そうです。全くないわけではない。でも、炎の法の基準は五十パーセント以上。私は届いていない」
マリアは星を見た。空が広かった。
「……その三十パーセントの炎を、あなたは今、どう使っているんですか」
「使っていません。炎の法により、資格を持たないと判定されたので、使うべきでないと思っていました」
「使うべきでない?」
「規定外の炎を使うことへの、懸念がありました。認められていないものを使うことへの」
マリアは間を置いた。
「……三十パーセントでも、炎は炎です」
「……そうですか」
「三十パーセントの炎がある人と、ゼロの人は、違います。あなたは炎を持っている」
ジウは何も言わなかった。でも、石段の上で、姿勢が変わった。
* * *
帰路は三日かかった。
行きと帰りでは、ふたりの間の空気が変わっていた。話す量が増えた。話す内容も変わった。行きは必要なことしか話さなかった。帰りは、必要でないことも話した。
ジウが子供の頃のことを、話した。父が商人で、炎の一族とは無縁の人だったこと。母が亡くなった後、父と二人で暮らしたこと。「炎の法に縛られない」父の考え方が、ジウの物の見方を形づくった。
マリアも話した。母のことを。女王として生きた人の娘として生まれたことの重さを。でも母が早く亡くなって、その重さを一人で背負うことになったことを。
「……母が生きていたら、色々教えてくれたと思う。でも亡くなってしまったので、何も知らないまま女王候補になった」
「何も知らなくはないでしょう」
「でも、女王になることの意味を、誰にも教えてもらっていない」
「……今回の試練で、少し知ったのではないですか」
マリアは馬の上で、ジウの背中を見た。
「……そうかもしれません。炎は自分のものでもあり、外から来たものでもある。王国は一人のものではない。そういうことを、わかった気がします」
「それで十分だと思います」
「十分?」
「女王は一人で王国を支えるのではない。王国には多くの人がいる。支える仕組みがある。女王は、その中心にいるだけでいい。全部知らなくてもいい」
マリアは考えた。
「……ジウさんは、私が女王になることを、支持しているんですか」
一瞬の沈黙。
「……支持しています」とジウが言った。「あなたが女王になるべきだと思っています」
「なぜですか」
「あなたは、なりたくないと言いながら、出発前夜に墓に行った。なりたくないという感情と、行かなければという意志が、両方ある人は信頼できます。どちらかだけの人より」
マリアは返事ができなかった。
ジウが前を向いたまま、馬を進めた。山の道を、まっすぐに。
* * *
王都に着く前日の夜、ジウが珍しく自分から話しかけてきた。
宿の食堂に二人しかいない時間に、ジウが「一つ話があります」と言った。
「私の炎の紋のことで」
「はい」
「帰路で、マリア様が『三十パーセントでも炎は炎だ』と言いました。その言葉を、ずっと考えていました」
「どう考えましたか」
「……使ってみようと思います。三十パーセントの炎を。規定外かもしれないが、あるなら使えるはずです」
マリアは驚いた。
「今まで使っていなかったのは、規定に縛られていたから、と言っていた」
「そうです。でも、規定は人が決めたものです。炎の法は自然の理ですが、継承の資格基準は人が決めた数字です。三十パーセントではなく、五十パーセントにしたのは、人の判断です」
「……それに気づいたのは」
「マリア様が、試練の意志を問われたとき、自分で答えを見つけたからです。誰かに正解を教えてもらうのではなく、自分の中から見つけた。それを見て、私も自分で考えることにしました」
マリアは窓を見た。夜の街道が見えた。
「……ジウさんが炎を使い始めたら、烙印が変わるかもしれない」
「変わらないかもしれない。でも、使わないまま終わる方が、もったいない気がした」
マリアは微笑んだ。
「……それも、意志ですね」
ジウが間を置いてから、「そうかもしれません」と言った。
第五章
女王になるということ
王都に戻ったとき、ソフィアが出迎えた。
試練の結果を報告すると、ソフィアは「三つとも終わらせたか」とだけ言った。表情は変わらなかった。でも目が、違った。安堵か、驚きか、どちらかだった。
