国を愛した結界師は、悪役令嬢としてその地を去った。
数ある作品の中から開いていただきありがとうございます(^^♪
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 「悪役令嬢と呼ばれても」
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毎朝、夜明け前に起きる。
誰も見ていない地下礼拝堂で、冷たい石床に膝をついて、両手を結界石に当てる。
魔力を流すたびに石が淡く光り、ほんの少しだけ温かくなる。
この感触だけが、私がこの国に必要とされている証拠だと、ずっとそう思ってきた。
エルフィーナ・ヴァルトハイン。
王太子レアンドル殿下の婚約者にして、ヴァルトハイン伯爵家の一人娘。そして王都を護る古代結界の「維持者」として生まれた、たった一人の人間。
今日も石は応えてくれた。
ただ――今朝だけは、微かに、ひびが入るような音がした。
(気のせいかもしれない)
私はそう思おうとして、やめた。気のせいにしていい問題ではない。
手帳を取り出し、書き込む。
〈第十七結界石、振動音確認。要注視〉
インクが乾かないうちに次の礼拝堂へ向かう。今日は午前中に予算審議がある。
◆
「ヴァルトハイン様、今月の魔力触媒の発注数ですが、先月より三割増になっております」
侍女のマリアが書類を差し出してくる。声が少しだけ緊張している。
私は数字を確認した。間違いはない。
「そうね。第十二区画の結界補修が重なったから当然よ。何か問題でも?」
「い、いいえ。ただ……殿下のほうから、今月の宮廷費用を抑えるようにとお達しが」
「殿下のお達しは承知しているわ。でもこれは削れない。魔力触媒が足りなければ補修ができない。補修ができなければ結界が劣化する。そういうことよ」
マリアが小さく頷いて下がった。その背中が、どこか萎縮して見えた。
廊下に出たのは、審議の帰り道だった。
「……本当に怖い方よね、ヴァルトハイン様って」
曲がり角の向こうから、声が聞こえてきた。
気づいていないのだろう。若い侍女の声が二つ、廊下の石壁に反響している。
「数字と規律しかご興味がないんでしょ。人間というより、機械みたい」
「物語に出てくる悪役令嬢みたいだって専らの噂よ。侍女を怒鳴り散らして、予算を搾り取って、誰にも情けをかけないって」
「婚約者の殿下も最近は顔を曇らせているって聞くし……聖女様が来られてよかったわ、あんな令嬢の代わりに」
足が止まった。
怒鳴り散らした、は事実ではない。
ただ、そう聞こえたのなら、私の言い方に問題があったのかもしれない。
でも――
予算を「搾り取っている」は違う。あれは全部、この城の地下に眠る結界石のために使っている。
声に出すことはしなかった。
角を曲がって、侍女たちの前を通り過ぎる。二人が青ざめて固まった。
私は視線を前に固定したまま、歩き続けた。
(物語の悪役令嬢か……)
……そうね、確かにそう見えるでしょう。
私だって、そんなふうに振る舞いたくはなかった。もっと優しく、もっと柔らかく、皆に慕われる令嬢になりたかった。
でも、選べなかった。
私が少しでも甘くなれば、予算は削られる。削られれば補修が遅れる。遅れれば亀裂が広がる。亀裂が広がれば、王都は――崩れる。
誰もそれを知らない。
知っているのは、国王陛下と私だけ。
結界の詳細は国家最高機密。敵国に知られれば、弱点を一気に突かれる。だから言えない。誰にも。婚約者にさえ。
――悪役令嬢で構わない。
この城の下で、この国の土台が今日も震えている。それを知っているのが私だけなら、私が嫌われ役を買って出るしかない。
愛されなくていい。恐れられたっていい。
ただ、結界だけは、絶対に守る。
それだけが、私の矜持だった。
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第二章 「民への慈悲という名の刃」
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聖女イリス・ソレイルが宮廷に現れたのは、春の初めだった。
民衆の中から神の加護を受けた者として召し上げられた彼女は、確かに本物だった。
癒しの魔法は一級品。慈善活動への情熱は本物。彼女が笑うたびに周囲が明るくなる。
私はそれを認めていた。心から。
問題は、彼女が私の予算に目をつけたことだった。
「エルフィーナ様、この魔力触媒の費用、少し民への支援に回すことはできませんか?」
イリスが初めてそれを言ったのは、レアンドル殿下も同席する会議の場だった。
彼女の瞳は真剣で、その手は固く握られていた。演技ではない。本当に民のことを思っているのだ。それはわかる。
