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コツコツと靴が床を叩く音が遠くから近づいてきた。
人の気配に顔を上げる。
広間に入ってきたのは顎髭を綺麗に整えた二十代前半の男で、目にねっとりとした活力が満ちている。私が苦手とする人種だ。
呼吸を整えるため、静かに深呼吸をする。
胸を圧迫されるような息苦しさがあったが、平静を装って「こんにちは」と声をかける。
男は値踏みをするように私とエマを見ていた。
「お前たちも足止めを食ったのか?」
メアリは商人が泊っていると言っていた。
行商にしてはずいぶんと身なりが良い。
「そちらも?」
「まあな」
男は顔をしかめた。
「〈海の中の町〉で商談があった。今日中に戻る予定だったが、海が荒れているせいで迎えの船が来ない。痛い損失だ」
口振りから察するに、やはり男は商人なのだろう。
船を使って商売をできるような人は限られている。
大きな商会に所属しているのかもしれない。
「町に出た〈人喰い〉の噂は知ってるか?」
「ええ、まあ」
私は言葉を濁す。
「怖いですよね」
男は鼻を鳴らす。
「迷惑な話ではあるな。でも、〈人喰い〉なんてどこにでもいるものだ。気にしていたら商売なんてできない」
男の言う通りで、〈人喰い〉はどこにでもいる。
でも普通、気にしないのは難しい。
〈人喰い〉は強靱な肉体と高い不死性を持つ人間の天敵だ。
敬虔な信徒が、女神を意識せずに一日を送ることができないように、人は本能で〈人喰い〉に恐怖する。
もし、〈人喰い〉を恐れない人がいるとしたら、その人は愚か者かよほどの自信家だろう。
「ところで、興味本位で聞くんだが何を運んでいるんだ? ずいぶん大きな荷物を運んでただろう」
客観的に見て、私たちはとても怪しい。
十代の少女の持ち物として異界の遺物は不自然だ。
暇潰しだとしても、探りを入れたくなる気持ちは分からなくもない。
私はエマの方を横目で見る。
「豚の心臓よ」
エマはぼんやりとした表情のまま、抑揚のない口調でそう言った。
男は露骨に顔をしかめ、舌打ちをして広間を出て行った。
『豚の心臓』は死体を意味する隠語だ。
エマは最初から最後まで誰もを聞いていなかったかのように、暖炉の中で揺れる炎を眺めていた。
もしかすると、本当は話を聞いていなくて、あの男が部屋に入ってきたことにも気づいていなかったのかもしれない。
そう思わせるほどの平静さだった。
私は短く息を吐く。
何も有益な情報は得られなかったが、あのまま話を続けていても息が詰まっていただろう。
エマを連れて来て正解だった。
木の棒でジャガイモを転がし、火の当たる向きを変える。
ちょうどいい頃合いだ。
包み紙を剥がし、ナイフでジャガイモを十字に切る。
その上に削ったチーズを乗せれば完成だ。
読んでいただきありがとうございます。
次の更新は9月2日(土)ごろです。→私用のため9月3日(日)ごろに更新に変更します。




