きしと大阪らんちゅう
江戸の町に地鳴りが響く。
崩れた家屋、逃げ惑う町民の叫び声。
土煙から現れたのは三メートルはあろう大鰻。
対峙するのは紅白模様の華やかな着物を纏った一人の少女。
怒り、恐怖、絶望が渦巻く混沌とした地で、少女は満足そうに微笑んだ。
「ほな、いきまっしょい!」
快活な声は土埃を消散し、晴れた空へ響き渡る。
半刻前-
「金魚ぇ〜ええぇ〜金魚ぇ!
池の子ぉ〜おぉおぉ〜金魚ぇ!」
ここは江戸時代。
金魚振り売り師の青年、堺きしは口上と共に江戸の町を歩く。
肩には金魚の樽が両端に吊るされた、振り売り棒を担いでいる。
樽の中で泳ぐ金魚の鱗は、晴天の日差しを反射し光の羽衣を着ているようである。
半透明の尾は天女が舞う裾のようにたゆたいでいる。
江戸時代中期から庶民の間でも広く飼われ始めた金魚。
その美しさ故、町民達は直ぐに金魚に夢中になった。
優美な金魚とは真逆に、きしの着物は薄汚れた尻しょっぱりに股引という出で立ちである。彼の持つ豊かな銀髪も繁茂しており、持て余している様子がより一層彼の貧相な格好を際立ててしまっている。
「金魚え〜えええ〜金魚え!!」
きしは口上を唱え歩いていると、一人の男の子がついてくるのを横目で認めた。
(歳は七歳ほどかな?俺の弟より少し小さいな)
きしは好奇心に満ちた目で後を歩く男の子と自身の弟を重ね、郷愁の想いにかられた。
(可愛いな。樽の中が気になるんだろうけど、直接声は掛けづらいか)
きしは適当な長屋の前で樽を降ろし、子供がのぞきに来るのを待つことにした。
子供と触れ合うことで、弟への懐郷も和らぐかも、そんな期待も淡く抱いた。
ほどなく、子供がすごすごと近づいてきた。
「やぁ。調度、今休もうと思ってたんだ。良かったら樽の金魚を見てくかい?」
きしは子供が気負いなく来れるような無頓着な風を装い話し掛けた。
子供は目を輝かせながら「うん!」と頷き、さっそく樽の前に来ては、屈んで金魚に魅入った。
無言で金魚を見つめ続けていた子供が、ふと振り売り棒のもう一端に掛けられている樽に、簾が掛かっているのに気づいた。
「こっちは何?」
子供が簾をあけようとするその手を、きしが優しく止める。
「ごめんね、こっちは売り物じゃないんだ」
そこへ、子供の母親が息切れしながら駆けつけた。
「ハァ、ハァ。目を離した隙にもぅ!こら!勝手に1人で行かないの!!」
母親は「すいません、うちの子が、ほんともぅ」と話しながら子供の腕を掴もうした瞬間、金魚の樽に気づいた。
「あら、金魚!可愛いわねぇ」
「おかあちゃん金魚かって!」
すかさず子供が母親にねだる。
「うーん…そおねぇ…。お兄さん、また近くこの辺来るのかい?」
母親に尋ねられたきしは少し返答に詰まった。来る予定はないが、母親の期待を感じとったからだ。
「あ、えっと、はい。来ますよ」
母親は、子供に聞こえないようきしの耳元でそっと話した。
「実はね長いこと勤めてた茶屋の店主がね、もっと若い娘に給仕させたいってゆうんで、私はお払い箱になったのさ」
「お払い箱って?」
子供が無邪気に聞き返した。
母親は目をギュっと瞑って「あちゃ!聞こえてた?!」と驚いた声を出した。そして、力強く子供の頭をグリグリと撫でた。
