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あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。
目を閉じれば、凄惨な光景がまぶたの裏に鮮明に蘇る。
忘れることなんてできない。
きっと魂に刻まれた記憶、もしくは呪いなのだろう。
秋の夕日に赤く照らされた部屋。むせ返るような濃い血の臭い。
そして、死体。
その世界の中心に立っていたのが姉だった。
朽ち木のように佇む彼女の手には、カッターナイフがしっかり握られていた。
全身に血を浴び、殺人者に変わり果てた姉は私に向かって微笑む。
――おかえり。
私は「ただいま」と返事した。
恐怖と困惑のせいで声が震えていたが、冷静に振る舞うように努めた。
私が姉とこうして顔を合わせて言葉を交わすのは酷く久しぶりのことだった。彼女は部屋に閉じこもり、世界を拒絶してしまっていたから。
姉は少し痩せていたが、私が知っている美しく儚げな女性のままだった。
――どうして。
私は彼女に訴える。
死体は母だった。
首に沿って真っ直ぐ走る赤黒い大きな線は、致命的で取り返しがつかないものであることを容易く私に理解させた。
母は優しかった。
私たちが家に帰るといつも温かい料理を用意してくれた。
困ったことがあると、私たちが口を開くまで辛抱強く待ってくれた。
近所付き合いもそつなくこなし、向かいの家に住む老夫婦の様子を気にし、買い物や掃除を手伝うこともあった。
町内会の催しにも参加し、迷子の子供を探すために歩き回ることもした。
もちろん母にも厳しいところもあった。
人に迷惑をかけたら私と姉のことを叱ったし、学校の成績には敏感に反応した。
でも、人に理不尽を押しつけることはしなかった。
母は『母親』として完成されていた。
優しい人だった。いい人だった。
欠けているところなんて見当たらず、むしろ多すぎるくらいだ。
姉が世界を拒絶するようになってからも、母は優しかった。
姉を責めることは一度もなく、「あなたなら大丈夫」と優しく言葉をかけた。
『引きこもりを持つ家庭』という周囲からの奇異の視線を物ともせず、「片親が原因よね」という心ない言葉にも屈しなかった。
毎朝、仕事に出る前に姉の部屋の前に立ち、ドアに手を当て「行って来るわ」と言葉をかけた。
仕事から帰ると同じようにドアの前で「ただいま」と優しく微笑んだ。
それなのに、どうして……。
――分からない。
姉は首を振り、微笑む。
酷く空虚な笑みで、私の知っている穏やかな姉の性格からは想像のできない冷たさがあった。
――でも、不思議。ほっとしてるの。
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次の更新は11月29日ごろです。