鮎
広間では、庭師が腕を縛られたまま正座し俯いている。
女中は庭師を見張るように隣で立っているが、庭師の暴れる気配のない様子に退屈そうに欠伸をする。
右近は一人、木に括りつけられ喚き散らしていた。
「なんで俺が外なんだ! あの薄汚い庭師を溝にでも入れておけよ!」
右近の嫁は「うっさい!」と一喝し、右近の頭を叩く。
「いてぇ!」
「あんたが変な真似しなけりゃ、私は一生安泰だったのに! 都からわざんざこんな山の中に嫁いだ意味がないじゃない! この田舎もんが! 臭いのよ!」
従順だと思っていた嫁の手のひら返しに右近は絶句した。
市郎は広間へ来ると女中を労った。
「見張りご苦労様です。色々あって疲れたでしょう。奥の間に饅頭を用意しています。叔母様と一緒に休憩してください。ここは僕が見張っておきますので」
女中は「あら饅頭! 好物なんですよ私。では、お言葉に甘えて」と、うきうきと軽い足取りで広間を出た。
市郎は女中が出ていくのを確認して庭師の縄を解きだした。
「逃げてください」
庭師は驚いた顔で市郎を見る。
市郎は顔中を包帯で巻いていて表情は読み取れないが瞳には強い意志が宿っている。
庭師は青天の霹靂とばかりに、ただ茫然としたまま動かない。
「僕が上手く誤魔化しますから。ほとぼりが冷めた頃に娘さんを迎えに来てください」
庭師はようやく声を絞り出した。
「も、もぅ良いんです。それより、薬を、娘の薬をお願いします。医者に見せることもできず苦しみ弱っていくあの娘を見ていることしかできませんでした。私は情けない親です」
庭師は畳に頭を擦り付けるように土下座する。
「私は自訴します。この汚い手で娘に触ることはもぅできねぇです」
「それでも、あなたが自分を許せなくても、娘さんからしたらたった一人の父親です。どれだけ惨めな思いをしても、最後まで父親を演じきってください。それがあなたの贖罪です」
市郎は「さ、立って」と庭師を立たせる。
庭師は震えながらよろよろと立ちあがる。
「あ、あなた様のお父上をわ、わたしが……」
「これを持って、早く」
市郎は言いかける庭師に白い包み紙を押しつけ、背中を押した。
「う、うぅ。このご恩は絶対に忘れません」
庭師は嗚咽を漏らし、時につんのめりながらも山の中へ走り去った。
市郎は庭師を逃がしたあと、娘の様子を見に小屋へ向かった。
そして、想像よりも酷く廃れている小屋を前に愕然とした。
およそ人が住む小屋とは思えぬ程、粗雑なその小屋はところどころ屋根や壁が崩れ落ちている。おまけに日陰のなかに建っているので、木の壁にはカビが生え腐り、悪臭もしていた。
「全くあの人は……」
市郎は自身の父親に対する侮蔑を込めた溜息をつくと、木箱や手ぬぐい、桶を持って小屋の中へ入った。
「父ちゃん、お帰りなさ、い?」
娘は父親だと思い駆け寄ったが、知らない人が入ってきたのできょとんとした顔で首を傾げる。
「こんにちは。僕は……」
「ゲホッゴホッ」
市郎は娘を怖がらせないよう努めて優しく話し掛けたが、娘は急に苦しそうに咳き込みだした。
市郎は娘を小屋の中にある藁の上に座らせると持ってきた箱を開ける。
「今から薬を調合するね。苦いかもしれないけど、きっと良くなるから頑張って飲むんだよ」
「父ちゃんは?」
薬の調合をする市郎に心細そうに聞く娘。市郎は不安を取り除くように柔らい口調で答えた。
「君の父ちゃんは少しだけ仕事で留守することになったんだ。それまで僕が君の面倒を見るように君の父ちゃんから頼まれたんだよ。すぐに帰ってくるか……」
「グッッゲハッ、とう、ちゃ、が?」
市郎は咳が止まらず苦しそうにしている娘の背中をさすって水を飲ませた。
「大丈夫か?」
「うん、いつも、こんな感じ、なの。お兄ちゃんの方こそ、お顔大丈夫?」
娘は市郎の包帯顔を心配そうに見やる。
ーードォオオオン!
