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国を愛した結界師は、悪役令嬢としてその地を去った。

作者: おでこ
掲載日:2026/04/23

数ある作品の中から開いていただきありがとうございます(^^♪


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/


━━━━━━━━━

第一章 「悪役令嬢と呼ばれても」

━━━━━━━━━


 毎朝、夜明け前に起きる。


 誰も見ていない地下礼拝堂で、冷たい石床に膝をついて、両手を結界石に当てる。

 魔力を流すたびに石が淡く光り、ほんの少しだけ温かくなる。

 この感触だけが、私がこの国に必要とされている証拠だと、ずっとそう思ってきた。


 エルフィーナ・ヴァルトハイン。

 王太子レアンドル殿下の婚約者にして、ヴァルトハイン伯爵家の一人娘。そして王都を護る古代結界の「維持者」として生まれた、たった一人の人間。


 今日も石は応えてくれた。

 ただ――今朝だけは、微かに、ひびが入るような音がした。


 (気のせいかもしれない)


 私はそう思おうとして、やめた。気のせいにしていい問題ではない。


 手帳を取り出し、書き込む。


 〈第十七結界石、振動音確認。要注視〉


 インクが乾かないうちに次の礼拝堂へ向かう。今日は午前中に予算審議がある。


   ◆


「ヴァルトハイン様、今月の魔力触媒の発注数ですが、先月より三割増になっております」


 侍女のマリアが書類を差し出してくる。声が少しだけ緊張している。

 私は数字を確認した。間違いはない。


「そうね。第十二区画の結界補修が重なったから当然よ。何か問題でも?」


「い、いいえ。ただ……殿下のほうから、今月の宮廷費用を抑えるようにとお達しが」


「殿下のお達しは承知しているわ。でもこれは削れない。魔力触媒が足りなければ補修ができない。補修ができなければ結界が劣化する。そういうことよ」


 マリアが小さく頷いて下がった。その背中が、どこか萎縮して見えた。


 廊下に出たのは、審議の帰り道だった。


「……本当に怖い方よね、ヴァルトハイン様って」


 曲がり角の向こうから、声が聞こえてきた。

 気づいていないのだろう。若い侍女の声が二つ、廊下の石壁に反響している。


「数字と規律しかご興味がないんでしょ。人間というより、機械みたい」

「物語に出てくる悪役令嬢みたいだって専らの噂よ。侍女を怒鳴り散らして、予算を搾り取って、誰にも情けをかけないって」

「婚約者の殿下も最近は顔を曇らせているって聞くし……聖女様が来られてよかったわ、あんな令嬢の代わりに」


 足が止まった。


 怒鳴り散らした、は事実ではない。

 ただ、そう聞こえたのなら、私の言い方に問題があったのかもしれない。


 でも――

 予算を「搾り取っている」は違う。あれは全部、この城の地下に眠る結界石のために使っている。


 声に出すことはしなかった。

 角を曲がって、侍女たちの前を通り過ぎる。二人が青ざめて固まった。


 私は視線を前に固定したまま、歩き続けた。


 (物語の悪役令嬢か……)


 ……そうね、確かにそう見えるでしょう。

 私だって、そんなふうに振る舞いたくはなかった。もっと優しく、もっと柔らかく、皆に慕われる令嬢になりたかった。


 でも、選べなかった。


 私が少しでも甘くなれば、予算は削られる。削られれば補修が遅れる。遅れれば亀裂が広がる。亀裂が広がれば、王都は――崩れる。


 誰もそれを知らない。

 知っているのは、国王陛下と私だけ。


 結界の詳細は国家最高機密。敵国に知られれば、弱点を一気に突かれる。だから言えない。誰にも。婚約者にさえ。


 ――悪役令嬢で構わない。


 この城の下で、この国の土台が今日も震えている。それを知っているのが私だけなら、私が嫌われ役を買って出るしかない。


 愛されなくていい。恐れられたっていい。

 ただ、結界だけは、絶対に守る。


 それだけが、私の矜持だった。



━━━━━━━━━

第二章 「民への慈悲という名の刃」

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 聖女イリス・ソレイルが宮廷に現れたのは、春の初めだった。


