9.体育祭①
テストが終わってからも、彼女は何度か昼休みに屋上へと現れた。しかし、6月に入ると完全に夏の陽気となり屋上はとてもお昼を食べられるような環境では無くなった。そのため僕も彼女も昼休みは教室で過ごすようになっていった。もちろん彼女と一緒にお弁当を食べることもなければ、話をすることもない。彼女は自分の友達と一緒に過ごし、僕は1人で弁当を食べていた。教室での僕らは今までの距離感を保ったままだった。
昼ご飯を一緒に食べなくなった代わりなのか、彼女からLINEがよく届くようになった。僕についての質問や学校でのことなど、要は僕と彼女はLINEで雑談をするようになったのだ。
そんな中、体育祭まであと約1週間に迫ったある金曜日のこと。クラスでの放課後練習が始まり、僕のクラスも例外なく放課後に練習するようになった。練習場所は事前に振り分けられていて、体育館やグラウンド、柔道場などがローテーションで回ってくる。強制参加の体育祭練習は、体育祭への興味など全くない僕にとって、ただただ自分の時間が奪われていく苦痛な時間だった。
今日は柔道場だったのでリレーメンバーがバトン練習を行うくらいで、リレーに出場しない生徒は自分の出場種目の確認だけして、すぐに帰ることができた。僕は借りていた本を返すために図書室に寄ってから帰ることにした。
本を返却し、昇降口から外に出ると後ろから「待って」と誰かを呼ぶ声が聞こえた。僕を呼び止めるような人間がこの学校にいるとは思えなかったが、周りに他の生徒もいなかったので一応振り向いておく。
「吉岡くんまだいたんだ、せっかくだから一緒に帰ろうよ」
桜庭陽和が上履きからローファーに履き替え、こちらに向かってくる。
「君は実行委員の仕事ないの?」
「今日はないよ。練習もリレーメンバーだけでやるから大丈夫だって」
「そうなんだ」
学校では屋上以外で話していなかったので、なんだか少し恥ずかしい気持ちになる。
「何気に一緒に帰るの初めてだよね? 映画行った時はバラバラに向かったから。」
「そうだね。僕といるところなんか他の人に見られてもいいの?」
「逆になんか問題あるの? 別に悪いことしてるわけじゃないし」
僕は少し悪いことをしているような気持ちがするのだが、彼女がいいのなら別に構わない。周りの声を気にするのはもう1年くらい前に卒業した。
「体育祭の練習始まったけど、どう?」
「前も言った通り僕は体育祭が嫌いだから、大変だよ」
「練習サボるのも当日欠席するのも許さないからね。」
彼女の横顔からは悪そうな笑顔がうかがえる。
「.そもそもどうして体育祭が嫌いなの?」
「僕からすればどうしたら好きになれるのか聞きたいくらいだよ」
「去年の体育祭はちゃんと参加したの?」
僕は真実を言えば彼女はまた色々と突っ込んできそうだと思ったので、黙秘することにした。
「嘘、もしかしてサボったの? 信じられない」
「サボったんじゃないよ、体調不良だったんだ」
「本当に?」
「学校に行けないくらいではあったかな」
「信じられないなー」
「別に信じてもらえなくてもいいよ、もう終わったことだし」
何かに気が付いたように彼女はおもむろにポケットからスマホを取り出した。
「あっ、奈々から電話だ。ちょっとごめんね」
彼女はすぐにスマホを耳に当てがった。親友からの電話に出た彼女は1分も経たないうちに電話を切った。
「ごめん、体育祭の委員会で急に集まらなきゃ行けなくなったから学校戻るね」
「全然構わないよ、じゃあ僕はお先に。」
と言うと彼女はくるりと回って僕と反対側を向いたが、思い出したようにまたこちらに顔を向けた。
「そういえば君、去年は奈々と同じクラスだったのか。奈々に去年の体育祭のこと聞いちゃおうかな、君が本当にサボってないのか」
