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窓を開けると穏やかな空気が部屋に流れてきた。
わずかに潮の匂いを感じるが、それすらも心地良く思う。
ベッドの方でエマが目を覚ます気配がした。
彼女は私を見ると、少し残念そうな顔をする。
「今日は早起きなのね」
私の寝顔を朝食にしたかったのかもしれない。
生憎のところ、私はすっかり身支度も済ませている。
「いい天気だよ。風も穏やかだから、波も大丈夫じゃないかな」
昨晩のうちに荷物はまとめてある。
あとはエマが脱ぎ散らかしてベッドの上に散乱している服を鞄に詰めればいつでも出発できる。
「シャワーを浴びたの?」
エマは私の髪がわずかに湿っているのに気づいたらしい。
「寝ているときに汗をかいたから」
「どうせ海を渡るときにまたべたべたになるわよ」
エマは重たそうに身体を起こしながら忌々しげに言う。
彼女の髪はきめが細かいから、海風にさらされると塩と湿気で大変なことになるのだ。
ジャムとビスケットで手早く朝食を済ませ、部屋を出る。
廊下はしんと静まりかえっていて、子供たちの気配はない。
屋敷はすっかり〈人喰い〉の恐怖に犯されているようだった。
気の毒だとは思う。
でも、私たちが〈人喰い〉に怯える人たちに死体を押しつけてそそくさと退散するのはいつものことだ。
今回だけいつも以上に気にかけるのも変な話だし、余計な心労だろう。
そう考えることにした。
広間ではジョセフが酒を飲んでいた。
彼にユリウス・オルソンの行方を聞くと、ジョセフは髭面を歪めてぶっきらぼうに「知らん」と言った。
どうやら昨晩からずっと姿がないらしい。
「もしかすると、あいつが〈人喰い〉だったのかもしれないな」
ジョセフは酒をジョッキに注ぎながら言う。
「あの男はお前たちが〈死体拾い〉だと知っていたんだろ。納屋に死体があるのにも気づけたんじゃないか。泣きべそをかいていた兄貴が町に助けを呼ぼうとしたのを説得したのもあいつだ。嵐が落ち着く前に逃げて、今頃はお前たちから受け取った弁当を食っているかもしれない」
辻褄は合っている。
でも、物的証拠は何もない。
「ジョセフさんは〈人喰い〉ではないのですか?」
ジョセフはこちらを見て鼻で笑った。
「さあな。お前はどうなんだ」
「やめておきましょう」
私は手を広げて降参をアピールする。
「ジョセフさんはいつ出発するんですか」
同じ舟に同席したら気まずいし、彼の身体の大きさは船の安全な運行に支障がありそうなので、一応聞いておく。
「しばらく屋敷に残るよう頼まれた」
「それは……もしかして、そういう依頼ですか?」
「ああ」
ジョセフはつまらなそうに頷く。
「仕事なら仕方ないだろう」
メアリはジョセフが〈人喰い〉である可能性を疑ってはいないのだろうか。
この屋敷に滞在している間、二人が一緒にいるところを何度か見かけたが、どのような信頼関係を築いたのかまでは私は把握していない。
孤児院の運営に男手が必要なのは事実だろう。
でも、ジョセフが子供の相手をしている様子は想像できない。
私はジョセフに手短に別れの挨拶を言う。
彼は不機嫌に鼻を鳴らすだけだった。
失礼な態度ではあったが、そのことを指摘するのはお門違いだ。
私の隣にいるエマは終始無言で、ジョセフに視線を向けることすらしなかった。
あんな大男でもエマよりは可愛げがある。
そう思うと少し面白くて、多少の不躾なんて簡単に許せた。
屋敷を出る前にメアリの挨拶に行くことにした。
彼女はいつものように厨房にいた。
鍋の前に立っているが、竈に火はついていない。
「お世話になりました」
メアリは私とエマに気づくとはっとした顔でこちらを振り返る。
「とんでもありません。こんなことになってしまって……何と申し上げたら良いか」
メアリは酷く憔悴しているように見えた。
〈人喰い〉が現れ、殺人まで起きた。
来訪者が全員いなくなっても、元の日常が戻るとは限らない。
「ルーシーはどこ?」
エマが聞いた。
「まだ自分の部屋で寝ているはずです。遅くまでトーマスの相手をしていたので……」
エマが私を横目に見る。
「私は昨日のうちにさよならをしたよ」
「そう。なら、起こすのも悪いかしらね」
友人への挨拶もなしに去るのは礼に欠けるが、エマが生きている人間に対して関心を見せるのは自体が珍しい。
彼女なりにルーシーのことを気にかけていたのかもしれない。
「女神の祝福がありますように」
メアリはそう言って、私とエマに頭を下げた。
さすがに本心からの祈りとは思えなかった。
読んでいただきありがとうございます。
次の更新は11月18日(土)ごろです。