 民衆の中から神の加護を受けた者として召し上げられた彼女は、確かに本物だった。

 癒しの魔法は一級品。慈善活動への情熱は本物。彼女が笑うたびに周囲が明るくなる。

 私はそれを認めていた。心から。


 問題は、彼女が私の予算に目をつけたことだった。


「エルフィーナ様、この魔力触媒の費用、少し民への支援に回すことはできませんか?」


 イリスが初めてそれを言ったのは、レアンドル殿下も同席する会議の場だった。

 彼女の瞳は真剣で、その手は固く握られていた。演技ではない。本当に民のことを思っているのだ。それはわかる。


「できないわ」


「でも、南区の孤児院では食料が――」


「できない、と言ったの」


 私の声が部屋に落ちた。

 イリスがわずかに目を潤ませた。レアンドル殿下の眉がひそめられる。


 言いたかった。


 この費用がなぜ必要なのか、全部説明したかった。


 でもできない。

 ここには私とレアンドル殿下以外に、侍従も記録係もいる。何より、イリスがいる。

 国家最高機密である結界の詳細を、この場で。


 できるわけがない。


「……エルフィーナは、本当に民のことを考えているのか?」


 低い声だった。レアンドル殿下の声。


「考えています」


「そうは見えない。イリスの言うことにも一理ある。少しくらい融通を利かせても」


「融通を利かせる余地は、ありません」


「なぜだ。なぜそこまで頑なに」


 答えられなかった。

 喉の奥で言葉が詰まって、溶けた。


「……殿下のご信頼に沿えず、申し訳ございません」


 それだけ言って、頭を下げた。

 イリスが隣で、静かに涙を拭った。


   ◆


 それから、二ヶ月が過ぎた。


 宮廷の空気は、じわじわと変わっていった。

 イリスは各地で孤児院を建て、病者を癒し、民に食料を配った。その評判が上がるにつれ、私への風当たりが強くなっていった。


「ヴァルトハイン様が予算を握り締めているせいで、民への支援が届かないのだ!」

「聖女様は本当に民のことを思っているのに、あの令嬢は……」


 貴族の間でも、その声は聞こえた。


 私はただ黙っていた。黙るしかなかった。


 そして一ヶ月前、レアンドル殿下の指示で、補修用予算の一部がイリスの活動費に流用された。

 私は書面で抵抗した。口頭でも訴えた。それでも押し切られた。


 夜、一人で手帳を開く。


 〈第十七結界石、亀裂確認。補修資材、来月分まで不足〉


 数字が、静かに私を追い詰めていった。


   ◆


 三日前、イリスが私の執務室に来た。


 珍しいことだった。彼女から私を訪ねてくることは、ほとんどなかった。

 扉を開けると、イリスは少し緊張した顔をしていた。でも、その目には迷いはなかった。


「エルフィーナ様、少しよろしいですか」


「どうぞ」


 彼女は入って、椅子に座って、私の顔を見た。


「……単刀直入に申し上げます。来月予定の民への薬品配給に、ヴァルトハイン様の残り予算を充ててほしいのです」


 私は彼女を見た。

 嘘のない目だった。本当に、民のために言っている。それだけは確かだ。


 でも。


「断ります」


「なぜ、そこまで」


「言えない理由があります」


「言えない理由?」


 イリスが少し前のめりになった。


「エルフィーナ様、私はあなたを責めたいわけではありません。ただ、民が苦しんでいます。あなたにも、その痛みは見えているはずでしょう?」


 見えている。