「できないわ」
「でも、南区の孤児院では食料が――」
「できない、と言ったの」
私の声が部屋に落ちた。
イリスがわずかに目を潤ませた。レアンドル殿下の眉がひそめられる。
言いたかった。
この費用がなぜ必要なのか、全部説明したかった。
でもできない。
ここには私とレアンドル殿下以外に、侍従も記録係もいる。何より、イリスがいる。
国家最高機密である結界の詳細を、この場で。
できるわけがない。
「……エルフィーナは、本当に民のことを考えているのか?」
低い声だった。レアンドル殿下の声。
「考えています」
「そうは見えない。イリスの言うことにも一理ある。少しくらい融通を利かせても」
「融通を利かせる余地は、ありません」
「なぜだ。なぜそこまで頑なに」
答えられなかった。
喉の奥で言葉が詰まって、溶けた。
「……殿下のご信頼に沿えず、申し訳ございません」
それだけ言って、頭を下げた。
イリスが隣で、静かに涙を拭った。
◆
それから、二ヶ月が過ぎた。
宮廷の空気は、じわじわと変わっていった。
イリスは各地で孤児院を建て、病者を癒し、民に食料を配った。その評判が上がるにつれ、私への風当たりが強くなっていった。
「ヴァルトハイン様が予算を握り締めているせいで、民への支援が届かないのだ!」
「聖女様は本当に民のことを思っているのに、あの令嬢は……」
貴族の間でも、その声は聞こえた。
私はただ黙っていた。黙るしかなかった。
そして一ヶ月前、レアンドル殿下の指示で、補修用予算の一部がイリスの活動費に流用された。
私は書面で抵抗した。口頭でも訴えた。それでも押し切られた。
夜、一人で手帳を開く。
〈第十七結界石、亀裂確認。補修資材、来月分まで不足〉
数字が、静かに私を追い詰めていった。
◆
三日前、イリスが私の執務室に来た。
珍しいことだった。彼女から私を訪ねてくることは、ほとんどなかった。
扉を開けると、イリスは少し緊張した顔をしていた。でも、その目には迷いはなかった。
「エルフィーナ様、少しよろしいですか」
「どうぞ」
彼女は入って、椅子に座って、私の顔を見た。
「……単刀直入に申し上げます。来月予定の民への薬品配給に、ヴァルトハイン様の残り予算を充ててほしいのです」
私は彼女を見た。
嘘のない目だった。本当に、民のために言っている。それだけは確かだ。
でも。
「断ります」
「なぜ、そこまで」
「言えない理由があります」
「言えない理由?」
イリスが少し前のめりになった。
「エルフィーナ様、私はあなたを責めたいわけではありません。ただ、民が苦しんでいます。あなたにも、その痛みは見えているはずでしょう?」
見えている。
ちゃんと見えている。だから余計に、辛い。
「……あなたは善人ですね、イリス様」
私がそう言うと、彼女は少し驚いた顔をした。
「善人だと思います。本当に。ただ、目の前の善意だけでは防げないものもある。それだけです」
「どういう意味ですか」
答えられなかった。
答えたら、全部話さなければならなくなる。
「……お引き取りください」
イリスが立ち上がる時、その瞳が揺れた。傷ついた色があった。
悪意ではなかった。でも、それが何の慰めになる。
◆
『民への慈悲を示す式典』が開かれたのは、六月の終わりだった。
広場には、数百人の民が集まっていた。
壇上には国王陛下、レアンドル殿下、イリス。そして私。
晴れ渡った空が、恨めしいくらいに美しかった。
式典は滞りなく進んだ。イリスのスピーチに、民が拍手を送る。その笑顔は本物で、私はそれを見て、ああ、やはり彼女は善人なのだと思った。
だから余計に、辛かった。
レアンドル殿下が壇上に進み出たのは、式典の終盤だった。
「本日、皆に報告したいことがあります」
静かな声だった。私の隣に立って、真っ直ぐ前を向いたまま。
私は心の準備が何もできていない状態だった。
「エルフィーナ・ヴァルトハイン伯爵令嬢との婚約を、本日をもって解消いたします!」
広場が、しんと静まり返った。
私の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。
でも、表情は動かなかった。動かさなかった。
「彼女はこの五年、王太子妃候補として務めてくれた。しかし民を思いやる心に欠け、冷酷な行政を続けたことは、この国の精神に反する。より民の声に近い者が、この国の妃に相応しい」
続く言葉は、耳に入ってこなかった。
遠くで民が囁き合う声だけが、妙にはっきりと聞こえた。
――やっぱり、あの令嬢はおかしかったのよ。
――聖女様が来てよかった。
――これで国も変わるわ、きっと。
私は壇上の端で、ただ立っていた。
弁明しようとした。本当に、しようとした。
でも――何を言える?