「継承の儀式は、一週間後に行います。それまでに、準備を整えてください」
「……ソフィア大臣、一つ聞いていいですか」
ソフィアが止まった。
「炎の法の継承基準、五十パーセント以上という数字は、誰が決めたのですか」
ソフィアが、初めて表情を変えた。眉が動いた。
「……三百年前の審議会が決めました。当時、炎の紋の強さを数値化する技術が生まれ、基準が設けられました。当時は濃度しか測れませんでしたが、今は炎の質と安定性まで測定できます」
「三百年前に決まった数字が、今も使われている」
「法とはそういうものです」
「でも、変えることはできますか」
ソフィアはマリアを見た。
「……それは、女王になった後に考えることです」
マリアは頷いた。「わかりました」と言った。でも頭の中で、その問いはまだ続いていた。
* * *
一週間、マリアは準備を続けた。
継承の儀式の内容を学んだ。女王としての役割を学んだ。王国の歴史を読んだ。
同時に、ジウと毎日会った。特に決めたわけではなく、自然に会うようになった。ジウは宮廷の訓練場にいることが多く、マリアが通りかかると声をかけた。それだけのことだったが、毎日になった。
ある夜、マリアが「ジウさんの炎を、感じてみてもいいですか」と言った。
「感じる、というのは」
「女王の炎は、近くにある炎を感知できると本で読みました。私の炎はまだ弱いですが、あなたの三十パーセントの炎が、どういう形か確かめてみたい」
「確かめて、どうするつもりですか」
マリアは考えた。
「……わかりません。ただ、あなたの炎が本物かどうか、確認したかった」
「本物かどうか」
「三十パーセントでも、炎は炎です。私はそう言いました。でも、私自身がそれを感じてみないと、ただの言葉で終わる」
ジウはマリアを見た。それから「わかりました」と言った。
マリアは手を伸ばした。ジウの胸の近くに。触れない程度の距離で。体の奥の振動を探るように、意識を向けた。
ある。
かすかだが、ある。炎の紋の振動。五十パーセントには届かないが、確かにそこにある。小さいが、温かい。
「……あります」とマリアは言った。「ちゃんと、あります」
ジウは何も言わなかった。でも、マリアが手を引いた後、彼が右手を自分の胸に当てた。炎がある場所を、確かめるように。
マリアはそれを見て、何も言わなかった。
* * *
継承の儀式の前日の夜、マリアは眠れなかった。
明日、女王の炎を受け取る。正式に。今まで持っていた「生まれながらの炎」に加えて、先代から受け継ぐ「継承の炎」が加わる。それが何を変えるのか、まだわからなかった。
廊下に出た。夜の宮廷を歩いた。訓練場の近くを通ったとき、灯りがついていた。
ジウがいた。一人で、剣を振っていた。誰もいない訓練場で、静かに。
マリアは扉の前で止まった。
ジウが気づいて、剣を止めた。
「眠れないんですか」
「はい。ジウさんも?」
「……私は夜の訓練が習慣なので」
マリアは訓練場に入った。隅の台に座った。ジウが剣を置いた。
「明日、怖いですか」とジウが聞いた。
「怖いです」
「何が怖いですか」
マリアは考えた。
「女王になったら、全部が変わる気がして。今の自分がいなくなるような。女王というのは、役職じゃなくて、存在になる気がして」
「存在になる」
「王国を支えるために生きる存在に。それは、今のマリアという個人とは違う何かに、なることだと思って」
ジウは間を置いた。
「……マリア様、一つ言っていいですか」
「どうぞ」
「女王になっても、あなたはあなたです」
「でも――」
「役割は変わります。責任は増えます。でも、お母さんの墓に行ってきますと言いに行った人は、変わらない。試練で自分の中から意志を見つけた人は、変わらない。それはあなた自身のもので、女王という肩書きが奪えるものではない」
マリアは訓練場の天井を見た。
「……ジウさんは、どうしてそんなに落ち着いているんですか」
「落ち着いてはいません。あなたが怖いのはわかります。私も、あなたが変わってしまうことが」
止まった。
「……変わってしまうことが、怖いですか」とマリアが続けた。
ジウが間を置いた。短い間だったが、確かにあった。
