うなぎ
町民が逃げたあとの江戸の町は、不穏なほど静まり返っていた。
壊れた家屋から舞い上がった土煙が風に吹かれ薄れていく。
瓦礫の中には「うなぎ」の看板が崩れ落ちている。
きしの後には不安げな子供と片足を鰻に食べられ、力なく座り込む母親。
きしは鰻の憎悪に満ちたおぞましい目に吐き気がするが、それでも母子の前に一歩出た。
腹の中に鈍く、打ち込むような声が響いた。
「すぐに楽にはしねぇからな。胴体を釘で刺して固定してから手、足と順に切り落としてやる」
言い終わるや、鰻はきしに包丁を振り降ろす。
きしは振り降ろされた包丁を刀で受けた。
「仕込み刀か。小賢しいことしやがる」
鰻はきしの横に置いてある振り売り棒を一瞥する。棒は鞘のようになっており、中の刃が抜き取られ空洞になっている。
きしが間合いを詰め刀を振った瞬間、鰻は自分の脇辺りを刃が掠ったような気がした。
しかし、音が全くしない。
気味の悪い静寂が鰻を襲った。
目線を下にやると、確実に脇をサックリと斬られている。
が、痛みは感じない。
斬られた箇所から血はしたたるこそするが、血しぶきは全く上がらない。
「なんだ? これ?」
きしは鰻に鋭い眼差しを向けたまま、刀を構えなおす。
鰻は自分が焦っていることに気付き、さらに動揺する。
「おいっ狡いぞ! クソ野郎なんだそれ! 普通の刀じゃねぇだろ! なんなんだよそれ! 卑怯だぞ!」
鰻はすぐに後退し、距離を取った。
「普通の刀だよ。ただ、この刀には鎮魂の願いが込められているんだ」
きしは少し悲しそうに顔を曇らせた。
(ちんこん? なんなんだ? 意味分かんねぇ。だがこの刀の斬れ味、次切られたらまずいぞ。少しの力でも胴体が二つに分かれそうだ)
鰻は肝が冷え、さらに距離を取ろうとするが、きしは間合いを詰めて斬りかかった。
鰻は包丁で刀を受け、そのままきしへ身体ごと体当たりした。
簡単に吹っ飛ぶきしを見て、鰻はようやく安堵する。
(こいつ、そのへんの人間と変わらねぇぞ)
「いくら切れる刀を振り回したってよぉ、当たらなきゃ意味ねぇよな!」
(オレが攻撃した隙を突かれてあの可笑しな刀で斬られるのはマズイ。だが、あの男の攻撃を避け続けていれば、いずれ男の体力は底を付く。あの親子がいる限りあの男はオレと殺り合うしかねぇからな)
鰻はきしの攻撃の手が少しでも止まれば、親子を狙う素振りをした。
鰻の予想通り、きしは刀を振るたびに体力を消耗していった。
それでも、きしは親子を狙わせまいと、足を動かし刀を振り続ける。
(あの変な赤い着物の女は人間離れした強さと俺を上回る速さがあったが、この男は)
「所詮、人間の動きだな」
鰻は余裕の笑みを浮かべる。
きしは汗を垂らし、流れた汗の量に比例して顔色が徐々に荒んでいく。
大阪らんちゅうはうつ伏せで倒れたまま、なんとか顔を上げてきしの様子を見る。
「あかんわ、きっしんの動き完全に読まれとる」
きしは荒い息を抑えて刀を握りなおし、母子の様子を一顧した。
母親の血はきしが手拭いで縛ったおかげで止まっているが、様態は依然として危ない。
子供は泣き止んでおり、母親を庇うように立って、きしを静かに見つめている。
大阪らんちゅうは焦りから、爪で土を削るように拳を握る。
「どないすんねん。このままきっしんの体力が尽きたら、私ら全員終わりやぞ!」
鰻はきしの疲れ切った顔を嘲笑うように見下した。
「おいおい、もぅフラフラじゃねーかよ!」
きしは満身創痍のなか刀を振り続けるが、そのたびに鰻は事も無げにきしの刀をかわす。
「!!」大阪らんちゅうはふと、うつ伏せになっている自分の目の先に、黒く光るものが落ちているのに気づいた。
「あっ!あれ!」と声に出しかけて飲み込む。
きしの息がさらに荒くなり、とうとう片膝が地面に崩れるように落ちた。
そこへ、鰻の包丁が降り降ろされた。
「もぅ終わりかよ。情けねぇなおい!」
きしは振り下ろされた包丁を刀で防ぎ、再び立ち上がる。
が、立ち上がったきしの腹を鰻が尻尾で蹴り飛ばした。
鰻は完全に自身の勝利を確信し、玩具の鞠を蹴るように、楽しそうにきしを痛ぶりだした。
呻きながら血を吐くきしはそれでも刀を握りしめて、よたよたと鰻へ向かう。
へどろが溜まった沼の中を歩いているのかと思うほど、足が重い。
少しでも気を抜けば足がとられて転けそうだ。
一歩を踏み出すのにも、全身の力を絞り出さなければならない。
呼吸をする度に肺が針で刺されたような痛みで顔が歪む。
視界も少しづく暗転していく。
「あの親子を守りたい」その気持ちだけできしは本来、とうに倒れているはずの身体を動かしていた。
視点が定まらず、ふらつきながらも斬りかかろうとするきしを、鰻は尻尾で軽く張り飛ばす。
ズシャッと地面に投げ倒されるきしは、それでも刀を杖のようにして起き上がろうとする。
「はぁあ。お前もぅ飽きたわ」
鰻は留めをさすように、包丁をきしに向けた。
鈍く光る刃先がきしの喉仏を捕らえた。