ある人喰いの記憶5
……気がつくと僕は海辺にいた。
全身がずぶ濡れで酷く寒かった。
海に落ちたのだろうか。
半乾きになった髪がべたついて酷く深いだった。
どうして自分がここにいるのか分からない。
記憶にない風景だ。
そのはずなのに、潮風が吹くと忌ま忌ましさを覚えるほどの日常を感じた。
途方に暮れていると、ある少女の物語が頭に流れ込んできた。
少女は自分の名前が嫌いだった。
それは古い習わしで、跡継ぎの長女に付ける名前だったからだ。
少女は屋敷に住んでいた。
立派な屋敷だが、実際のところそれは張りぼてだった。
そこに住まう家族も、屋敷と同じように見てくれを整えただけの虚実でしかない。
少女はそう確信していた。
少女には母親がいたが、母親はたくさんの子供の「ママ」だった。
少女にとって母親はたった一人の存在だが、母親にとっての彼女はたくさんの中の一人だ。
少女もいつか自分の母親のように「ママ」となり、その張りぼての主となる。
そして、たくさんの子供を育てることになるだろう。
血を、繋ぐために。
それが嫌で、恐ろしくて、少女は屋敷から飛び出した。
自由のために。
このまま屋敷にいても、一生を無意味に過ごすという漠然とした予感が彼女の背中を押したのだ。
血の繋がりなんてどうでも良かった。
とっくの昔に栄光を失った血筋の延命に、彼女は興味が微塵も興味もない。
海を渡って、町の向こうで新しい人生を見つけるのだ。
……しかし、少女の逃避行は失敗し、彼女は命を落とす。
少女が操った船は呆気なく転覆した。
彼女の身体は黒い海に飲まれ、すぐに見えなくなった。
事故だった。
でも、傍から見れば自殺と変わらない。
少女にとっての不幸は、その場に第三者の目はなく、彼女の物語は誰からも観測されることがなかったことだろう。
僕はどうして少女が家族を捨てたのか理解できなかった。
少女が望んだ自由はただの幻想だ。
そんなものを求めて、温かい家を捨てたのは理解に苦しむ。
濡れた身体を抱きながら辺りをさまよっていると、暗い世界に女性が現れる。
少女の母親だとすぐに分かった。
「突然いなくなってしまったから、心配したのよ」
母親は僕の身体を優しく抱きしめた。
そんなことをしてもらったのは生まれて初めてで、自分よりも大きな母親の身体をどうしたら良いのか分からず、僕は困惑と安堵の狭間で右往左往する。
このぬくもりを何としても守ろう。
ぼんやりとした意識の中で、そう願った。