 ちゃんと見えている。だから余計に、辛い。


「……あなたは善人ですね、イリス様」


 私がそう言うと、彼女は少し驚いた顔をした。


「善人だと思います。本当に。ただ、目の前の善意だけでは防げないものもある。それだけです」


「どういう意味ですか」


 答えられなかった。

 答えたら、全部話さなければならなくなる。


「……お引き取りください」


 イリスが立ち上がる時、その瞳が揺れた。傷ついた色があった。

 悪意ではなかった。でも、それが何の慰めになる。


   ◆


 『民への慈悲を示す式典』が開かれたのは、六月の終わりだった。


 広場には、数百人の民が集まっていた。

 壇上には国王陛下、レアンドル殿下、イリス。そして私。

 晴れ渡った空が、恨めしいくらいに美しかった。


 式典は滞りなく進んだ。イリスのスピーチに、民が拍手を送る。その笑顔は本物で、私はそれを見て、ああ、やはり彼女は善人なのだと思った。


 だから余計に、辛かった。


 レアンドル殿下が壇上に進み出たのは、式典の終盤だった。


「本日、皆に報告したいことがあります」


 静かな声だった。私の隣に立って、真っ直ぐ前を向いたまま。

 私は心の準備が何もできていない状態だった。



「エルフィーナ・ヴァルトハイン伯爵令嬢との婚約を、本日をもって解消いたします!」



 広場が、しんと静まり返った。


 私の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。

 でも、表情は動かなかった。動かさなかった。

 

「彼女はこの五年、王太子妃候補として務めてくれた。しかし民を思いやる心に欠け、冷酷な行政を続けたことは、この国の精神に反する。より民の声に近い者が、この国の妃に相応しい」


 続く言葉は、耳に入ってこなかった。


 遠くで民が囁き合う声だけが、妙にはっきりと聞こえた。


 ――やっぱり、あの令嬢はおかしかったのよ。

 ――聖女様が来てよかった。

 ――これで国も変わるわ、きっと。


 私は壇上の端で、ただ立っていた。


 弁明しようとした。本当に、しようとした。

 でも――何を言える?

 結界の秘密を、数百人の民の前で、敵国の間諜が紛れ込んでいるかもしれないこの広場で、暴露できるわけがない。


 私が黙っている間に、レアンドル殿下は続けた。


「なお、ヴァルトハイン令嬢には、王都を離れていただく。これは国の決定だ」


 (追放ってこと?)


 ……そう。追放か。


 不思議と、涙は出なかった。

 怒りも、もうあまりなかった。


 あったのはただ、底冷えするような静けさだった。


 イリスがこちらを見ていた。その目に浮かんでいたのは、罪悪感だったかもしれない。


 でも今更、どうしようもない。


 私は壇上の中央に歩み出て、国王陛下に向かって深く一礼した。


「……謹んで、承りました」


 声は、震えなかった。


 それだけ言って、振り返らずに壇上を降りた。

 民の視線が刺さるように感じた。でも構わなかった。


 城に戻り、荷物をまとめる。

 手帳は持った。補修の記録も持った。もう誰も読まないだろうけれど、捨てることはできなかった。


 夜明け前に、城を出た。

 お父様もお母様とも最後の挨拶すらさせてもらえなかった。

 案の定、誰からも見送られなかった。


 振り返りたい気持ちを、ぐっと押し込めた。

 振り返ったら、泣いてしまうから。


 (やっぱり、ちょっと悔しいな……)



