第6話 もう一つの花見とマタギ飯
さて、時間は既に14時を回り、新青森駅に降り立って以来、スイーツしか口にしていない私は、流石にちょっと腹が減ってきました。
岩木山神社の門前には数軒の食堂があるのですが、折角ここまで来たからには旨い物が食いたい。と、言うことで、ここから20分ほど道を上ったところにある、嶽温泉を目指すことにしました。久しぶりに『マタギ飯』が食べたくなったのです。
『マタギ飯』とは、嶽温泉『山のホテル』の名物料理で、山菜、舞茸、雉肉等を、醤油ベースの出汁で炊き込んだ釜飯のことです。これに『マタギ汁』という舞茸の土瓶蒸しを付けた『マタギセット』は絶品で、これを紹介して絶賛しなかった人はいないほどです。
『マタギ飯』は、注文を受けて一から炊き始めますので、炊き上がりには少々時間がかかります。ですから、レストランで注文して、炊き上がるのを待つ間に温泉を楽しみ、湯上がりに炊きたてを食する。これが最高の食べ方です。
懸念されるのは、少々時間が遅くなってしまっていることです。でも大丈夫。レストランの営業が終わってしまった場合は、売店で自宅用の『マタギ飯』を買って、『嶽きみ』で腹を満たせば良いのです。
『嶽きみ』とは、岩木山の中腹の高原地帯で栽培されているトウモロコシのこと。高原特有の昼夜の寒暖差を活かした栽培方法で、生で食べても甘いほどの高糖度を誇る、稀有な存在です。筆者の同僚などは、職員旅行で連れて行った際に完全に嵌まってしまい、8月末に家族で嶽温泉を訪れるのが年中行事になってしまいました。
当然ながら、4月は旬でないどころか、苗すら植わっていません。ですが、嶽温泉には真空パックした商品を、茹でたり焼いたりして年中販売している店が、複数存在します。今日は弘前桜祭り期間中の土曜日。いくら昼には遅い時間とは言え、『嶽きみ』ぐらいは売っているはず。
そんなことを考えながら、岩木山麓を一路西へと向かいます。
岩木山神社から嶽温泉へと向かうルートは、岩木山周回道路、通称『ネックレスロード』の一部です。その沿道には、オオヤマザクラが植えられており、『世界最長の桜並木』としても知られています。
その並木の間を快調に走っていくと、神社周辺では八分咲きだった桜に徐々に蕾が増え、嶽温泉が近づく頃には、蕾が硬く締まった状態へと変化していました。道路脇には残雪もあちこちに見られるようになっています。それを見た私は「もしかすると別の花見ができるかもしれない」という考えが頭を過ぎりました。
しかし、この時期に果たして開花しているのか? 私には全く知識がありません。しかし、食事を摂った後に寄って、ガッカリした気分になるのも嫌です。ですから、下見(?)がてら、先に寄ってみることにしました。
そんなわけで、道路右側に出てきた『嶽温泉入口』の看板を盛大にスルーし、すぐ先の『湯段温泉入口』を左折します。そして、車を走らせること1分ほどで、広い駐車場と、その先に広がる水面が見えてきました。『常盤野農村公園』です。
駐車場には車が数台停まっていました。車がある段階で希望は持てますが、あまりに少ない台数です。果たして、有りや? 無しや? ドキドキしながら車から降りると……。
あ! ありました。
ミズバショウ
この湿地、『ミズバショウ沼』と言い、その名の通りミズバショウの群生地として知られています。
ミズバショウ沼と岩木山
後で聞くところによると、例年より開花が早かったらしく、咲き始めの姿をタイミング良く目にすることができたようです。おかげで、沼自体が完全に穴場スポットとなっており、人混みに邪魔されずに早春の湿原を堪能できました。
惜しむらくは、時期が早すぎたせいで、木道の清掃が追いついていなかったことと、ザゼンソウを目にすることができなかったこと。それでも、一瞬、空腹を忘れさせてくれるほどの、心躍る光景を目にすることはできました。
良い物を見られましたので、心も軽く嶽温泉に向かいます。『ミズバショウ沼』から温泉街までは、車で1~2分、温泉街の中央にある無料駐車場(?)に車を停めて、ふっ、と、いつも『嶽きみ』を売ってるお店を見ると……。
ありゃ!? もしかして、やってない!?
数件あるはずの売店が全てお休み(※というか営業期間前?)。
「桜祭りに合わせて観光客を増えるんだから、開ければ良いのに……」こんなことを考えながら、車を降りて、『山のホテル』へと足を向けます。
ホテル前の道を見ると、白濁した温泉水が道を流れているのが見えました。硫黄の香りが鼻腔をくすぐり、「温泉地に来た!」という実感が湧いてきます。それにしても、目の前の道路に温泉水を流しちゃうとは、「山のホテルさん管理不行き届きだぞ?」そんなことを考えながら、ホテルに近づくと、何か雰囲気がおかしい。
あれ? 入口にある売店が開いてない!? しかも、建物自体にも人気が感じられません。入口の自動ドアには何やら張り紙が。恐る恐る近づくと……。
「2023年1月 廃業しました」
な ん だ と ! ! !
この『山のホテル』、『びゅう』の湯守の宿にも選ばれているほどで、嶽温泉の中でも一番人気の宿じゃなかったの? しかも、レストラン『マタギ亭』も抱えてて、こちらもいつも待ちが出るほどだったのに!?
後で調べたところ、コロナ禍のため、宿泊客が激減。さらに追い打ちをかけるように、嶽温泉全体で温泉湧出量が激減し、経営が成り立たなくなったとのこと。負債総額は5億円でした。
5億円を高いと取るか、安いと取るかは人それぞれですが、もし、私が宝くじに当たってたら、無利子で支援してもいいと思うくらいには、素晴らしい宿だっただけに、残念でなりません。
ちなみに、その後、温泉組合が新たなボーリングを行うなどして源泉を確保したため、嶽温泉自体は復活しています。実際、隣の『小島旅館』さんは普通に営業していたのですが、私の今日の目当ては『マタギ飯』。「マタギ飯食えねぇなら帰るわ!」って心境でした。
嶽温泉は復活しましたので、温泉自体は、まだまだ入れます。しかし、『山のホテル』が閉業したことで、あの『マタギ飯』は2度と口にできなくなってしまいました。
「一時代が終わった……」そんなことを考えさせられた昼下がりでした。