「お払い箱っていうのは、そう、母ちゃんの仕事をもっと良いのに変えるってことよ」
子供はよく分からないのか「へぇ〜」と生返事で返す。
「次の仕事が見つかったら、そんときに金魚買ってあげるわね!」
「ほんとに?」
「ほんとよ!」
子供の開いた瞳に、水面を反射した光の粒が映った。
きしは二人の間にある、うららかさのお裾分けをしてもらったように感じた。
そろそろ目的地へ移動しようと立ち上がったきしに、恰幅の良い商人の男がぶつかってきた。
商人は肩に手拭いを掛け、その端を両手で掴みながら大きな怒鳴り声を上げた。
江戸町ではこの「手拭いの肩掛け」が流行っていると思っているようだ。
「おい!ボサッとしてんじなねぇよ。埃だらけの汚ねぇ着物きやがって!俺のはいからな着物が汚れちまっただろうが!」
母親は子供の肩を抱いて物陰へ避難した。
きしは頭を下げながら「これはこれは旦那、あいすいません」と平謝りする。
商人は顔を上げたきしを一瞥した。
(なんだこいつ。見ねぇ顔だなぁ。つか、面だけは良いじゃねぇか。ムカつくぜ)
面白くない心地の商人は、目の前にいる優男に自分の方が上だと分からせたくなった。
「俺はこの町で一番手広くやってる問屋の商人なんだぞ。金魚なんか何の役に立たないゴミを売ってるお前みたいな奴とは身分が違うんだよ」
商人は言いながら懐から火打石を取り出して煙草に火をつけた。
「金魚なんかよりも、火打ち石とかよぉ、生活に使えるもんでも売っとけばいいのによぉ、お前能無し過ぎんだろ」
商人はきしの顔に煙を吐いた。
「とりあえず、誠意を見せて頭でも地べたへつけろ。ゴミくず売りのゴミ野郎が」
堪らず母親が「よして下さ…」と割って入ろうとしたところで、きしは何の躊躇いもなく勢いのよい土下座をした。
「すんませんでしたぁ!」
きしの渾身の土下座に商人は呆気に取られた。
「いやぁ旦那さまの言う通りでございます」
きしは地べたに手をついて殊勝らしい顔をして繰り返し謝罪の言葉を述べた。
「何卒平にご容赦を、この通りでございます」
ものものしい様子に、なんだ?なんだ?と通行人が集まってくる。
周りから変に注目されているのを感じ取った商人は何故か自分が恥ずかしくなった。
「な、なんだ、分かってんじゃねぇかよ。まっ自分で自分の無能を気付けてるだけでもマシな方だよあんちゃん」
堪らず商人は逃げるようにその場を去った。
きしは土下座した姿勢で商人を見送った。
そんなきしを見て、子供は思わず「カッコ悪い…」と呟いた。
「格好良く生きる必要なんてないのさ」
きしは満面の笑顔で応えた。
本心でそう思っているのだ。
格好良く生きることより、今やるべきこと、今やらなければならないことを彼は最優先で選択する。
「じゃ、次に行くところがあるので、また必ず来ますね」
まるで何もなかったかのように飄々と金魚の振り売り棒を担いで行くきしを、母子は呆気に取られた顔で見送った。
暫く歩き、きしは町の外れにある池の前に着いた。
目の前には小ぶりな池がある。
「この辺り妖怪が発生するって報告だったけど何も出ないなぁ」
きしは困った顔で池の周りを彷徨いた。
「最近は本部の連絡ミスも多いし、上層部が現場を把握しきれてないんじゃないかなぁ」
ドオオオーーン!!!