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第三章 「国境で拾われた女」

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 追放から三日。

 国境に近い小さな村の宿屋で、私は地図を広げていた。


 どこへ行けばいい。

 貴族のドレスのまま、荷物を持って一人で歩いている私には、旅の技術も商売の知恵もない。令嬢として育てられた人間に、一人で生きる術などほとんどなかった。


 宿を出て、村外れの川沿いを歩いた。

 空気だけは、澄んでいた。王都の張り詰めた空気と違う、ただの、普通の空気。


「……すんません」


 声をかけてきたのは、若い男だった。


 陽に焼けた肌。砂ぼこりのついた外套。でも姿勢がよく、目が澄んでいる。

 帯剣しているが、その握り方が鍛えられた者のそれだ。少し離れたところに従者らしき人間が控えていた。


 男は私を、頭のてっぺんからつま先まで、遠慮なく見た。


「キミ……商人でも、冒険者でも、ないですよね? どこかのお嬢さんですね」


 唐突だった。私は少し眉を上げた。


「そう見えますか」


「貴族のドレスのまま、荷物を一つ持って一人で川沿いに立っている人間が、他に何に見えます?」


 言い返せなかった。事実だから。


「旅人、とでも言っておきます」


「そういうことにしておきましょう。宿は?」


「……あの、向こうの宿屋に」


「ほうほう。行き先は?」


「それは……」


 言葉が、止まった。

 男は責めるでもなく、ただまっすぐ私を見ていた。この手の目を、私は知っている。悪意がない。ただ、純粋に気になっているだけの目だ。


「この先に検問があります。身分証がないと通れない」


「……知りませんでした」


「だと思いました」


 男が少し笑った。

 不快な笑い方ではなかった。どこか明るい。


「良かったら、少し話を聞かせてもらえますか。俺、この辺りの事情にはかなり詳しいので」


 断る理由がなかった。


   ◆


 村の食堂で、向かい合った。


 男は自己紹介をした。


「カイル・ルーチェンベルグ。各国を旅するのが好きで」


 後半の名前を、私は一拍置いてから整理した。


 ルーチェンベルグ。

 ――それは、隣国の王家の名前だ。


「……第二王子殿下、ですか」


「あ、バレましたか」


 全然悪びれない。


 私は少しだけ疲れた気持ちで、自分の名前を言った。


「エルフィーナ・ヴァルトハイン、です」


 カイルの顔が、変わった。

 楽しそうな軽さが、一瞬で消えた。


 両目が、私をまっすぐ見る。


「……ヴァルトハイン。まさか、アスタリアの結界師の!?」

「存じ上げませんが、ヴァルトハイン家の結界師は私だけですので」


 カイルがしばらく黙った。

 その目が、少しずつ別の色になっていった。驚き、それから――なんだろう。測るような、でも敵意のない、真剣な色。


「アスタリアの結界師と言ったら、神のような結界師ですよ!」


「か、神?」


 彼が静かに言った。


「あの結界の効力は、外から見ても明らかに高水準です。魔素の遮断率、亀裂の補修精度……我が国の魔術師団が調査して、正式に報告書を出したくらいです。あれを維持していたのが誰なのか、ずっと気になっていた」


(アスタリア国の結界が危ういことはバレていなかったのね)


「……そうでしたか」


「私、一人で維持していました」


「あれを一人で……?」


「はい」


 初めて知った。

 あの仕事を、外から見ていた人間がいたのか。数値として、評価していた人間が。


「それが、なんで一人で国境に?」


 私は少し考えた。

 嘘をつく理由も、隠す理由も、もう別にない。


「あの結界を維持する予算を確保しようとしたら……その……」


「その?」


「追放されました」


「はい?」


「国を追い出されました……」


「どれだけの予算を確保しようとしたら追放になるのですか!」


 私は、耳打ちでおおよその予算を伝えた。

 カイルは、驚いた表情を隠しきれていなかった。


 (やはり、どこも自分の考えが間違いなのか)


 カイルが黙った。

 長い沈黙の後、彼はゆっくりと後ろの従者と顔を合わせた。


「エルフィーナ様」


「はい……」


「うちでしたら、その五倍は最低でも出します」


 (五倍……?)


