幕間 2 『チェコ軍団のシベリア鉄道大脱走』
この話はフィクションです
序章:地球を半周する「帰郷」の旅
1918年春。第一次世界大戦の硝煙が立ち込めるロシアの大地で、歴史上、最も壮絶な「大脱走劇」の幕が上がろうとしていました。「チェコ軍団」。元々はオーストリア=ハンガリー帝国に支配されていたチェコ人やスロバキア人の捕虜・志願兵たち、約6万人です。「ロシア軍の味方として戦えば、大戦後に自分たちの独立国家を作れる」――その一念で結成された精鋭部隊でした。しかし、1917年にロシア革命が勃発し、新たに権力を握ったボリシェヴィキ(赤軍)はドイツと勝手に講和。梯子を外されたチェコ軍団は、敵国に囲まれたロシア国内に孤立してしまいます。彼らの目的はただ一つ、「西ヨーロッパへ行き、連合国として戦いを継続し、祖国へ帰る」こと。しかし、西側の欧州正面はドイツ軍に完全に封鎖されていました。
「……ならば、東へ向かう。シベリアを突き抜け、ウラジオストクから船に乗り、地球を半周してフランスへ行くぞ!」
それは、全長9,000キロに及ぶシベリア鉄道をジャックして突き進む、前代未聞の「東回り大脱走」の始まりでした。
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第一章:チェリャビンスクの火花
当初、赤軍とチェコ軍団の間には「武器を一部引き渡せば、安全な東行を許可する」という協定が結ばれていました。しかし、武装した数万の猛者が自国の心臓部を通ることを恐れた赤軍と、赤軍が自分たちをドイツに売り渡すのではないかと疑うチェコ軍団の間で、不信感は限界に達していました。
1918年5月14日、ウラル山脈の麓にあるチェリャビンスク駅。
東へ向かうチェコ軍団の列車と、西へ送還されるドイツ・オーストリア軍の捕虜の列車がすれ違った瞬間、事件は起きました。捕虜のひとりがチェコ兵に向かって鉄くずを投げつけ、これに激怒したチェコ兵が列車を飛び降りてその捕虜を殺害したのです。
地元の赤軍政府は、現場にいたチェコ兵を逮捕。しかし、これを「赤軍の罠」と確信したチェコ軍団の仲間たちは、瞬時に連帯して駅を包囲、力ずくで仲間を奪還し、街の武器庫を占領してしまいました。
「もう赤軍の命令には従わない。我々は自らの銃と鉄路で、ウラジオストクまで道を切り拓く!」
このチェリャビンスクの火花が導火線となり、シベリア鉄道の沿線全域に分散していたチェコ軍団の列車が一斉に蜂起。単なる敗残兵の群れだった彼らは、一瞬にして「シベリアの覇者」へと変貌したのです。
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第二章:鉄路の覇者と「走る要塞」
赤軍の総司令官トロツキーは「チェコ兵を見つけ次第、その場で射殺せよ。武器を持ったチェコ兵の列車は全員強制収容所に送れ」と激怒して猛命令を下しました。しかし、数で勝るはずの赤軍は、チェコ軍団の圧倒的な「強さ」の前に次々と潰走することになります。
チェコ軍団は、第一次大戦の地獄を生き抜いたプロの戦闘集団でした。彼らはシベリア鉄道の貨車や平車を徴用すると、現場の知恵で凄まじい兵器を作り出しました。
それこそが、「装甲列車(走る要塞)」です。
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1918年7月、バイカル湖の西側に位置する小さな給水駅。
夜明け前のシベリアは、夏の瑞々しい草木の匂いと、湖から流れてくる10度前後のひんやりとした涼しい朝霧に包まれていた。薄手の夏用軍服に身を包んだ兵士たちにとって、それはむしろ動きやすく、心地よい朝のはずだった。しかし、鉄路のポイントを巡る緊迫感が、その空気をピリピリと張り詰めさせていた。赤軍の一個連隊と、東を目指すチェコ軍団の装甲列車「オルリーク」号が、ここで正面から激突した。
「同志たちよ、前へ! 鉄路を労働者の手に取り戻すのだ!」
赤軍の指揮官が叫び、サーベルを振り下ろすと、略帽を被った無数の赤軍兵士が朝霧を割って突撃を開始した。彼らの手にはモシン・ナガンの小銃、そして背後からは馬に牽引された機関銃馬車が、夏の乾燥した大地に砂煙を上げて迫る。給水駅のプラットホームに据えられたチェコ軍団の急造陣地。土嚢の陰から、チェコ兵のベテラン曹長ヤンが静かにパイプの煙を吐き出した。夏の朝の光が、彼の引き締まった顔を照らし出す。
「引き付けろ……まだだ。よく狙え、機関銃馬車と指揮官だ」
赤軍の先頭が線路を越え、敷石を靴底で踏み鳴らす音が間近に迫る。距離150。100。70――。
「撃て!」
ヤンの怒号と同時に、マキシム重機関銃が激しい金属音を奏でた。乾いた連続音が夏の静寂を切り裂き、遮蔽物のない線路地帯で突撃する赤軍の第一波がなぎ倒される。訓練不足の赤軍兵士たちは遮蔽物のない開けた線路地帯で立ち往生し、混乱が広がった。しかし、赤軍も狂信的な執念で押し寄せる。数の暴力がチェコ軍の土嚢陣地を包囲し、銃剣突撃による凄惨な白兵戦が始まった。
「ウラー(万歳)!」と叫ぶ赤軍兵の銃剣がヤンの肩をかすめる。ヤンはモーゼル拳銃を至近距離で連射し、敵を突き放した。弾薬が底を突きかける。誰もが汗を飛び散らせ、荒い息を吐く泥沼の戦い。その時だった。
ヴゥォォオオーーーーッ!!!
