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三○一号室のドアは半開きの状態だった。
私とエマは中に入り、短い廊下を通過する。木質の床は外気に触れたせいかよく冷やされていて、体重を乗せるとわずかにきしんだ。
リビングにはテーブルが一つと椅子が二つ並べられていた。
朝食時だったのだろうか。テーブルには紅茶が注がれたカップとパンが二人分あった。
それ以外の家具と呼べるものは本棚だけだ。
本棚には著名な古典小説が並んでいて、商売や物流に関するものと思われる専門書も多く見られた。
大人が両手を広げたくらいの幅の本棚だが、蔵書は充実している。恋愛小説やミステリーのような娯楽小説の類はない。
一番手が伸ばしやすい目線の高さのところに聖書の背表紙があった。手に取ると随分くたびれていて、使い込まれているように感じた。
この部屋の住人は敬虔な信徒なのかもしれない。
部屋は簡素であるもののよく手入れされていて、小さな図書館を連想させるような落ち着きがあった。
けれど、床の上で仰向けに転がる女の死体、赤黒くにじんだ白いセーター、床に無造作に投げ捨てられたナイフのせいで、今となってはありふれた殺人現場となっていた。
朝食を用意し、同居人を部屋に呼びに言ったところを……という状況だろうか。
長い髪が顔を覆っているせいで死体の表情は分からない。
「浮気されたんだってね。このアンナって人」
私は先ほどの老婆の言葉を思い出しながら言った。死体に対する嫌悪感を別の嫌悪感で上書きする計画だったが、あの老婆の顔を思い出して腹が立っただけだった。
「浮気された上に殺されたなんて、いたたまれないわ」
エマは少しもいたたまれる様子のない口調で言う。
彼女は床に膝をつき、アンナの身体に触れる。生まれたばかりの子犬の頭を撫でるような優しい手つきだ。
「状態はいいわ。今朝死んだばかりなのね。気のせいかもしれないけれど、まだかすかに体温を感じるの。死後硬直も始まったばかりよ……。死んでからすぐに通報があったのかしら」
エマは死体の顔を覆っていた髪をすく。女性の死に顔が露わになった。
「あ」
普段死体を見て驚くことのないエマが短い悲鳴を上げる。
現れたのは恐ろしい顔だった。
唇はめくれ、白い歯が剥き出しになっている。頬の肉は波打ち、鼻は風船のように膨らんでいた。瞼が大きく開かれ眼球は血走っていて、ひび割れたガラス玉のようだった。
――夕日に赤く照らされた部屋。
――濃い血の臭い。
――朽ち木のような少女。
――カッターナイフ。
――そして、女の死体。
頭の中で、切れかけの蛍光灯のように、記憶が点滅する。砂を噛むような不快感が全身を襲った。
「ケイト、大丈夫?」
エマが私の顔を伺っていた。心配そう……ではなかった。いつもの無機質な無表情だ。
でも、私は単純な精神構造をしているから、エマが気にかけてくれる事実だけでも嬉しく思ってしまう。
「大丈夫」
呼吸を整え、かろうじて返事する。
無数の蛆が這うように、背筋を汗が伝っていた。身震いし、それを振り落とそうとするが嫌悪感は消えてくれない。
「ケイトが驚くのも無理ないわ。惨いもの。地獄のようね」
エマが囁くように呟いた。
「衛兵がいたのに〈死体拾い〉を呼んだ理由が分かったわ。彼女に触れたくなかったのでしょうね。なんだか呪われそうだもの」
常日頃から周囲を威圧している衛兵だが、支給された武器や防具の手入れは自費で、体力を使う仕事だから食べる量も多い。
下っ端の衛兵が駆け出しの商人よりも懐に余裕がないのは周知の事実だ。
死体の権利を衛兵が主張することはそう珍しいことでもない。
「今晩見る夢が決まったよ」
私は歯を食いしばり、軽口を叩く努力をする。
「こういう顔の女に襲われる。きっとそういう呪いだ」
「私、死体の夢を見たことがないの。どうしてかしら?」
「信心深さの違いじゃないかな。悪魔は信心深い人の魂が好みらしいから」
適当に言ったつもりだったが、エマは妙に納得したらしく、何度も頷いていた。
「死体の夢が見られるなら信心深くなるのも悪くないかもしれない。今晩から寝る前にお祈りするようにしてみるわ」
エマの信仰心は安宿の敷物よりも薄く、銅貨一枚で買える林檎酒よりも味気ない。彼女の祈りはきっと三晩も続かないだろう。
「ここで袋にしてしまいましょうか」
エマは防水布を床に敷き、その上に解体用の道具を並べる。特別製のナイフと死体を入れるための革袋だ。
人をそのまま運ぶより、いくつかの革袋に分けて入れた方が運びやすい。
子供でも理解できる理屈だが、私の反応は鈍かった。
エマから切断された女の右腕を受け取って、ようやく自分が〈死体拾い〉の手伝いのためにここにいることを思い出す。
エマは四肢を切り分けると、魚の皮引きのように手際良く服を剥ぎ、死体の腹を裂く。
私はその様子をぼんやりと眺める。
どうにも頭の働きが悪い。脳が麻痺しているようだった。
きっとあの顔のせいだろう。
アンナの死体には必要以上に痛めつけようとした痕跡はなかった。『遊んだ』痕跡もない。外傷は命を奪うためにつけられた首の傷だけだ。
それにも関わらず、顔が酷く歪んでいる。
「彼女の頭を剥製にして保存できないかしら。ホルマリン漬けでもいいわ」
エマはアンナの顔をいたく気に入ったらしく、目を細めて短くため息をついた。
銀色の〈死体拾い〉の心情を正確に理解するのは常人である私には難しい。けれど、今回ばかりは理解できないことを幸運に思う。
「でも、買い取る余裕はなんてないし……初めから頭がなかったことにするのは、無理があるわよね」
「こういう死に顔は珍しいの?」
「全ての死体を記録したわけではないから分からないけど」
エマはそれが残念で仕方がないとでもいうように首を振る。
「普通の殺人事件で見たことはなかったわ。拷問されたり、目の前で自分の子供や恋人を殺された人ならともかく、ね」
そう、と私は短く返す。
「彼女はどういう最期を迎えたのかしら……」
私は革袋の口を縛りながら、何気ない口調で返事する。
「きっと酷い裏切りを受けたんだろう」
母がそうだった。姉に殺された母の死に顔も、こんなふうだったのだ。
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次の更新は11月22日ごろです。