「良ければ……我が国に、来ていただけませんか?」


「はい?」



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第四章 「太陽の国の結界師」

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 ルーチェンベルグ王国に入って、最初に驚いたのは、人々の顔だった。


 明るかった。

 笑っていた。

 私の存在に好奇の目を向けてくるが、怯えていない。萎縮していない。


 カイルが国王陛下に経緯を報告し、私は正式に「結界師顧問」として迎えられた。

 礼儀正しい官吏が私の話をよく聞いた。必要な資材を、躊躇なく用意してくれた。


「ありがとうございます、ヴァルトハイン顧問」


 初めて言われた時、少しだけ、何かが胸の奥でほどけた気がした。


 ありがとう、か。

 そうか。こういう言葉を、私は求めていたのかもしれない。


 仕事は充実していた。

 ルーチェンベルグの既存の結界は術式が古く、効率が悪かった。私が見直しを行うと、魔力消費量が三分の一まで下がった。官吏たちがどよめいた。

 初めて、自分の仕事が誰かの顔を明るくするのを、ちゃんと見た。


 カイルはよく執務室に顔を出してきた。


「また来たんですか」


「仕事の進捗確認だよ~」


「王子が来るような話ではありません」


「堅いな。今日の食堂、南瓜のスープらしいよ。飯食いながら話そうよ」


 そういう男性だった。距離が近い。軽い。でも、嘘がない。


 ある夜、執務室に一人で残って手帳を開いていると、カイルが覗き込んできた。


「それ、前の国の記録?」


「……そうです」


「大事にしてるんだね」


 私は何も答えなかった。カイルも、それ以上聞かなかった。



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第五章 「亀裂」

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 私が追放されて四ヶ月が経った日、カイルが執務室に来た。

 その顔を見た瞬間、わかった。いつもと違う。


「……アスタリアから、キミ宛に使者が来た」


 私は手を止めた。


「王都の結界が、崩壊し始めているだと」


「使者の方と直接お話しできますか?」


「特別だよ?」


 胸の中で、何かが静かに沈んだ。


 わかっていた。いつかそうなると、ずっとわかっていた。

 だから毎朝あの礼拝堂に通い、数字を管理し、補修を繰り返してきた。私が去った後、あの手帳を読める人間がいない。術式を引き継げる人間がいない。


 カイルの計らいで使者と直接話すことができた。


「被害は、どの程度ですか」


「第十二区画から第十七区画にかけて、亀裂が拡大中だと」


 十二から十七。私の手帳に、〈要注視〉と書いた区画だ。


「資材は」


「大幅に削減されていたようで、補修に必要な触媒が圧倒的に不足していると」


 そう。二ヶ月前に削った。私が反対したのに、押し切られた。


「後任の結界師は」


「……いません。あなた程に術式を扱える人間が……」


 続きは言わなくてもわかった。


 私は窓の外を見た。

 遠く、地平の向こうに、アスタリアの方角がある。今頃、民は震えているだろうか。


「ヴァルトハイン様……もう一度、お力をお貸しいただくことは……」


 (アスタリアには両親もいる……)