地響きとともに、けたたましい蒸気笛が響き渡った。朝霧を切り裂いて姿を現したのは、チェコ軍団の誇る「走る要塞」――装甲列車だった。ボイラー室から黒煙を激しく吹き上げ、車体側面にボルト止めされた厚鉄板が朝日にギラリと輝く。
「野砲、撃て!」
列車の前部に据え付けられた3インチ野砲が火を噴いた。轟音とともに赤軍の機関銃馬車が木端微塵に吹き飛ぶ。続いて、装甲の銃眼から突き出された十数挺の機関銃が一斉に掃射を開始した。装甲列車はスピードを落とさず、鉄のボディや追加で張り付けた装甲板を「盾」として赤軍の密集地帯へと突っ込んでいく。圧倒的な火力の前に、赤軍の戦列はついに崩壊した。
「退却だ! 森へ逃げろ!」
さっきまで勇猛に突撃していた赤軍兵たちは、武器を捨て、青々と茂るシベリアの深いタイガ(針葉樹林)の中へと蜘蛛の子を散らすように逃げ込んでいった。激しい硝煙の臭いが、夏の爽やかな朝風にかき消されていく。ヤンは生き残った部下たちと視線を交わし、ゆっくりと動き出した装甲列車のステップに飛び乗った。列車はスピードを上げ、車輪がジョイントを叩く「ガタン・ゴトン」という規則正しい音を取り戻していく。車窓の向こうには、朝日に照らされてサファイアブルーに輝くバイカル湖の美しい水面が広がっていた。その雄大な景色を背に、列車は遥か数千キロ先にある太平洋、そして祖国へと続くレールを力強く進んでいった。
彼らはこの装甲列車を先頭に立て、シベリア鉄道の駅や信号所、給水塔をリレー式に次々と占領。赤軍の通信網を遮断し、線路のポイントを切り替えて敵の増援を阻止しました。驚くべきことに、わずか数ヶ月のうちに、ウラル山脈からバイカル湖、そして遥か極東にいたるシベリア鉄道の「ほぼ全線」が、チェコ軍団の手によって完全に支配されてしまったのです。
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第三章:バイカル湖の激闘と世界を動かした軍団
大脱走の最大の難所はバイカル湖でした。ここには赤軍の強固な陣地があり、さらに湖上には赤軍が武装させた大型船が睨みを利かせていました。チェコ軍団は、世界でも類を見ない「陸軍による海戦」を挑みます。彼らは港を急襲して蒸気船を乗っ取り、そこに野砲を強引に縛り付けて「即席の軍艦」を作成。バイカル湖上で赤軍の船舶と激しい砲撃戦を展開し、これを撃沈したのです。さらに別の部隊が線路沿いの40以上のトンネルを爆破される前に電撃的に確保し、バイカル湖のボトルネックを完全に突き破りました。
この「チェコ軍団、シベリアで大奮戦」のニュースは、世界中の度肝を抜きました。
「彼らを救出し、ロシアの混乱を収める」という大義名分を得たイギリス、フランス、アメリカ、そして日本は、一斉にシベリアへの軍隊派遣(シベリア出兵)を決定。チェコ軍団のひとつの衝突が、世界の列強を動かす巨大な国際政治の渦を生み出したのです。
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終章:ウラジオストク、そして遥かなる祖国へ
1918年の冬から1919年にかけて、シベリアは凄惨な内戦の泥沼と化していました。チェコ軍団は時にロシアの白軍(反革命派)と協力し、時には彼らの腐敗に愛想を尽かしながら、ひたすら東へ東へと列車を走らせました。
1920年、春。
シベリアの長い冬が終わりを告げ、大地が緩やかな緑に包まれ始めた頃。ロシアの広大な荒野を東へ東へと走り続けた装甲列車「オルリーク」号は、ついに9,000キロメートルの果てにある終着駅へと近づいていた。幾度もの赤軍との死闘、凍結した線路、剥き出しの自然との闘い。2年以上の歳月を鉄路の上で過ごしたチェコ軍団の兵士たちの顔には、深い疲労とともに、言葉にできない感情が去来していた。
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「キィィィィィ――ッ!!」