結界の秘密を、数百人の民の前で、敵国の間諜が紛れ込んでいるかもしれないこの広場で、暴露できるわけがない。
私が黙っている間に、レアンドル殿下は続けた。
「なお、ヴァルトハイン令嬢には、王都を離れていただく。これは国の決定だ」
(追放ってこと?)
……そう。追放か。
不思議と、涙は出なかった。
怒りも、もうあまりなかった。
あったのはただ、底冷えするような静けさだった。
イリスがこちらを見ていた。その目に浮かんでいたのは、罪悪感だったかもしれない。
でも今更、どうしようもない。
私は壇上の中央に歩み出て、国王陛下に向かって深く一礼した。
「……謹んで、承りました」
声は、震えなかった。
それだけ言って、振り返らずに壇上を降りた。
民の視線が刺さるように感じた。でも構わなかった。
城に戻り、荷物をまとめる。
手帳は持った。補修の記録も持った。もう誰も読まないだろうけれど、捨てることはできなかった。
夜明け前に、城を出た。
お父様もお母様とも最後の挨拶すらさせてもらえなかった。
案の定、誰からも見送られなかった。
振り返りたい気持ちを、ぐっと押し込めた。
振り返ったら、泣いてしまうから。
(やっぱり、ちょっと悔しいな……)
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第三章 「国境で拾われた女」
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追放から三日。
国境に近い小さな村の宿屋で、私は地図を広げていた。
どこへ行けばいい。
貴族のドレスのまま、荷物を持って一人で歩いている私には、旅の技術も商売の知恵もない。令嬢として育てられた人間に、一人で生きる術などほとんどなかった。
宿を出て、村外れの川沿いを歩いた。
空気だけは、澄んでいた。王都の張り詰めた空気と違う、ただの、普通の空気。
「……すんません」
声をかけてきたのは、若い男だった。
陽に焼けた肌。砂ぼこりのついた外套。でも姿勢がよく、目が澄んでいる。
帯剣しているが、その握り方が鍛えられた者のそれだ。少し離れたところに従者らしき人間が控えていた。
男は私を、頭のてっぺんからつま先まで、遠慮なく見た。
「キミ……商人でも、冒険者でも、ないですよね? どこかのお嬢さんですね」
唐突だった。私は少し眉を上げた。
「そう見えますか」
「貴族のドレスのまま、荷物を一つ持って一人で川沿いに立っている人間が、他に何に見えます?」
言い返せなかった。事実だから。
「旅人、とでも言っておきます」
「そういうことにしておきましょう。宿は?」
「……あの、向こうの宿屋に」
「ほうほう。行き先は?」
「それは……」
言葉が、止まった。
男は責めるでもなく、ただまっすぐ私を見ていた。この手の目を、私は知っている。悪意がない。ただ、純粋に気になっているだけの目だ。
「この先に検問があります。身分証がないと通れない」
「……知りませんでした」
「だと思いました」
男が少し笑った。
不快な笑い方ではなかった。どこか明るい。
「良かったら、少し話を聞かせてもらえますか。俺、この辺りの事情にはかなり詳しいので」
断る理由がなかった。
◆
村の食堂で、向かい合った。
男は自己紹介をした。
「カイル・ルーチェンベルグ。各国を旅するのが好きで」
後半の名前を、私は一拍置いてから整理した。
ルーチェンベルグ。
――それは、隣国の王家の名前だ。
「……第二王子殿下、ですか」
「あ、バレましたか」
全然悪びれない。
私は少しだけ疲れた気持ちで、自分の名前を言った。
「エルフィーナ・ヴァルトハイン、です」
カイルの顔が、変わった。
楽しそうな軽さが、一瞬で消えた。
両目が、私をまっすぐ見る。
「……ヴァルトハイン。まさか、アスタリアの結界師の!?」
「存じ上げませんが、ヴァルトハイン家の結界師は私だけですので」
カイルがしばらく黙った。
その目が、少しずつ別の色になっていった。驚き、それから――なんだろう。測るような、でも敵意のない、真剣な色。
「アスタリアの結界師と言ったら、神のような結界師ですよ!」
「か、神?」
彼が静かに言った。
「あの結界の効力は、外から見ても明らかに高水準です。魔素の遮断率、亀裂の補修精度……我が国の魔術師団が調査して、正式に報告書を出したくらいです。あれを維持していたのが誰なのか、ずっと気になっていた」