「無理だ!」


 カイルが話を遮るように口を開いた。


「自分たちで蒔いた種だろうが」


「ですが……」


「お引き取り願います」


   ◆


 アスタリア王都で何が起きたか、使者の報告と後に届いた手紙で、私はその全容を知った。


 両親は無事であること。

 伯爵家として、民を見捨てこちらの国に行くことはできないとのこと。


 結界の亀裂は急速に拡大し、第十五区画の住居地帯に魔素が流入した。原因不明の体調不良が相次ぎ、作物が枯れた。

 補修しようにも、触媒が足りない。術式がわかる人間がいない。王宮魔術師たちは必死に試みたが、素人仕事は状況を悪化させただけだった。


 三分の一の区画が、立ち入り禁止になった。


 その時初めて、民は知ったのだという。

 あの予算が何に使われていたか。あの厳格な令嬢が、何をしていたか。


「ヴァルトハイン様は毎朝、結界石に魔力を流していたのか」

「あの予算書は、全部これのためだったのか」

「……なぜ、予算が通っていなかったんだ!」


 民の声が、使者の言葉の中に混じっていた。


 なぜ、と言われても。


 それを知らずに糾弾した人々を、私は恨んでいない。

 ただ、少しだけ――遅かったなと思った。



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第六章 「正しかった男の末路」

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 私は、正しかった。


 ずっとそう思っていた。


 あの式典の日、壇上に立って婚約破棄を宣言した時、私は確信していた。

 民は歓声を上げ、イリスは涙を流し、貴族たちは拍手を送った。エルフィーナが黙って頭を下げ、壇上を去った後も、私の胸には一片の迷いもなかった。


 正しいことをした。

 民のために、国のために、感情ではなく理性で判断した。

 それが王太子というものだ、と。


 そう思っていた。


 三ヶ月は。


   ◆


 最初の異変は、宮廷魔術師長の顔色で気づいた。


 謁見の間への廊下で、彼が私を待ち伏せていた。

 普段は飄々とした老人が、その日は口元が青白かった。


「殿下……第十七区画の結界石に、亀裂が生じております」


「どのくらいで補修できる?」


「それが……術式が、我々には読めません」


「読めない?」


「エルフィーナ様独自の記述体系で構成されていたようで……書き残された記録も、解読に最低で半年はかかるかと」


 胃の底が、すうと冷えた。


「では触媒を使った応急処置を」


「触媒の備蓄が……先々月の予算削減で、現在の在庫量では第十七区画の補修だけで尽きてしまいます」


 冷えが、背骨を伝って上がってきた。


 その言葉を聞いた瞬間、エルフィーナの声が耳によみがえった。


 〈融通を利かせる余地は、ありません〉

 〈削れないのです、殿下〉


 何度言われた。

 何度、私は「頑なだ」と切り捨てた。


「……わかった。最善を尽くすよう」


 声が、自分でも平静を装いきれていないとわかった。


   ◆


 一週間後には、手がつけられなくなっていた。


 魔術師たちが補修を試みるたびに、亀裂は悪化した。

 術式の構造を知らない者が触れてはいけなかったのだ。それは後になってわかった。わかった時には、第十二区画と第十五区画の住民が避難を始めていた。


 作物が枯れた。


 体調不良の報告が、日に五件、十件、二十件と増えていった。

 立ち入り禁止の区画が増えるたびに、私の中で何かが音を立てて軋んだ。


 そして父上から呼び出された。


   ◆


 謁見の間に入った瞬間、空気が違うと思った。


 父上は玉座に座っていた。その両隣に、宰相と、近衛騎士団長。


 書記官もいた。これは記録に残る場だ。


「レアンドル」


 父上の声は、低かった。怒鳴らない分、重かった。


「はい」


「お前は、あの式典での婚約破棄と追放の宣言について……事前に余の許可を得たか」


 その言葉で、血の気が引いた。


「……それは」


「答えよ」


 答えられなかった。


 あの式典は、「民への慈悲を示す」式典として父上の許可を得て開いた。だが婚約破棄の宣言は――私が、独断で加えたのだ。その場の勢いで。民の期待に応えるように。イリスの笑顔に背中を押されるように。


 事前に父上に諮れば、止められると思っていた。だから言わなかった。


「……得ておりませんでした」


 父上が、ゆっくりと立ち上がった。


「王太子が、国王の許可なく王家の婚約を破棄し、伯爵令嬢を国外追放した。これがどういう意味か、わかるか」


「……はい」


「いいや、わかっていない」


 父上が、玉座の段を降りてこちらへ歩いてくる。その足音が、静かな謁見の間に響いた。


「余はあの娘に、結界の維持を命じていた。国家最高機密の任を負わせていた。彼女が予算を守ろうとしていたのは、余の命令に従っていたからだ」


 膝から力が抜けそうになった。


「お前は知らなかった。それは余の落ち度でもある。だが――知らないまま、余に諮りもせず、有望な令嬢を壇上で断罪し、この国から追い出した。彼女が負っていた秘密も、使命も、何一つ知らぬまま」