「……そうかもしれません」
マリアは何も言わなかった。夜の訓練場に、静かがあった。
「でも」とジウが言った。「変わっても、変わらない部分がある。それを、私は信じます」
「私の、何を信じるんですか」
「あなたが、あなたであることを」
マリアは台から立ち上がった。扉に向かった。それから一度、振り返った。
「……ありがとうございます。明日、行けそうな気がしてきました」
ジウは何も言わなかった。ただ、頭を下げた。
* * *
継承の儀式は、王宮の最も古い部屋で行われた。
参列者は少なかった。ソフィアと数人の大臣たち。それからジウ。旧認定基準で「炎無き者」とされた護衛が儀式に参列することは、本来規定外だったが、マリアが「来てほしい」と言って、ソフィアが認めた。
儀式は古い言葉で書かれた典礼に従って進んだ。継承の石には、在位中の女王が余剰の炎と記憶を少しずつ残す。継承の儀式では、その蓄積が次代へ転写される。マリアが石の前に立ち、手を当て、炎を受け取る。
マリアは石の前に立った。手を当てた。
体の奥の振動が、揺れた。
石から何かが来た。熱い。先代から、その前の代から、さらにその前から積み重なってきた炎の記憶が、一度に流れてきた。マリアの体の奥の振動と、それが重なった。
足がふらついた。
ソフィアが「マリア様」と声を上げた。
マリアは離れなかった。流れてくるものが多すぎて、処理できない。でも離れたら、途切れるかもしれない。
視界の端に、ジウが動くのが見えた。規定外と言われても、こちらに来ようとしていた。
マリアは目を向けた。
来ないで、という意味ではなかった。来てほしい、という意味でもなかった。ただ、見た。ジウが、ここにいる。それだけを確認した。
ジウが止まった。マリアが見たことに気づいて、止まった。
マリアは石に向き直った。流れてくる炎を、受け取った。全部を。
十分後、儀式が終わった。
マリアは石から手を離した。体が、前と違う感じがした。重さが増したような。でも、軽くなったような。両方あった。
ソフィアが一礼した。参列者全員が、一礼した。
ジウが、一番深く礼をした。
第六章
炎と烙印の間で
女王になって最初の一週間は、会議と儀礼の連続だった。
マリアは毎日、大臣たちと話し合いをした。王国の現状を知り、今後の方針を決める。炎の出力は、継承の儀式の後、すでに回復していた。臨界点まではまだ時間があるが、安心できる水準ではない。
その中で、マリアは一つの決定をしようとしていた。
「炎の認定制度の見直し」だった。
ジウのことだった。それは、三十パーセントの炎を持ちながら「炎無き者」と呼ばれ続けるジウを指していた。でも、ジウだけの問題ではなかった。王国には、炎の紋を持ちながら基準に満たないという理由で烙印を押されている人間が、他にも何人かいることがわかった。
ソフィアに相談したとき、彼女の反応は複雑だった。
「認定制度の変更は、炎の法に基づく社会制度の根幹に触れます。慎重に扱うべきです」
「三百年前の数字が、根幹ですか」
「慣習には意味があります。基準を下げることで、何が起きるか、十分に検討する必要があります」
「わかりました。検討します。でも、方向性として、変えたいと思っています」
ソフィアが間を置いた。
「……私自身も」と彼女は言った。「かつて、基準に届かなかった人間を知っています」
マリアは顔を上げた。
「……誰ですか」
「私の母です。炎の紋を持っていましたが、四十二パーセントしかなかった。五十には届かなかった。それで、継承の資格がないと言われました」
「ソフィア大臣のお母様が」
「私は母の炎を正式に受け継いでいない。でも、私の体の中に、母の炎の痕跡はあります。それが私を、二十年間この仕事を続けさせてきたと思っています」
マリアは何も言わなかった。ソフィアが、こういうことを話すとは思っていなかった。
「……変えることを、支持してくれますか」
「条件付きで」とソフィアは言った。「文献を読み、討議を重ねた上で。そして、あなたが女王として、その責任を持つなら」
「持ちます」
ソフィアが一礼した。今度は、深い礼だった。
* * *
ジウに告げたのは、その夜だった。
