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「しばらく天気の良い日が続くでしょう」
昨晩のラジオで、天気予報を読み上げたパーソナリティはそう言っていた。
そのはずだ。
でも、私とエマが〈海の中の丘〉の町を出て海岸線沿いの道を歩いていると、少しずつ天気は悪くなっていった。
空はくすんだ灰色に変わり徐々に風が強まり、雨も降り始めている。
海はすっかり荒れていて、青黒い水の塊が人を飲み込む怪物のようにうねっていた。
世界が嵐に飲み込まれようとしている。
「ラジオって嘘ばっかりよね」
エマは恨めしそうに海を睨む。
「そんなこと分かりきっているのに、どうして信じてしまったのかしら」
天気の予測は難しい。
予報が間違うのは仕方のないことだけど、それを庇う気持ちにはなれない。
「ラジオって、神父と似てるかもしれない」
「どんなところが?」
「確信のないことを、自信満々に言うところ」
ラジオの放送は建前上、民間が行っていることになってはいる。
でも、教会の強い影響を受けているのは疑いようのない事実だ。
ラジオが異教徒の起こした事件を大げさに語ることはあっても、教会の不祥事を取り上げることはない。
もしかすると、音楽や小さな恋の悩みの代わりに、神父の説法が電波に乗る日がそう遠くない未来に訪れるのかもしれない。
そのときは世界の終わりだ。
「みんな死んでしまえばいいのよ。死体は嘘をつかないもの」
「そうかもしれない。哲学だね」
もしくはテロリズムだ。
船着き場の様子を見ても、人の姿はなかった。
荒れた海の上で、木の葉のように踊っている船が数隻あるだけだ。
船頭が不在のときは勝手に船を使って良いことになっている。
でも、私たちは命をかけるほど急いでいるわけでもない。
「そもそも、こんな不便なところに町があるがいけないのよ」
エマは潮風に煽られる髪を苛立たしげに両手で押さえる。
「船がないと出入りできないなんて意味不明だわ」
「ここって元々は貴族の土地だったらしいよ」
「どこで聞いたの。ラジオ?」
「教会にいた人から」
「男の人? それとも女の人?」
「それって重要なの?」
私は少し笑う。
「女の人だよ。息子が三人いる。雑貨屋をしていて、父親は教師をしていた。教会関係者ではないよ」
エマは形の良い鼻を鳴らす。
「そう。ずいぶんと仲良くなったのね」
そんなことないよ、と返事をしながら私はその女の人から聞いた話をエマに伝える。
「〈海の中の丘〉は海に囲まれて、攻め入りづらい。自然の要塞だ。実際、ここを治めていた貴族は町を拠点に周辺を支配していたみたい。船を使った戦争が上手かったらしくて、この辺りの海を独占していたらしい」
「その貴族って今はどうしているのかしら」
「もういないよ。身内から〈人喰い〉が出て、評判を落としたんだ」
よく聞く話だ。
名声を失った貴族の代わりに人々を支配したのは教会による女神の信仰だった。
要塞都市だったのは昔の話で、今となっては交通の便の悪い孤立した場所だ。
人々は農業に適さない土地にかじりつき、漁業を生業にしてなんとか生きながらえている。
それでもこの辺りでは最も栄えている町なのだろう。
人口が多いし、教会や商会、学校といった施設が充実している。
それらを引き払って、今更別の土地に新しく町を作るのは気が引けるのかもしれない。
強い潮風が私とエマを襲う。
水分を含んだ風のせいで、着ている服が湿って寒かった。
「町に引き返す?」
私の頭の中に、エマの袖を掴んだ幼い女の子と、その母親の姿が浮かんだ。
私たちが背負う革袋には、強盗に襲われて死んだ男のバラバラ死体が詰まっている。
完全なとばっちりではあるが、彼女たちは私たちのことをまだ恨んでいるだろう。
つい先日、「地獄に落ちろ」と言われた相手と顔を合わせる可能性は、少しでも減らしておきたい。
人から向けられる敵意や悪意は、ナイフよりも鋭く内臓を抉るのだ。
エマは眉を寄せて首を振る。
「やめておいた方がいいわ。〈死体拾い〉ってこと隠してあの宿に泊まっていたし……それにあの親子に見つかりたくないから」
私はエマの顔をまじまじと見てしまった。
「意外。君にも気まずいって感じることがあるんだ」
「どういうこと? なんで私が気まずくならないといけないの」
全然違ったらしい。
「私は死体を奪われる心配をしているのよ」
「〈人喰い〉は虚言って話じゃなかったっけ」
「死体が欲しいのは〈人喰い〉だけではないわ」
私はエマの言っていることを理解する。
エマはあの母子が死体を奪いに来ることを警戒しているのだ。
確かに、あの女たちからはそういった種類の迫力を感じた。
死体の盗みは放火や殺人に並ぶ重罪だ。
でも、人の心を惑わすだけの価値がある。
それに『人間だったもの』にお金以上の感情を死体に向ける人は少なくない。
あの中年男の家族は、きっとそういう人種だろう。
酷くやるせない気持ちになる。
私はあの男の妻と子供への裏切りを知っている。
あの汚らしい男が「人格者」と評され、妻と子供から慕われているのは不可解であり、不愉快だった。
あのとき、あの子供にそっと耳打ちしてやれば良かった。
お前の父親は人格者などではなく色欲にまみれた卑しい男で、内臓の色は汚らしい灰色だった、と。
「ケイト、聞いてる?」
エマが私の肩を指の先で突いた。
「ん、どうしたの」
「ぼんやりしていると波にさらわれてしまうわよ」
波が打ちつける岩場は私から十歩以上離れている。
さすがに海に落ちるような心配をする距離ではないが、エマにそう言われてしまうほど私は心有らずに見えたらしい。
「ここから少し歩くけど、岬の方に教会が支援している孤児院があるの。そこを頼りましょうって言ったの」
エマが指差す方を見る。
針葉樹の林が広がっていて、建物らしきものは何も見えない。
でも、エマがあるというからあるのだろう。
「そこって泊まらせてもらえるのかな」
「どうかしらね。信心次第だと思う」
「絶望的じゃないか」
自慢ではないが、私は形式以上の信仰を示せないし、エマはそういうものから最も遠い場所にいる。
「大丈夫、先方の問題だから。正しい信徒は迷える子羊に親切なものよ」
「子羊なら、そうかもね」
死体に群がる私たちを何かに例えるならネズミかカラスだろう。
でも、エマの言う通り、修道院のマザーが信心深ければいい話だ。
信心深い人なら、血と腐肉の匂いを漂わせる私たちに軒先くらいは貸してくれるかもしれない。