「……」


「お前が追放した令嬢が、この王都を守っていた。今、その王都の三分の一が、住めない土地になりつつある」


 父上が私の目の前に立った。


「レアンドル。お前は何をした」


 答えようとして、言葉が、出なかった。


   ◆


 その日の夕方、再び謁見の間に呼び出された。


 今度は違った。宮廷のほぼ全貴族が集められていた。


 私が入場した時、視線が刺さった。同情ではなく、冷たい目だった。


 そうか、と思った。

 もう民だけでなく、貴族たちも風向きが変わっているのか。


 父上が宣言した。


「王太子レアンドルを、本日をもって廃嫡とする」


 謁見の間が、静まり返った。


「理由は二つ。第一に、国王の許可なく王家の婚約を破棄し、国家の要職にある者を追放した越権行為。第二に、その結果として王都の結界を崩壊させ、民に甚大な被害を与えた失政の責任。これは、廃嫡に値する」


 廃嫡。


 私は、その言葉の意味を、頭ではわかっていた。

 でも実感が来なかった。来るはずがなかった。

 私はこの国の王太子として生まれ、王太子として育てられた。それ以外の自分を、考えたことがなかった。


「なお、ヴァルトハイン家への謝罪と賠償については、国として正式に行う。レアンドル個人としても、書面にて誠意を示すよう」


 貴族たちの中から、誰かが小さく呟くのが聞こえた。


「……自業自得だ」


 誰の声かはわからなかった。でも、否定する者はいなかった。


   ◆


 その翌日、北の国境から急使が届いた。


 内容は、短かった。


 〈隣接三国が、アスタリア王都の結界崩壊を確認。軍の動向に注意されたし〉


 私は書面を読んで、手が震えた。


 当然だ。

 結界が崩れれば、弱体化した国だと知れ渡る。

 それを待っていた国が、この大陸にいくつあると思っていた。


 エルフィーナが予算を守ろうとしたのは、この事態を防ぐためだったのか。

 魔力触媒が必要だったのは、結界の強度を外から読まれないようにするためだったのか。

 資材の詳細を公開できなかったのは、どこに敵の目があるかわからなかったからなのか。


 全部、今ならわかる。

 全部、今更わかる。


   ◆


 夜、私はイリスの部屋を訪ねた。


 扉を開けると、イリスは椅子に座ったまま、壁を見ていた。

 私の顔を見た瞬間、彼女は唇を震わせた。


「レアンドル様……私、私は……」


「イリス」


「私が、予算を削るよう動いたから。私が、エルフィーナ様を責めたから。私が……っ」


 泣き崩れた。

 本物の絶望だった。悪意はなかった。ただ、見えていなかっただけだ。


 私と、同じだ。


 でも、それが何の慰めになる。


「見えていなかったわ……どうしてあの方が厳しくしていたのか。どうして予算を渡せなかったのか。私は全部、彼女の冷たさのせいだと……っ」


 私も慰めの言葉を持っていなかった。自分自身を慰める言葉が、何もなかった。


 ただ、一つだけ。

 壇上でエルフィーナが言った言葉が、耳に蘇っていた。


 〈謹んで、承りました〉


 たった、それだけだった。

 反論しなかった。怒らなかった。泣かなかった。


 あの時、私はそれを「感情がない女だ」と思った。


 今ならわかる。


 彼女は全部、わかっていたのだ。

 言っても無駄だと。言えば機密が漏れると。弁明すれば敵に弱点を晒すと。

 だから黙って、頭を下げて、去った。


 この国を守るために、最後まで。

 この国に追放されながら、最後まで。


 私は、五年間で何を見ていたのか。


 エルフィーナは私の婚約者だった。

 毎日そばにいた。毎日顔を合わせた。

 それでも、彼女が何を背負っているか、何一つ見えていなかった。


 見ようとしなかっただけかもしれない。


 その考えが浮かんだ瞬間、吐き気がした。


 自分が「民を見ていた」と思っていたのは、傲慢だった。

 見えやすいものしか見ていなかった。笑顔と涙と、わかりやすい善意だけを見ていた。

 見えないところで積み上がっていたものを、ただ踏みにじった。


 取り返しがつかない。


 この国の三分の一の区画が使えなくなった。

 国境に他国の軍が集まり始めている。

 私は廃嫡された。

 エルフィーナは、もう戻らない。


 どれも、私が正しいと信じてした選択の、結果だ。


 反省している、とは言えない。

 反省という言葉が生ぬるい。


 これは後悔ですらない。