訓練場ではなく、宮廷の庭で。木の下に二人で立って、マリアが話した。
「炎の認定制度を、変えようとしています。時間はかかりますが、方向性は決まりました」
ジウは何も言わなかった。
「あなたのためだけではありません。同じ状況にある人が、他にもいます。でも、あなたのことを考えたことが、きっかけになったのは本当です」
「……私のために、制度を変えるのですか」
「あなたのためだけではないと言いました。でも、私があなたに『三十パーセントでも炎は炎だ』と言ったことを、考え続けていた。それが出発点です」
ジウは庭の木を見た。夜の木は暗かった。
「……それは、私が言ったことではありません」
「え?」
「帰路で、マリア様が私に言ったことです。『三十パーセントでも炎は炎だ』と」
マリアは驚いた。
「……そうでしたね。私が言ったことでした」
「あなたが言ったことが、あなたの制度改正の出発点になった。それは、あなた自身が気づいていたことを、言葉にしただけです」
マリアは木を見た。暗い中でも、葉が揺れていた。
「……ジウさん、女王になった後の私は、変わりましたか」
「変わりました」
「どう変わりましたか」
「……声が、少し変わりました。以前より、落ち着いています。でも」
「でも?」
「変わっていないものも、あります」
「何が」
「……わかりません。うまく言えない。ただ、変わっていないものがある、と感じます」
マリアは笑った。
「あなたが女王になっても変わらないと言っていた、あれですか」
「そうかもしれません」
ふたりは、木を見ていた。
「ジウさん」
「はい」
「あなたが女王になった後どうするか、決まっていますか」
「どう、というのは」
「ここに残りますか。それとも、どこかに行きますか」
ジウが間を置いた。
「……残ります。護衛の任命は、継続しているので」
「護衛の任命だけがあれば、残るんですか」
また間。今度は長かった。
「……護衛の任命だけが、理由ではありません」
マリアは木から目を離し、ジウを見た。ジウもマリアを見ていた。
夜の庭で、木の葉が揺れた。炎の法とは別の温かいものが、ふたりの間にあった。
第七章
最後の女王が決めること
炎の認定制度の改正審議は、二ヶ月かかった。
大臣たちの意見は割れた。「三百年の慣習を変えるべきではない」という声と、「現状に合った基準にすべき」という声が拮抗した。マリアは両方の意見を聞き、文献を読み、討議を重ねた。
最終的に、マリアが決めた。
「五十パーセントという濃度だけの認定基準は廃止します。炎の紋が検出され、その質と安定性が審査基準を満たした者を、炎の保持者として認定します」
三百年前には濃度しか測れなかった。今は、炎の質と安定性まで測定できる。マリアが選んだのは、濃度の数字だけで人を「炎無き者」と決めない制度だった。
ソフィアが「それで行きましょう」と言った。
審議が通った。
* * *
決定の翌日、ジウに告げた。
「炎の認定制度が変わりました。あなたの炎は三十パーセントですが、質と安定性の審査を受ける資格があります」
ジウは何も言わなかった。
「追加評価も受けていただく必要があります。炎の質と安定性の審査です。ただ、あなたが旅の間に示したことを考えれば、問題ないと思っています」
ジウがマリアを見た。
「……これは、私のために変えたのですか」
「あなたのためだけではありません。でも」
「でも?」
マリアは間を置いた。
「……あなたが炎を持っているとわかった夜から、決めていたことです」
ジウはマリアを見た。
「……烙印は、消えますか」
「消えます。認定制度が変わったので、過去の判定は見直されます。あなたは『炎無き者』ではなくなります」
ジウが視線を外した。窓の外の庭を見た。
何かを、飲み込むような間があった。
「……ありがとうございます」と彼は言った。「マリア様」
その呼び方が、今日は違って聞こえた。いつも通りの「マリア様」だったが、今日はその中に、いつもとは違う何かが含まれていた。
マリアは「どういたしまして」と言った。それだけ言って、窓の外を見た。庭の木が、今日は明るい光を受けて、葉が輝いていた。
王国の炎が、強くなっている証拠だった。
エピローグ
炎が燃え続ける場所
一年が経った。
