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〈死体拾い〉のエマ  作者: しゃかもともかさ
3.信仰を爪先で蹴り上げる
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 船着き場に船頭はいなかった。まだ時間が早すぎるのかもしれない。

 一時間待って船頭が現れなかったら勝手に舟を使って良いことになっているが、私は舟の操縦の経験はないし、エマを信用したくはない。


「ところで、誰が〈人喰い〉だったの?」


 エマの赤い瞳が無頓着に私を見ていた。


「名前は知らない。孤児院の子供だよ」

「あら、そうだったの」


 きっと誰が〈人喰い〉であったとしても、彼女の反応はそう変わらなかっただろう。


「ケイトは〈人喰い〉が可哀想で、死体をあげたのかしら」


 少し棘を感じる言い方だった。


「違うよ。私は〈人喰い〉が嫌いだから、そんなことはしないし、可哀想なんて思わない」


 〈人喰い〉を愛している人類はいないだろうが、私はそれとはまた少し違った事情で彼らを嫌悪している。


「ところで、エマは私が〈人喰い〉の正体を知っているって、いつ気づいたの?」

「今、なんとなくそう思っただけよ」


 エマは海風に煽られた髪をうるさそうに抑える。


「そうね……私がケイトの橙を勝手に食べたとき、あまり怒らなかったから。少し不思議には思っていたの。何か気まずいことがあるんじゃないかって」


 判断の基準が食い意地なのがエマらしくて、私は少し笑う。


「君に渡すおつまみを取りに行ったとき、ばったり遭遇したんだ」


 〈人喰い〉の目は血を固めたようなどす黒い赤色に染まっていて、呼吸は荒かった。

 そして、その目は私をしっかりと捉えていた。


「私は〈人喰い〉と取引をした。死体を渡す代わりに……」

「身の安全を守ったのね。ケイトが襲われなくて良かったわ」


 エマは私の背中にそっと優しく触れ、身体の骨格を確かめるように撫でた。

 〈人喰い〉に食べられたら、死体のほとんどが残らない。

 私の身の安全ではなく、身体が残っていることに安堵しているのだろう。


「でも、どうして黙っていたの」

「後ろめたかったんだ。君は死体が大好きだし……」

「ええ、そうよ」

 エマは誇らしげに言う。

「でも、多少の分別はあるつもり。生きている人がいるからこそ、死体があるのだもの」


 猫を愛する人が近所で飼われている可愛らしい子猫をみかけても、隣人を殺して子猫を自分のものにしようとはしない。

 それと同じ理屈だろうか。


 エマは死体を愛する〈死体拾い〉だ。

 エマの趣味嗜好には眉をひそめたくなるが、彼女の死体に対する愛情は誰かを傷つけたりはしない。


「私が後ろめたく感じたのは、あの男の死体がなくなってほっとしたからもしれない。私たちが〈海の中の丘〉で拾った死体の男が」

「そんなに絵を破られたのが嫌だったの?」


 エマは不思議そうに私を見たが、それ以上の追求はなかった。


 ちょうど船頭がやってきた。

 寡黙そうな青年だった。

 彼は私たちを舟の上に案内した。

 まだ波が少し高かったが、青年の操る船は向こう岸を目指して着実に進んでいった。


 少し強い海風を肌に感じながら、あの夜のことを思い出す。


 私は出て行こうとする〈人喰い〉を引き留めて、死体を食べて欲しいと言った。

 〈人喰い〉は困惑した様子だったが、飢えは限界だったのだろう。

 私が〈人喰い〉の足元に革袋を投げると、本能に抗えなかったのか中身を貪るようにした食べた。


 私の肌にまとわりついた汚らしい手が〈人喰い〉の歯に噛み砕かれる。

 赤黒い内臓はらわたがゼリーのように飲み込まれていく。

 顔の皮膚が剥がされ、砕かれた顎の隙間から長い舌がだらんと垂れた。


 その様子を見たとき、私はかつてないほどの心の安らぎを覚えた。


 あのとき感じた安堵をエマに伝える気にはなれない。

 エマは私の身体の汚れを憂うようなことはないだろう。

 心の傷に寄り添うこともしてくれない。

 本当のことを言ったとしても、彼女は無機質な表情で「そう」と言うだけだ。


 私はそういうエマを美しいと思う。

 だから、彼女を責める気持ちはない。

 でも、それと同時に私の傷を理解して欲してくれないことを切なく思ってしまうのだ。

 

 あの男の喪失は私の心をいくらかは晴れやかにしてくれた。

 男の妻だと思われる女が無残な姿で見つかったのは予定外ではあったけれど、彼女に対して同情や申し訳なさなんて微塵も感じない。

 むしろ、清々しく思った。

 あのヒステリックな女は汚らしい男と同じ胃袋に収まったのだから。

 そして、彼女の身体の残骸は、見知らぬ男と一緒にどこかに葬り去られたことだろう。

 その結末は、汚れた男とその妻にはどうしようもなく相応しい。


「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか」


 船頭の青年が私に聞いた。

 舟の揺れは酷く、私が酔ったのだと思ったのだろう。


「大丈夫です」

「もうすぐ付きますよ。顔を上げて、遠くの景色を見ると少し気分が良くなります」


 青年に言われた通り顔を上げて遠くを見る。

 空気が澄んでいて、景色の向こうに見える山々の連なりがはっきりと見えた。


 ともかくとして、嵐は過ぎ去った。

 過ぎ去ったのだ。


読んでいただきありがとうございます。

次の更新は11月21日(火)ごろです。

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