(アスタリア国の結界が危ういことはバレていなかったのね)
「……そうでしたか」
「私、一人で維持していました」
「あれを一人で……?」
「はい」
初めて知った。
あの仕事を、外から見ていた人間がいたのか。数値として、評価していた人間が。
「それが、なんで一人で国境に?」
私は少し考えた。
嘘をつく理由も、隠す理由も、もう別にない。
「あの結界を維持する予算を確保しようとしたら……その……」
「その?」
「追放されました」
「はい?」
「国を追い出されました……」
「どれだけの予算を確保しようとしたら追放になるのですか!」
私は、耳打ちでおおよその予算を伝えた。
カイルは、驚いた表情を隠しきれていなかった。
(やはり、どこも自分の考えが間違いなのか)
カイルが黙った。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと後ろの従者と顔を合わせた。
「エルフィーナ様」
「はい……」
「うちでしたら、その五倍は最低でも出します」
(五倍……?)
「良ければ……我が国に、来ていただけませんか?」
「はい?」
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第四章 「太陽の国の結界師」
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ルーチェンベルグ王国に入って、最初に驚いたのは、人々の顔だった。
明るかった。
笑っていた。
私の存在に好奇の目を向けてくるが、怯えていない。萎縮していない。
カイルが国王陛下に経緯を報告し、私は正式に「結界師顧問」として迎えられた。
礼儀正しい官吏が私の話をよく聞いた。必要な資材を、躊躇なく用意してくれた。
「ありがとうございます、ヴァルトハイン顧問」
初めて言われた時、少しだけ、何かが胸の奥でほどけた気がした。
ありがとう、か。
そうか。こういう言葉を、私は求めていたのかもしれない。
仕事は充実していた。
ルーチェンベルグの既存の結界は術式が古く、効率が悪かった。私が見直しを行うと、魔力消費量が三分の一まで下がった。官吏たちがどよめいた。
初めて、自分の仕事が誰かの顔を明るくするのを、ちゃんと見た。
カイルはよく執務室に顔を出してきた。
「また来たんですか」
「仕事の進捗確認だよ~」
「王子が来るような話ではありません」
「堅いな。今日の食堂、南瓜のスープらしいよ。飯食いながら話そうよ」
そういう男性だった。距離が近い。軽い。でも、嘘がない。
ある夜、執務室に一人で残って手帳を開いていると、カイルが覗き込んできた。
「それ、前の国の記録?」
「……そうです」
「大事にしてるんだね」
私は何も答えなかった。カイルも、それ以上聞かなかった。
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第五章 「亀裂」
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私が追放されて四ヶ月が経った日、カイルが執務室に来た。
その顔を見た瞬間、わかった。いつもと違う。
「……アスタリアから、キミ宛に使者が来た」
私は手を止めた。
「王都の結界が、崩壊し始めているだと」
「使者の方と直接お話しできますか?」
「特別だよ?」
胸の中で、何かが静かに沈んだ。
わかっていた。いつかそうなると、ずっとわかっていた。
だから毎朝あの礼拝堂に通い、数字を管理し、補修を繰り返してきた。私が去った後、あの手帳を読める人間がいない。術式を引き継げる人間がいない。
カイルの計らいで使者と直接話すことができた。
「被害は、どの程度ですか」
「第十二区画から第十七区画にかけて、亀裂が拡大中だと」
十二から十七。私の手帳に、〈要注視〉と書いた区画だ。
「資材は」
「大幅に削減されていたようで、補修に必要な触媒が圧倒的に不足していると」
そう。二ヶ月前に削った。私が反対したのに、押し切られた。
「後任の結界師は」
「……いません。あなた程に術式を扱える人間が……」
続きは言わなくてもわかった。
私は窓の外を見た。
遠く、地平の向こうに、アスタリアの方角がある。今頃、民は震えているだろうか。
