艶めく乙女、鉄魚様
満月の夜。
月の光が江戸の町を照らす。
控えめな佳人のように、水路沿いの隅に生えているのは秋桜。
その花弁が、木の下に浮かぶ小船を桃色に染めている。
水路のほとりには、花魁の恰好をした美女が煙草をくゆらせている。
白地に銀色の川模様があしらわれた豪奢な打掛にも引けを取らぬ立ち姿。
美女の鎖骨は、そのなだらかな線を這うように青白く輝いていた。
絹のような黒髪は簪によって結い上げられ、滑らかなうなじからは豊潤な色香が放たれている。
その光景は浮世絵か現実か、判別がつかぬほど妖艶で、見る者を有無も言わせず魅了する、暴力的とすら言える美を纏っていた。
水路の水面が藍色に、ゆらりゆらりと揺れるそんな夜――。
――ドォオン!! ガラガラッ!!!
吹き飛ばされて来たきしは、水路に叩き落とされ、全身びしょ濡れとなった。
美女は目だけをきしに向け、「ハァ」と吐息を漏らす。
きしは這々の体で水路から這い上がると、美女の側で片膝をつき頭を垂れた。
「鉄魚様……」
きしは手のひらを上に向け、花魁の美女――そう、鉄魚へと差し出す。
【鉄魚】
別名、羽衣天女鮒。
鉄魚が最初に発見されたとき、金魚が鮒からの突然変異種である生きた証拠として、金魚界隈を賑わせた。
だが近年になり、金魚と鮒の交配種であることがDNA鑑定で判明し、盛り上がった界隈を落胆させることとなる。
非常に思わせぶりな金魚。
細身の身体に、ひらめかせる尾鰭が妖艶で美しい。
「まぁ。最後まで吸わせてくれないなんて、きし殿はせっかちでありんすな」
膝まずくきしの頭へ向けて、煙をふぅ、と吐く。
きしは無言のまま、手のひらを鉄魚へ差し出し続けた。
鉄魚は侮蔑の眼差しを向けると、きしの手のひらに、自身が吸っている煙草を押しつける。
きしは一瞬、火傷の痛みで顔を歪ませるが、すぐに涼しい表情を取り繕った。
手の上でぐりぐりと押しつけられた煙草は、程なく鎮火する。
きしはそれを握ると、静かに懐へしまった。
「きし殿、わっちは今夜、興が乗らないの。早く終わらせちゃいましょう」
「はい」
高下駄を小粋に鳴らし、鉄魚は一歩ずつ前へ出る。
「あら旦那、揚げ代がまだでありんすよ」
蠢く足が、鉄魚ときしのもとへ、カサカサカサカサと音を立てて近づく。
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙」
巨大な鯉から、百足のような節足が無数に生えている。
「あ゙あ゙あ゙」
鯉の口からは大きな包丁が突き出ており、声を発するたび、口元が裂けて血が垂れた。
「ぃい゙たい゙い゙たい゙い゙たい゙い゙たい゙」
鉄魚はセキショウの葉をしならせて拳に巻きつけ、戦の構えを取る。
「可哀想に。早く楽にしてあげましょう」
鉄魚は屈んでから素早く鯉の下へ潜り込み、口から突き出た刃を掴むと、横から蹴り上げた。
鯉は地面を横滑りする。
石粒の混じった土が、鯉の鱗をヤスリのように削った。
「い゙たい゙い゙たい゙……からだぜんぶが、い゙たい゙……い゙たい゙よぉ……」
きしは鯉へ駆け寄り、刀で両断しようとするが、鯉は身体をくねらせ、口の刃を向けてきた。
「きし殿、刃先に毒がありんす」
鉄魚の声を背に受け、きしは顔の前に迫る刃を、身体を仰け反らせて寸前でかわす。
その隙に鯉は、無数の節足を蠢かせて逃げ出した。
「まぁまぁ、あれほどたくさんの足を、器用に操りんすね」
「鉄魚様」
「心得ておりますよ、きし殿。追いましょう。町へ入られたら厄介でありんす」
「はい」
二人は、鯉が逃げた方角へ走り出す。
すると逃げていた鯉は踵を返し、鉄魚ときしのほうへ突進してきた。
「だずげで……だずげ……あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙……」
後方から、上下左右に刻まれた鯉が唸りながら血を噴き出す。
「……きし殿、お下がり」
「はい」
きしは、鯉の背後から並々ならぬ気配を感じ取った。
鯉とは明らかに次元が異なる。
恐怖が身体を支配するような圧が、二人を包む。
鉄魚ときしは、一歩ずつ後退った。
血溜まりに倒れ込む鯉の向こうから現れたのは、二つの鎌を両手に携えた色男だった。
男は赤い着物の胸元を開けて着崩し、栗色の髪は夜風を受けてさらりとなびく。
一重の涼しげな眼差しが、鉄魚ときしを捉えた。
「こんばんは」
血塗れた凄惨な光景の中で、男の低く落ち着いた声は、その異様さをいっそう際立たせていた。