「キャアアアア!!」「ウワアアア!!」
独り言を言うきしの耳に突然つんざくような悲鳴が聞こえた。
「まさか、町の中に出たのか?!場所の指示が違う!どうして?」
きしは急いで元来た道を引き返した。
きしが着いた頃には、町の家々が無残に壊され、あちらこちらで煙が上がっていた。
人々の悲鳴や怒号、泣き声が針のように頭を突き刺す。
「かあちゃん!かあちゃん!」
先の方で聞き覚えのある声がする。
目を向けると、先程一緒に金魚を見ていた母親の方足が膝下から引き千切られたようにもがれていた。
町家の壁にもたれてぐったりと座る母親と母親に寄り添い号泣している子供の姿に動揺するきし。
二人ともさっきまであんなに笑顔だったのに。
受け入れられない。
息ができない。
何も見たくない。
きしは一瞬目を閉じた。
そして、再び開けた。
その瞳には現実を受け入れる弱い覚悟と強い諦めが宿っていた。
絶望的な状況であろうと、踏ん切りをつけて藁を掴みにいく。それがきしである。
「止血しないと」
きしは直ぐに親子の元への駆け寄ろうとした。
だがその瞬間、大きな鰻の尻尾が飛び出した。
尻尾は町の家々を破壊し、瓦礫がきしと母親の間を防ぐように降りかかった。
土煙が辺りを覆うように視界を濁す。
煙の隙間から、きしは商人が手拭いを持ったまま母親の近くで尻もちをついているのに気づいた。
「旦那!その手拭いで女の太腿を縛ってくれ!早く血を止めないと死ぬぞ!」
商人は大声で叫ぶきしの声も聞こえていない様子で震えている。
目の先には三メートルはあろう大鰻が尻尾を振り、町家を壊しながら少しづつこちらに向かって来ている。
鰻の鰭は人間の腕のような異様な形になっており、右手には包丁が左手には女の片足が収まっている。
鰻は口の中に女の足を放り込むとゴクンと飲み込んだ。
商人は「ヒィ、ヒィ」と呼吸を乱し、尻もちをついたまま失禁する。
そのとき、鰻が壊した瓦の破片が商人へと飛んできた。
きしは咄嗟に落ちている戸を盾代わりにして商人の前に出た。
「立て!早く!」
瓦礫を防ぎながら、きしは端的に商人へ叫ぶ。
商人は「おか、か、か」と震える声を出しながら、なんとか立ち上がる。
「走れ!」
「おかあちゃああああん!」
商人はきしの声と共にせきを切ったように一目散に走リ去った。
きしは商人を見送ると金魚のいる樽へと素早く戻り、簾を開ける。
そこには一匹の金魚、大阪蘭鋳がゆったりと泳いでいる。
「頼む!大阪らんちゅう!」
きしが金魚の上に手をかざすと、樽の水が巨大な竜巻のように舞い上がった。
水飛沫がきらめきを放ち、辺りを照らす。
竜巻の中から乙女が一人、水滴を飛ばしながら空中を跳ねるように現れた。
紅白の晴れやかな着物を纏い、手には背丈ほどの巨大なセキショウの葉を一本持っている。
少しつり上がった目が印象的な精悍な顔つきだが、肩辺りで切り揃えられた髪が幼さを加えている。
-大阪蘭鋳-
【江戸時代、最古の品評会が行われたという記録が残ってる金魚。瘤のない頭、鰭のない背、短い尾、紅白の模様が特徴だ。短い尾を振って泳ぐ姿は愛らしく、紅白の背はまるで真珠とルビー。宝石の輝きを持つ金魚である】
「おぅ、きっしんやん!ひっさしぶりやなぁ〜元気しとった?」
大阪らんちゅうは元気が溢れる声で挨拶した。
余裕のないきしは用件だけで応える。
「大阪らんちゅう、怪我人が残ってるんだ。鰻を止めてくれ!」
きしは言いながら商人が落としていった手ぬぐいを持ち、青白い顔で意識なく項垂れている母親の元へ駆け寄る。
その間にも鰻はこちら側へあらゆるものを破壊しながら近づいて来る。
大阪らんちゅうは「せわしないなぁ」ときしを一瞥してから怪訝な顔で鰻に目をとめた。
「なんやあの鰻、おっきぃなぁ!ほんでぬるぬるやん。きっしょ!」
大鰻を見ても動じずに「んぁ〜あ」と伸びをする大阪らんちゅう。
「まっ!身体訛っとったし、たまには運動せなな」
大阪らんちゅうがセキショウの葉を刀のように構えた。
葉先が鋭く光る。
晴れ渡るような明るい声が空へ突き抜けた。
「ほな、いきまっしょい!」