「ヴァルトハイン様……もう一度、お力をお貸しいただくことは……」
(アスタリアには両親もいる……)
「無理だ!」
カイルが話を遮るように口を開いた。
「自分たちで蒔いた種だろうが」
「ですが……」
「お引き取り願います」
◆
アスタリア王都で何が起きたか、使者の報告と後に届いた手紙で、私はその全容を知った。
両親は無事であること。
伯爵家として、民を見捨てこちらの国に行くことはできないとのこと。
結界の亀裂は急速に拡大し、第十五区画の住居地帯に魔素が流入した。原因不明の体調不良が相次ぎ、作物が枯れた。
補修しようにも、触媒が足りない。術式がわかる人間がいない。王宮魔術師たちは必死に試みたが、素人仕事は状況を悪化させただけだった。
三分の一の区画が、立ち入り禁止になった。
その時初めて、民は知ったのだという。
あの予算が何に使われていたか。あの厳格な令嬢が、何をしていたか。
「ヴァルトハイン様は毎朝、結界石に魔力を流していたのか」
「あの予算書は、全部これのためだったのか」
「……なぜ、予算が通っていなかったんだ!」
民の声が、使者の言葉の中に混じっていた。
なぜ、と言われても。
それを知らずに糾弾した人々を、私は恨んでいない。
ただ、少しだけ――遅かったなと思った。
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第六章 「正しかった男の末路」
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私は、正しかった。
ずっとそう思っていた。
あの式典の日、壇上に立って婚約破棄を宣言した時、私は確信していた。
民は歓声を上げ、イリスは涙を流し、貴族たちは拍手を送った。エルフィーナが黙って頭を下げ、壇上を去った後も、私の胸には一片の迷いもなかった。
正しいことをした。
民のために、国のために、感情ではなく理性で判断した。
それが王太子というものだ、と。
そう思っていた。
三ヶ月は。
◆
最初の異変は、宮廷魔術師長の顔色で気づいた。
謁見の間への廊下で、彼が私を待ち伏せていた。
普段は飄々とした老人が、その日は口元が青白かった。
「殿下……第十七区画の結界石に、亀裂が生じております」
「どのくらいで補修できる?」
「それが……術式が、我々には読めません」
「読めない?」
「エルフィーナ様独自の記述体系で構成されていたようで……書き残された記録も、解読に最低で半年はかかるかと」
胃の底が、すうと冷えた。
「では触媒を使った応急処置を」
「触媒の備蓄が……先々月の予算削減で、現在の在庫量では第十七区画の補修だけで尽きてしまいます」
冷えが、背骨を伝って上がってきた。
その言葉を聞いた瞬間、エルフィーナの声が耳によみがえった。
〈融通を利かせる余地は、ありません〉
〈削れないのです、殿下〉
何度言われた。
何度、私は「頑なだ」と切り捨てた。
「……わかった。最善を尽くすよう」
声が、自分でも平静を装いきれていないとわかった。
◆
一週間後には、手がつけられなくなっていた。
魔術師たちが補修を試みるたびに、亀裂は悪化した。
術式の構造を知らない者が触れてはいけなかったのだ。それは後になってわかった。わかった時には、第十二区画と第十五区画の住民が避難を始めていた。
作物が枯れた。
体調不良の報告が、日に五件、十件、二十件と増えていった。
立ち入り禁止の区画が増えるたびに、私の中で何かが音を立てて軋んだ。
そして父上から呼び出された。
◆
謁見の間に入った瞬間、空気が違うと思った。
父上は玉座に座っていた。その両隣に、宰相と、近衛騎士団長。
書記官もいた。これは記録に残る場だ。
「レアンドル」
父上の声は、低かった。怒鳴らない分、重かった。
「はい」
「お前は、あの式典での婚約破棄と追放の宣言について……事前に余の許可を得たか」
その言葉で、血の気が引いた。
「……それは」
「答えよ」
答えられなかった。
あの式典は、「民への慈悲を示す」式典として父上の許可を得て開いた。だが婚約破棄の宣言は――私が、独断で加えたのだ。その場の勢いで。民の期待に応えるように。イリスの笑顔に背中を押されるように。
事前に父上に諮れば、止められると思っていた。だから言わなかった。