彼女の言葉を聞いた瞬間、脊椎反射で僕は言葉を彼女に投げつけた。
「やめろ!」
彼女は虚をつかれた様子で目を丸くして僕の目を覗き込んだ。僕も自分自身の咄嗟の行動に驚き、身動きが取れなくなった。しばらくの静寂ののち、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「痛いよ」
呟くような彼女の声を聞いて初めて自分の行動を理解する。僕は咄嗟に握っていた彼女の手首を離した。彼女の白い腕は僕に握られたところだけが潮紅していた。
「ごめん」
俯いた自分の口から言葉がこぼれ落ちるように出てくる。
「ごめん、ごめん」
正面から肩を叩かれ顔を上げると、そこには既に明るい表情をつくった彼女がいた。
「別にそんなに謝んなくてもいいって。吉岡くんがこんなことするの初めてだったから、ちょっとびっくりしたけどね。私の方こそ多分踏み込んじゃいけないところまで、踏み込んだんだよね。ごめんなさい」
彼女の優しさが僕に染み渡る。
「別に君は悪くないよ、本当にごめん。痛かったよね」
「大丈夫、大丈夫。気にしないでね。私はそろそろ行かなきゃ、早く行かないと奈々に怒られちゃうからね」
そう言うと彼女は笑顔で手を振りながら学校へと戻って行った。僕は罪悪感を抱えたまま再び家路についた。家に帰っても彼女にしたことへの後悔が、僕の頭を占領していた。家帰ってからしばらく、何もせずに惚けていたが今日はバイトのシフトが入っていたので、できるだけ気を取り直してから17時前にバイトへと向かった。
家から徒歩5分もかからない場所にあるしゃぶしゃぶ屋が僕の職場だ。ここを選んだ理由は近いからという理由とキッチンならあまり人と関わらずに済むと思ったからだ。一年生の頃から働いているので、今ちょうど一年くらいになる。もちろんここにも友達と呼べるような存在はいない。それでも学校よりは幾分か居心地がいい。
出勤すると、僕と入れ替わり小内さんが元気な声で迎えてくれる。
「おはよう吉岡くん」
「おはようございます」
小内さんは60歳くらいのパートのおばさんで、キッチンのリーダー的存在だ。勤続年数は10年を悠に超えるであろうベテランで、店長や店の社員さんはもちろん、マネージャーにも頼られる存在だ。
「吉岡君、今日は元気ないんじゃない?」
できるだけ平然を装いたいが、今日の僕は色々と顔に出てしまっているのかもしれない。
「元気ないのはいつもなので大丈夫です」
「あっはっはっはっ、吉岡君は面白いこと言うよね。でも、相談があるならおばちゃんが聞いてあげるよ」
「大丈夫ですよ、そんなに大変なことが起きたわけでもないので」
「そっか」
小内さんは優しく真剣な顔で続けた。
「だけど、一つだけ覚えておいて欲しいのはね、人間自分の中に溜め込んでいるのもはどんどん膨れ上がっていくの、そうしてやがては外に出せないくらい大きくなる。そして一度そうなってしまったら、もう爆発させるしかなくなる。そうなれば、きっと周りの人間を傷つけてしまう。だから、不安や悩みは周りにどんどん放出しちゃった方がいいのよ。自分の大切な人を傷つけないためにもね」
言い終わるとすぐに真面目な表情からにっこりと笑って見せた。
「じゃあお先にあがらせてもらうね」
僕は感謝の気持ちも込めて、「お疲れ様でした」と返した。小内さんの言葉で少し心が楽になった気がした。その日は平日だったからか、お客さんも少なく時間が経つのが遅く感じた。僕は21時まで働いて予定通りに退勤する。
休憩室で着替えを済ませ外に出ると、完全に暗くなっていて夜空には少し欠けた月が浮かんでいた。帰り道、僕はLINEを開き一件のメッセージを入れた。
「少し話したいことがある。時間があるとき教えて」