王国の炎の出力は、継承の儀式から六ヶ月で安定した。臨界点の懸念はなくなり、数値は女王リーナの時代の九十パーセントまで回復していた。
炎の認定制度の改正は、王国全体で静かに受け入れられた。「炎無き者」と呼ばれていた人々の一部が再評価を受け、烙印を取り消された。
ジウは追加評価を受けた。炎の質と安定性は、基準を満たしていた。烙印が正式に取り消された日、ジウは何も言わなかった。ただ、その夜の訓練が、いつもより長かった。マリアはそれを宮廷の窓から見ていた。
* * *
秋の午後、マリアとジウは母の墓に行った。
ジウがついてきたのは、マリアが「一緒に来ますか」と聞いたからだった。ジウが「行きます」と言った。それだけのことだった。
墓の前に立って、マリアは考えてから言った。
「お母さん、女王になりました。あなたが残してくれた炎を、ちゃんと受け取りました。まだ全部うまくやれているかわかりません。でも、続けています」
風が吹いた。葉が一枚、舞った。
マリアは続けた。
「それから」と言って、隣のジウを見た。「大事な人ができました。炎を持たないと言われていた人です。でも今は、ちゃんと炎があることがわかっています」
ジウが、表情を変えた。驚きと、困惑と、それ以上の何かが、顔に出た。
「……マリア様、それは」
「お母さんへの報告なので」マリアは笑った。「正確に言いたかっただけです」
「大事な人、という部分が」
「正確です」
ジウは何も言わなかった。間があって、彼も墓石を見た。
「……リーナ女王」と彼は言った。「マリア様を、ここまで連れてきてくれてありがとうございます」
マリアは彼を見た。ジウが母の墓に話しかけるとは、思っていなかった。
「私も、彼女のそばにいる意味をもらいました」とジウは続けた。「炎の認定制度が変わったこと、私の烙印が消えたことも。全部、ここから始まった。あなたが炎を残してくれたから、マリア様がいて、私はここにいる」
風がまた吹いた。今度は強く。葉が何枚も舞った。
マリアの目が、潤んだ。泣かないようにしながら、笑った。
「……お母さん、聞いた?」
返事はなかった。いつも通り。でも、体の奥の炎が、揺れた。
返事かもしれないし、気のせいかもしれない。
どちらでも、よかった。
* * *
帰り道、ふたりは並んで歩いた。
秋の道は落ち葉が多く、歩くたびに音がした。マリアが先を歩き、ジウが一歩後ろにいた。
マリアが立ち止まって、振り返った。
「ジウさん」
「はい」
「あなたの炎が女王になった後どうするか、と聞いたことがありましたね」
「ありました」
「護衛の任命だけが理由ではない、と言っていた」
ジウが止まった。
「……言いました」
「もう、正確に教えてもらえますか。護衛の任命以外に、何が理由ですか」
間があった。
秋の道に、落ち葉が落ちる音だけがした。
「……あなたがいる場所に、いたいからです」
マリアは間を置いた。
「それは、護衛として?」
「護衛として、ではありません」
マリアは笑った。
「……私も、あなたがいる場所にいたい。女王として、ではなく」
ジウが、息を吸った。
「……それは、炎の法的には」
「炎の法は継承の話です。あなた自身が言っていたことです。護衛の資格の話とは別、と」
「……そうでした」
「だから、炎の法は関係ありません」
また秋の道に沈黙があった。でも、今度は静かな沈黙だった。
ジウが一歩、マリアの方へ出た。長い旅で染みついた癖のように、一度は護衛の位置へ戻りかけた。
けれど、戻らなかった。
マリアの隣に立った。
「……今日は、後ろじゃないんですね」
「はい」
それだけだった。
それが初めてだった。旅の最初から、ジウは護衛として一歩後ろを歩いていた。今日、初めて、自分から隣に来た。
ふたりは歩き始めた。落ち葉を踏みながら。肩と肩が、近くなって。
体の奥で、炎が揺れた。
王国の炎でもあり、マリア自身の炎でもある。母から受け継いだ炎でもあり、ここまでの旅で育てた炎でもある。外から受け継いだ古い炎が、今ここで新しく燃え直している。
全部が、一つの炎だった。
それが、燃え続けていた。
了
(本作品は第9回アイリス異世界ファンタジー大賞への応募作品です)