「……得ておりませんでした」
父上が、ゆっくりと立ち上がった。
「王太子が、国王の許可なく王家の婚約を破棄し、伯爵令嬢を国外追放した。これがどういう意味か、わかるか」
「……はい」
「いいや、わかっていない」
父上が、玉座の段を降りてこちらへ歩いてくる。その足音が、静かな謁見の間に響いた。
「余はあの娘に、結界の維持を命じていた。国家最高機密の任を負わせていた。彼女が予算を守ろうとしていたのは、余の命令に従っていたからだ」
膝から力が抜けそうになった。
「お前は知らなかった。それは余の落ち度でもある。だが――知らないまま、余に諮りもせず、有望な令嬢を壇上で断罪し、この国から追い出した。彼女が負っていた秘密も、使命も、何一つ知らぬまま」
「……」
「お前が追放した令嬢が、この王都を守っていた。今、その王都の三分の一が、住めない土地になりつつある」
父上が私の目の前に立った。
「レアンドル。お前は何をした」
答えようとして、言葉が、出なかった。
◆
その日の夕方、再び謁見の間に呼び出された。
今度は違った。宮廷のほぼ全貴族が集められていた。
私が入場した時、視線が刺さった。同情ではなく、冷たい目だった。
そうか、と思った。
もう民だけでなく、貴族たちも風向きが変わっているのか。
父上が宣言した。
「王太子レアンドルを、本日をもって廃嫡とする」
謁見の間が、静まり返った。
「理由は二つ。第一に、国王の許可なく王家の婚約を破棄し、国家の要職にある者を追放した越権行為。第二に、その結果として王都の結界を崩壊させ、民に甚大な被害を与えた失政の責任。これは、廃嫡に値する」
廃嫡。
私は、その言葉の意味を、頭ではわかっていた。
でも実感が来なかった。来るはずがなかった。
私はこの国の王太子として生まれ、王太子として育てられた。それ以外の自分を、考えたことがなかった。
「なお、ヴァルトハイン家への謝罪と賠償については、国として正式に行う。レアンドル個人としても、書面にて誠意を示すよう」
貴族たちの中から、誰かが小さく呟くのが聞こえた。
「……自業自得だ」
誰の声かはわからなかった。でも、否定する者はいなかった。
◆
その翌日、北の国境から急使が届いた。
内容は、短かった。
〈隣接三国が、アスタリア王都の結界崩壊を確認。軍の動向に注意されたし〉
私は書面を読んで、手が震えた。
当然だ。
結界が崩れれば、弱体化した国だと知れ渡る。
それを待っていた国が、この大陸にいくつあると思っていた。
エルフィーナが予算を守ろうとしたのは、この事態を防ぐためだったのか。
魔力触媒が必要だったのは、結界の強度を外から読まれないようにするためだったのか。
資材の詳細を公開できなかったのは、どこに敵の目があるかわからなかったからなのか。
全部、今ならわかる。
全部、今更わかる。
◆
夜、私はイリスの部屋を訪ねた。
扉を開けると、イリスは椅子に座ったまま、壁を見ていた。
私の顔を見た瞬間、彼女は唇を震わせた。
「レアンドル様……私、私は……」
「イリス」
「私が、予算を削るよう動いたから。私が、エルフィーナ様を責めたから。私が……っ」
泣き崩れた。
本物の絶望だった。悪意はなかった。ただ、見えていなかっただけだ。
私と、同じだ。
でも、それが何の慰めになる。
「見えていなかったわ……どうしてあの方が厳しくしていたのか。どうして予算を渡せなかったのか。私は全部、彼女の冷たさのせいだと……っ」
私も慰めの言葉を持っていなかった。自分自身を慰める言葉が、何もなかった。
ただ、一つだけ。
壇上でエルフィーナが言った言葉が、耳に蘇っていた。
〈謹んで、承りました〉
たった、それだけだった。
反論しなかった。怒らなかった。泣かなかった。
あの時、私はそれを「感情がない女だ」と思った。
今ならわかる。
彼女は全部、わかっていたのだ。
言っても無駄だと。言えば機密が漏れると。弁明すれば敵に弱点を晒すと。
だから黙って、頭を下げて、去った。
この国を守るために、最後まで。
この国に追放されながら、最後まで。
私は、五年間で何を見ていたのか。
エルフィーナは私の婚約者だった。
毎日そばにいた。毎日顔を合わせた。
それでも、彼女が何を背負っているか、何一つ見えていなかった。
見ようとしなかっただけかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、吐き気がした。
