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空の向こう側が橙色に染まり始めたころ、隣町に到着した。
まだ夜と呼ぶにはずいぶんと早いが、ひっそりとしていた。
畑仕事をしている小作人や、走り回る子供の姿があっても不思議ではない時間だ。
道行く人たちの顔が強張って見えるのは、日常の異分子である棺桶のような黒い自動車を見てしまったから、というだけではなさそうだ。
これまでにも死体を必要とする町を訪れたことはあるが、どの町も例外なく流行病に侵されたかのように陰鬱で張りつめた空気を漂わせている。〈人喰い〉に怯える一般的な町の光景だ。
「これからお葬式でもするのかしら」
エマの口調はぼんやりとしていて、投げやりなものを感じた。
「君って葬式には興味がないの?」
「たいていのお葬式には死体がないもの」
「……まあ、そうだね」
貴族や資産家であれば死体を買い取れるが、一般市民はそうもいかない。
〈人喰い〉が現れるようになってから、たいていの葬式には死体が用意されず、代わりに遺品が埋葬される。
葬式のために髪や爪を生前残す人もいる。それらを死体と呼ぶことにエマが物足りなさを感じるのは理解できる。
「この町に〈人喰い〉はいるのかしら」
「夜が更けるころには分かるよ」
私は少し特別な感性を持っていて、自分の付近にいる〈人喰い〉の気配を感じ取れる。
「それまでここに滞在する?」
エマは首を横に振る。
「帰りましょう。宿に戻ってシャワーを浴びたいし、温かいワインが飲みたいの」
「さっき飲んだじゃないか」
少し残念に思う。エマの死体に対する関心ほどではないが、私は〈人喰い〉に興味がある。けれど、無理を言って町に残るほどのことでもない。
仮に〈人喰い〉に遭遇したとしたらいくらかの危険を伴う。
長生きをしたいのなら、雨の日には川に近づくべきではないし、日常的な飲酒は控えるべきだ。
*
町の広間で町長が私とエマを出迎える手はずになっている。広間に向かうと中年の女性と髪に白いものが混じった初老の男性がいた。
私は車を降りて、二人に声をかける。
「町長さんですか?」
私が聞くと、女性の方が「はい」と答えた。初老の男の方は秘書か何かだろう。
「教会の方ですね。お待ちしておりました」
秘書が私に言う。私は教会関係者ではないが、否定するとややこしくなるので頷いておく。
こういう顧客とのやり取りは、いつの間にかエマではなく私がするようになっていた。
エマよりも私の方が生きている人にいくらか親切にできる。適材適所というやつだろう。
エマはというと、車から降ろした革袋を持ってぼんやりと遠くを見ていた。
視線の先には鴨の群が飛んでいる。
彼女は鴨なんてものに興味はないだろうから、空というスケッチブックに死体の絵を描いているのかもしれない。要するに上の空だった。
「早速ですが」
町長が意を決したように言った。
「これから向かう場所に……を設置しようと考えています。ご確認願えますか?」
町長は『餌』や『死体』という類の言葉を口にするのを躊躇っただろうが、わざわざ聞き返すような野暮はしない。
人間の死体を〈人喰い〉に食わせることに抵抗を覚える人は少なくない。
町長は人が良く、気弱そうでもあった。
頻繁に髪に触れ、周りの様子を気にするように視線を動かす様子からは、責任感というよりは不安や心配の色が感じられる。権力にこだわる人柄には見えない。
もしかすると、周囲から押しつけられるように町長になったのかもしれない。
小さな町ではときどきあることだ。
町長たちの後ろに続き、数分歩く。街灯のない路地に着いた。
周囲を建物に囲まれていて、通りから人目につくことはないが、〈人喰い〉の鼻は死臭に対し敏感だ。見逃すことはない。
夜が更けたころ、彼らは安心してここで食事ができるはずだ。
「どう……でしょうか?」
「良いと思いますよ」
この町の町長は『物分かりが良い人』なのだろう。
返事をしながらそう思った。
死体を目立つ場所に置こうとする人たちもいる。
彼らは〈人喰い〉が誰であるか特定したいのだ。だから、見通しの良い場所に餌を置き、高台に監視役を立てる。
全く意味がない。
〈人喰い〉は『特別な方法』でなければ殺すことができないのだから。
そして、その『特別な方法』は教会が独占している。『騎士』と呼ばれる彼らは教会の指示で各地を巡り〈人喰い〉を討伐している。
つまるところ、人々は教会の庇護がなければいつまでも〈人喰い〉に怯え続けることになる。
本当に酷い商売だ。
だが、文句を言う人は少ない。死体を管理しているのも教会からだ。
文句を言って、死体の供給が途絶えたら〈人喰い〉の餌となるのは自分たちかもしれない。
「君はどう思う?」
エマに小声で聞く。彼女は〈死体拾い〉で〈人喰い〉の専門家ではないが、死体の専門家ではある。
「とてもいい場所だわ」
エマは満足そうに頷いた。
「上を見て。今の時期なら、建物のあの辺りから月が昇るわ。建物の隙間からアンナの肌を美しく照らすでしょうね」
町長と秘書が怪訝な顔をしていたので、「天文学的に考えても良いということです」と私が補足を入れておく。彼らはそれで一応納得してくれたようだった。
……私がいなかったころ、エマはどうやって仕事をしていたのだろう。
不安に似た疑問を覚える。
もちろん余計なお世話であることは理解している。私の旅にエマは必要だが、エマの旅に私は必要ない。
エマは素敵な死体と出会うことを求めているだけで、良い死体商人を目指しているわけではないのだ。
「アンナというのは、あの……」
「はい。少し前、大きく報道されましたね」
「そんな。信心深い信徒がどうして……」
秘書が目配せをし、町長が口を噤んだ。教会に対する不満は御法度だ。一応、私たちは『教会関係者』ということになっている。
エマから革袋を受け取り、敷物を地面に敷く。革袋の口を開け、敷物の上に死体を並べる。
袋の中身はそれぞれ頭と右足だった。
アンナの表情は私の記憶にこびりついたものと変わらない。眼球にはまだ艶があり、頬の筋肉からは弾力が感じられた。
「ひ」
町長が声にならない悲鳴を上げ、後ろに後ずさる。
倒れそうになったところを秘書が支えた。
「こ、この人は、なんで……? どうして、死んだの?」
町長が訴えるように聞いた。本当は文句を言いたかったのかもしれないが、教会から届いた死体に抗議することは許されていない。
目を背けたくなるような無惨な殺され方をした幼い子供の死体であったとしても、町はそれを女神の加護として受け入れなければならない。
「彼女は夫にナイフで胸を刺されて殺されたわ。新聞に書いてあった通りよ」
エマの口調は淡々としたもので、温度というものがない。
「親切で優しい人だった。これも新聞に書いてあったかしら」
町長と秘書が顔を見合わせる。
二人はひきつった顔に困惑と不安を表現しようと必死だった。
けれど、結局のところ「そうでしたか」と言って頷いた。
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次の更新は12月20日ごろです。