鉄と鉄が激しく擦れ合う悲鳴のようなブレーキ音が、ウラジオストク駅に響き渡った。車体各所に弾痕を刻み、ボルト止めされた装甲板は錆び付き、機関車からは真っ黒な煤煙と白い蒸気が激しく噴き出している。それはまさに、戦場を生き抜いた「歴戦の勇士」の姿そのものだった。
デッキに立っていたベテラン曹長のヤンは、ゆっくりと煙の向こうを見つめた。煤と日焼け、そして幾度もの修羅場で刻まれた深く険しい皺。だが、その瞳は、これまで見たことのない強い光で揺れていた。駅のプラットホームのすぐ向こう、遮るもののない視界の先に広がっていたのは、見渡す限りの蒼い海――太平洋だった。
「海だ……。本当に、世界の果てまで辿り着いたんだ」
隣にいた若い兵士が、銃を握ったままぽつりと呟き、そのまま崩れ落ちるように床にへたり込んだ。絶望的な包囲網を破り、ただ東だけを目指した旅が、今、物理的な終わりを迎えたのだ。港には、彼らを祖国へ送迎するために待機している、アメリカや日本、フランスなどの白い連合国輸送船団が、静かに波に揺れていた。
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列車が完全に停止すると、ウラジオストク駅は爆発したような歓声に包まれた。
先に到着していた同胞たち、そして出迎える連合国の兵士や群衆が、ボロボロの装甲列車を取り囲む。貨車の重い扉が次々と開け放たれ、中から夏用・冬用の衣服をパッチワークのように着込んだチェコ兵たちが、這い出るように降りてきた。
ヤンはゆっくりとステップを踏み、ウラジオストクの硬い大地にブーツを下ろした。動く鉄板の上ではない、決して揺れることのない確固たる大地の感触。それを確かめるように、一度、深く足を踏みしめる。
「ヤン曹長! 生きていたか!」
人混みをかき分けて走ってきたのは、かつてバイカル湖の給水駅で共に戦った戦友だった。お互いに泥と煤にまみれた身体のまま、言葉もなく激しく抱き合う。骨が軋むほどの抱擁の中、誰もが声をあげて泣いていた。生き残った喜び、そして、道中で失った多くの仲間たちへの思慕が、涙となって溢れ出していた。
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駅舎の前に集まった兵士たちの前に、一枚の「旗」が掲げられた。
それは、彼らがロシアへ赴いた時には存在しなかった旗――白と赤、そして青の三角で構成された、誕生したばかりの「チェコスロバキア共和国」の国旗だった。
「チェコ軍団の諸君。我々がシベリアの鉄路で戦っている間に、欧州の帝国は崩壊した。我々の故郷は今、完全に独立した自由な共和国となったのだ!」
この声は一人一人の兵士達の心に響き渡った。兵士たちは一斉に帽子を掲げ、地鳴りのような歓声を上げた。自分たちが流した血、駆け抜けた鉄路は、決して無駄ではなかった。銃と知恵だけでシベリアへと脱出した「放浪する軍団」は、今この瞬間、世界で最も誇り高き「建国の英雄」となったのだ。
ヤンは胸ポケットから古びたパイプを取り出し、ウラジオストクの柔らかな潮風を受けながら火をつけた。紫煙の向こうで、新しく制定された祖国の旗が、太平洋の風に誇らしげにたなびいている。「ガタン・ゴトン」と耳の奥に残り続けていたレールの残響は、いつしか消え去っていた。シベリア鉄道の大脱走劇はここに幕を閉じ、男たちは真の故郷へ向けて、海を渡る次なる旅路へと歩みを進めるのだった。
ヤンの瞳には涙が溢れていました。彼らがロシアの大地を戦い抜いている間に、欧州では第一次大戦が終結。オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、彼らの悲願だった独立国家「チェコスロバキア共和国」が、すでに誕生していたのです。
地球を半周し、銃と鉄路だけでロシアを震撼させた6万人の軍団。彼らは船に乗り込み、まだ見ぬ、しかし自分たちの手で勝ち取った「真の祖国」へと、堂々の帰還を果たしました。シベリア鉄道のレールが奏でる重低音は、彼らにとって、自由への大脱走のマーチ、そのものだったのです。