自分が「民を見ていた」と思っていたのは、傲慢だった。
見えやすいものしか見ていなかった。笑顔と涙と、わかりやすい善意だけを見ていた。
見えないところで積み上がっていたものを、ただ踏みにじった。
取り返しがつかない。
この国の三分の一の区画が使えなくなった。
国境に他国の軍が集まり始めている。
私は廃嫡された。
エルフィーナは、もう戻らない。
どれも、私が正しいと信じてした選択の、結果だ。
反省している、とは言えない。
反省という言葉が生ぬるい。
これは後悔ですらない。
取り返せないと、わかってしまっているのだ。
あの日に戻ったとしても、私はまた同じ選択をしていたかもしれない。
それが一番、恐ろしかった。
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終章 「結界師の笑い方」
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ルーチェンベルグの北の高台に、よく来るようになった。
晴れた日には、遠く、アスタリアの方角がうっすらと見える。今はもう、あの国の結界はかつての半分も機能していないはずだ。いくつかの区画は復旧しつつあると聞いた。憂国の魔術師たちが支援しているらしい。
それでいい。
私がいなくても、世界は回る。
ただ、アスタリアが傾いていることは他の国に知られている。
いつ攻められても、おかしくない状況であることには変わりない。
「また来てる」
背後から声がして、振り返らなくてもわかった。
「散歩です」
「奇遇だな、俺も散歩」
カイルが隣に立った。風が吹いて、私の髪が揺れた。
「……あっちのこと、考えてた?」
「少し」
「後悔しているか?」
少し考えた。本当に、少しだけ。
「……していません」
それは本当だった。
後悔するとすれば、あの国に戻ることではない。あの国で、ただ消耗し続けた時間かもしれない。でも、あの時間がなければ、今の私もない。
カイルが空を見上げた。
「エルフィーナって、最初会った時と全然違うよな」
「……最初会った時は、それどころじゃありませんでしたから」
「今は?」
高台の向こう、遠くに霞むあの国を、私は見た。
かつて私を糾弾した人々が、今頃どんな顔をしているか、大体わかる。
後悔しているだろう。知らなかったと言うだろう。でも、知ろうとしなかったのは彼らだ。
それでも、憎んではいない。
人は、見えているものしか信じられない。そういうものだ。
ただ。
私がいなくなって初めて、私の価値に気づいたのなら。
――遅すぎた、と思う。少しだけ、思う。
「今は……悪くない」
私は言った。声に出してみて、それが本当だとわかった。
カイルが私のほうを向いた。その顔に、いつもの軽さとは少し違う、真剣な色があった。
「エルフィーナ。ルーチェンベルグの人間にならないか?」
「私は、ここの民ですよ」
「そういう意味じゃない。……俺の家族に、王族の一員になってほしいんだ」
唐突だった。
でも、驚かなかった。
「……婚約ということですか」
「そういうこと」
「……散歩のついでに言うことではありませんよ。ですが、謹んでお受けします」
「ほんと? やった!」
カイルが声を上げて笑った。大きく、遠慮なく。
その笑い声が、高台の風に溶けた。
私の口元が、知らずに上がっていた。
遠くのあの国が、霞んでいる。
崩れかけた結界の向こうで、誰かが後悔しているかもしれない。
でも、もう。
私には、今日の風と、隣に立つ男と、明日の仕事がある。
それで十分だった。それ以上は、もう何も要らなかった。
――悪役令嬢で構わないと思っていた、あの朝の私へ。
あなたは間違っていなかった。ただ、報われる場所が違っただけ。
私は高台の風の中で、久々に、心から笑った。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「国を愛した結界師は、悪役令嬢としてその地を去った。」、いかがでしたか?
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また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