「なんだ?」
市郎と娘が突然の轟音に驚いた次の瞬間、小屋の屋根や壁が吹き飛ばさた。
外が丸見えに開け、目の前に巨大な魚が現れる。
魚は鱗で覆われた脚のようなものが生え、鰭のような手まである。
その鰭には串のようなものを握っており、こちらをぎょろりと目だけ動かし、見下している。
市郎は固まったまま何が起こっているのか理解できないでいるが、この魚には見覚えがあった。
「鮎?」
鮎は呻くような低い声で蔑む。
「豚小屋かと思ったら人間がいたのか」
咄嗟に危機を感じた市郎は娘を庇うように鮎の前に立ちあがるが、串で横殴りで吹き飛ばされた。
倒れている市郎の横を鮎はゆっくりと通り過ぎ、震える娘に近づく。
「と、父ちゃん、助け、て」
「なんだ、くせぇし汚ねぇ娘だな。骨と皮だけで食えたもんじゃなさそうだ。廃棄処分だなこりゃ」
鮎は汚物を見るように娘を一瞥すると、串を娘の目に向けて刺そうとする。
娘は咄嗟に固く目をつぶるが、痛みがない。うっすら開けると、先程小屋にやって来た男が脇を刺され膝から崩れ落ちている。
「邪魔しやがって」
鮎は市郎の脇から串を抜こうとするが引っ張ることができない。
「なんだ?抜けないぞ?」
市郎は自身の脇に刺さったままの串を、両手で固く握りしめていた。
「逃げ……なさ」
震える声を絞り出すが、娘は恐怖で腰が砕け動けそうにない。
「面倒くせぇ」
鮎は吐き捨てると市郎に刺したままの串を上下横に降る。
市郎は傷を抉られる激痛でうめき声を出しながら意識が遠のくと、鮎は勢いよく串を引っこ抜いた。
傷口から血が噴き出し、娘の顔に鮮血が掛かった。
娘は「っ」と声にならない声を上げ、目を見開いたまま固まる。
鮎は痛みで七転八倒している市郎を見ながら「こいつはあとで食うとして」と言い放ち、座り込む娘に串を振り上げた。
刹那その鰭に斧が降ろされた。が、古く錆びた斧は全く刺さらない。
鮎は斧を持ちながら自分を睨みつける痩せこけた老人に辟易した。
「また廃棄処分が増えたか」
「父ちゃん!」
娘は震えながら立ち上がり父の元へ歩み寄ろうとしたが、鮎は庭師を見もせず退屈そうに串で刺す。
庭師はゲホッと血を吹き、刺されたまま持ち上げられた。
「きゃああ!」
娘の叫ぶ声が市郎の耳に響く。
鮎は庭師の腹から背中へ貫通し、飛び出た串の先を娘の腹へ向け「次!」と吐き捨てるとそのまま娘を刺そうとした。
庭師は刺されたままで斧を鮎の目に向けて斬り上げた。
寸前で避けた鮎は串を振って庭師を地面に叩き落とす。
「俺の目を刺そうしたな。これからお前がどれほど許しを乞おうが、身体中を穴だらけにしてやる。内臓、骨、全部貫くぞ」
妖怪は一旦串を抜いてから、庭師の身体中を何度も刺し続けた。
娘は震えながら無表情で刺される庭師を見続ける。目の前で起こっていることを理解できない。理解することを拒絶している。
市郎は倒れたまま顔だけなんとか上げると、状況を確認する。
なんなんだあの鮎みたいな化け物は。
何が起きた?
分からない、全く。
いや、いい。
何も分からなくても。
今はただあの子だけでも逃がす。
それだけを考えろ。
できることだけ考えろ。
動くしかない。
動け!
市郎は血を吐きながら起き上がると、鮎の足にしがみつき思い切り噛み付いた。血が流れすぎて手足にはもぅ力が入らないが、顎ならなんとか力を込めることができる。
「うわっなんだこいつ。キモいんだよ」
鮎は足を振って市郎を飛ばそうとするが必死に歯を食い込ませ振り落とされないように耐える。
絶対に離すな。
絶対に離さな。
絶叫に離すな。
市郎は失血と痛みで半分気絶しているが、残った執念で鮎の足に喰らいついている。
娘は血溜まりの中で人の身体の型ではなくなった庭師の横に静かに座っている。
泣きもせず、ただ父親の顔を見続けた。
鮎は足元の市郎をなかなか振りほどくことができず、足で空を切るばかりであった。
「お前はあとで食うから、なるべく綺麗なままでしておこうと思ったけどよ、いい加減にしろよ」
鮎の串の先端が市郎の目に刺さろうとしたそのとき、出目金が串を片手で握り止め、鮎の脇を蹴り上げた。
「わぁお。大きな鮎ですね。びっくりし過ぎて目玉が飛び出るかと思いましたよ。あ、もぅ出てるか」
出目金の渾身の冗談は緊迫した状況の中、誰にも聞いてもらえず流された。
鮎は距離を取り、突然現れた男女を観る。
「俺の串を片手止めやがった。なんだこいつら。なんだあの女の蹴り。人間の動きじゃねぇぞ」
きしは血塗れで倒れている庭師の横に、小さな女の子が目に光なく項垂れている姿を見て唇を噛み締める。
胸が詰まり息が苦しい。
出目金は無表情でそんなきしを見つめ、事務的な口調で釘を刺す。
「きしさん、情緒に浸っている暇はないですよ」
「うん。分かってる」
きしは鋭い目つきに戻り、刀を抜くと鮎に向けて構えた。
「闘ろう、出目金」