 取り返せないと、わかってしまっているのだ。

 あの日に戻ったとしても、私はまた同じ選択をしていたかもしれない。


 それが一番、恐ろしかった。



━━━━━━━━━

終章 「結界師の笑い方」

━━━━━━━━━


 ルーチェンベルグの北の高台に、よく来るようになった。


 晴れた日には、遠く、アスタリアの方角がうっすらと見える。今はもう、あの国の結界はかつての半分も機能していないはずだ。いくつかの区画は復旧しつつあると聞いた。憂国の魔術師たちが支援しているらしい。


 それでいい。

 私がいなくても、世界は回る。


 ただ、アスタリアが傾いていることは他の国に知られている。

 いつ攻められても、おかしくない状況であることには変わりない。


「また来てる」


 背後から声がして、振り返らなくてもわかった。


「散歩です」


「奇遇だな、俺も散歩」


 カイルが隣に立った。風が吹いて、私の髪が揺れた。


「……あっちのこと、考えてた?」


「少し」


「後悔しているか?」


 少し考えた。本当に、少しだけ。


「……していません」


 それは本当だった。


 後悔するとすれば、あの国に戻ることではない。あの国で、ただ消耗し続けた時間かもしれない。でも、あの時間がなければ、今の私もない。


 カイルが空を見上げた。


「エルフィーナって、最初会った時と全然違うよな」


「……最初会った時は、それどころじゃありませんでしたから」


「今は?」


 高台の向こう、遠くに霞むあの国を、私は見た。

 かつて私を糾弾した人々が、今頃どんな顔をしているか、大体わかる。

 後悔しているだろう。知らなかったと言うだろう。でも、知ろうとしなかったのは彼らだ。


 それでも、憎んではいない。


 人は、見えているものしか信じられない。そういうものだ。


 ただ。


 私がいなくなって初めて、私の価値に気づいたのなら。


 ――遅すぎた、と思う。少しだけ、思う。


「今は……悪くない」


 私は言った。声に出してみて、それが本当だとわかった。


 カイルが私のほうを向いた。その顔に、いつもの軽さとは少し違う、真剣な色があった。


「エルフィーナ。ルーチェンベルグの人間にならないか?」


「私は、ここの民ですよ」


「そういう意味じゃない。……俺の家族に、王族の一員になってほしいんだ」


 唐突だった。

 でも、驚かなかった。


「……婚約ということですか」


「そういうこと」


「……散歩のついでに言うことではありませんよ。ですが、謹んでお受けします」


「ほんと? やった!」


 カイルが声を上げて笑った。大きく、遠慮なく。

 その笑い声が、高台の風に溶けた。


 私の口元が、知らずに上がっていた。


 遠くのあの国が、霞んでいる。

 崩れかけた結界の向こうで、誰かが後悔しているかもしれない。


 でも、もう。


 私には、今日の風と、隣に立つ男と、明日の仕事がある。


 それで十分だった。それ以上は、もう何も要らなかった。


 ――悪役令嬢で構わないと思っていた、あの朝の私へ。


 あなたは間違っていなかった。ただ、報われる場所が違っただけ。


 私は高台の風の中で、久々に、心から笑った。



ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「国を愛した結界師は、悪役令嬢としてその地を去った。」、いかがでしたか?


スカッとした!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!


また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)

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― 新着の感想 ―
他国が5倍の予算をつけれるほどにひつような国防の予算が ギリギリの金額なのに尚、削って貰わなきゃいけないほど困窮してたのが不思議。何に予算を使ってたんだ? それにいくら機密事項とはいえども、高官くらい…
半分、国王の責任。せめて王子だけには説明しておくべき。 また国外追放となっても国王が直ぐに動けば間に合ったかもしれない。 そもそも、そんな大事な予算を一令嬢に任せるのではなく国王が担うべき。
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