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廊下に人の気配を感じた。
反射的にメモを破り捨て、暖炉に紙を投げ入れる。
普段、絵を捨てるようなことはしない。
でも、今描いた少女の絵は誰にも見られたくなかった。
広間に入ってきたのはいかにも優男という顔つきの眼鏡の青年だった。
私は青年に会釈をする。
少し後悔した。
エマに私のジャガイモを全部差し出してでもこの場に残ってもらうべきだったかもしれない。
「兄が失礼したみたいだ」
兄、という単語を聞いて気づいたが、先ほどの顎髭の男と青年はどことなく顔つきが似ていた。
「失礼というほどでもないですよ」
私は笑みを浮かべながら少し警戒する。
人は威圧的な態度を取られたあとに穏和な対応をされると、気を緩めやすいものなのだ。
私は信仰に厚い教会関係者ほど祈り以外で金貨を産む商人を憎んではいないが、信用し過ぎるべきではないというところには同感を覚えている。
「兄は人に会えば失礼を働く生き物なんだ」
眼鏡の青年はそう言って頭を下げた。
本当に失礼はなかったのだが、私の中の警戒心が言葉に棘を作っていたのかもしれない。
「商人としての腕は確かなのだけど」
「この辺りで町でお店をやっているのですか?」
「いや、今は僕も兄も行商だ」
「旅の商人の方にしてはずいぶんと、その……身なりがいいですね」
「親の七光りだよ」
男は苦笑いを浮かべる。
「僕はユリウス・オルソン。兄はアランだ。オルソンは知ってるだろう? 悪名高い、あのオルソン商会だ」
何と返事したら良いのか分からなくて、苦笑いを返す。
オルソンは〈海の中の丘〉に高額で燃料を売りつけている商会で、この辺りに強い影響力がある……というのは私の耳にも入っている。
私が買ったジャガイモの入った木箱にもオルソン商会の刻印があったかもしれない。
そんな商会の息子二人がどうしてこんなところにいるのだろうか。
「私はケイト、連れはエマです。お兄さんから私たちのことは聞いていますか?」
「ああ、二人組の〈死体拾い〉の女の子だってね。珍しいよ」
「ええ。でも、私はただの手伝いです」
「手伝いか。それも変わっているね」
「よく言われます」
ユリウスは曖昧な顔をし、眉間に眉を寄せた。
「若いのに、苦労している」
彼は私とエマを可哀想に思ったのだろう。
私たちの境遇にそういう感情を抱く人は少なくない。
でも、彼の同情はお門違いだ。
エマほど〈死体拾い〉に相応しく、私ほど〈死体拾い〉と共に行動するのが相応しい間抜けもいない。
けれど、訂正するのも面倒なので指摘しないでおく。
「僕と兄は父に命じられてしばらく旅しているんだ。商会を起こした曾祖父が叩き上げの商人だったせいか、オルソン家の男子は成人したあと数年、行商で経験を積むことになっている」
「お兄さんと一緒に、ですか?」
「今回はね。いつも一緒じゃない。協力することもあれば競合することもある」
どちらでもぶつかってばかりなのは変わらない、とユリウスは苦く笑う。
「今は蝋とか木炭とか、固形燃料の仕入れで協力している。それを〈海の中の丘〉の周辺に売るんだ。船を使ってね」
「船は強力な武器ですね」
鉄道が通っている場所ならともかくとして、陸路での移動は水路の何十倍もかかるのが普通だ。
船を使えば大陸の端から端まで一ヶ月で行けるが、荷馬車の移動ではせいぜい都市一つ分しか移動できない。
ユリウスは深くため息をついた。
「本当に酷い商売だよ」
「儲からないんですか?」
「儲かるよ、すごく。儲け過ぎなくらいだ。でも、儲けすぎは良くない。君たちならそれはよく分かるだろう」
ええ、と私は感情を込めずに同意する。
〈死体拾い〉の商売のせいで困窮している人たちがいる。
彼らは目の前の驚異のために将来の蓄えを吐き出し、死体を買う。
いつか彼らは冬を越せず、飢えて死ぬのだろう。
それは寿命を削っているのと同義だ。
「商売というのは、余っているところから足りているところに物を運んで成り立つ。それに文句を言うつもりはないよ。必要な仕事だから」
でもね、とユリウスは顔を険しくする。
「この辺りの商売はオルソンが独占している。僕たち以外に、大量に燃料を仕入れて小麦を運ぶ体力を持った商会はない」
そもそも「商会」と呼ばれるような商業組合が珍しい。
教会が自分たち以外の組織形態を嫌っているからだ。
教会から異端の烙印を押されてしまえば、その組織は悪魔の手先、異教徒の集団として扱われる。
きっと、オルソンには教会を黙らせるだけの力があるのだろう。
「兄は、北では燃料の生産地に小麦を高く売りつけ、燃料を安く仕入れるんだ。でも、こっちの方では燃料が足りない。だから、燃料を高く売りつける。その代わり、小麦を安く買う。兄の商売がないと彼らは生きていけない。だから言いなりだ」
彼らが町から離れたこの屋敷に宿泊している理由を理解した。
「まるで〈死体拾い〉ですね」
「どちらかというと〈人喰い〉だ」
ユリウスは短く息を吐く。
本当は舌打ちをしたかったのかもしれない。
そんな苛立ちに支配された表情だった。
「君は……死体を売って心が痛まないのかい」
「可哀想だとは思います」
私はできるだけ感情を込めずに言った。
「でも、私は今日を生きるのに必死です。手を差し伸ばそうとは思いません」
ユリウスの嘆きは理解できる。
でも、共感はできない。
誰かが損をして、誰かが得をする。
オオカミにウサギを食べるのを止めろと言っても、彼らが耳を貸すことはない。
世界というのはそういうものなのだ。
目の前にいる可哀想な人一人を助けたところで何も変わらない。
「そういったことは、余裕がある人がやるべきことです」
ユリウスの顔から急に表情がなくなる。
「そうだね。その通りだ」
けれど、すぐにユリウスの顔には優しげな笑みが浮かんだ。
「雨が止んでもすぐには波が収まらないだろう。しばらくの間、迎えの船は来ない。僕と兄はここに滞在することになる……よろしく頼むよ」
優男の商人は立ち去った。
私は再び暖炉の炎に視線を向け、ほっと短く息を吐く。
ゆらゆらと不規則に揺れる炎を見ていると不思議と心が安らいだ。
隣にエマがいればもっと良かったのに。
でも、彼女は私の心の傷を感じ取ってくれるほど『生きている私』に関心がない。
目をつぶると、男の大きな身体が自分に覆い被さるのを思い出してしまう。
あの男は、私とエマが協力してバラバラに解体した。
そのはずなのに、まだ私の頭の中にはあのときの強烈なイメージがこびりついている。
早くこの土地から去りたい。
私とエマも、数日はこの屋敷に泊まることになるだろう。
嵐が過ぎ、波が収まらないと船が出ない。
死体の到着が遅れたことにより、何人かの人が〈人喰い〉の犠牲になるかもしれない。
私とエマにはどうすることもできない。
それに、今の私は他人の不幸なんてどうでも良かった。
読んでいただきありがとうございます。
次の更新は9月12日(火)ごろです。




