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「男の方はとても状態がいいわ。女の人の方は……顔は残念なことになってしまったけど、他の状態はいいわ」
エマは考古学的な価値のある古い絵画に付着した汚れを無念がるように、崩壊した女の顔に目を落とした。
「色白、栗色の髪、中肉中背、首筋の痣、目の下の泣き黒子……は分からないけど、女の人の方はリストにあった行方不明者の特徴と一致する」
エマの日課は新聞の訃報と行方不明者リストを熟読することだ。
彼女は日々、死体や死体になりそうな人たちの情報を収集している。
「オリビア・グラシア。グラシア家の長女ね。ポケットにグラシア家の紋章が入ったハンカチが入っていたから間違いなさそう」
「グラシアって……〈午後の塔〉の塔を建てた、あの?」
「ええ、秘密裏に連れ戻して欲しいって。ケイトはグラシア家のこと知ってる?」
「少しは知ってるよ。貴族でしょ。領民からの評判は良くも悪くもない」
つまり、一般的な貴族ということだ。
「逃げ出したのかな。でも、どうして?」
市民に紛れて暮らすより、貴族として生きた方が安全であるし、飢えて死ぬ心配をすることもない。
何か大きな理由がない限り、身分を捨てようとは思わないはずだ。
「結婚を反対されて、両親と折り合いが悪いって噂だけど、詳しいことは知らない」
「男の方は?」
「行方不明者リストにはそれらしい人はいないわ」
エマは顎に手を当て、二つの死体をしげしげと見る。
そして、長年の研究成果が記された論文に目を通すような神妙な面持ちで、「これは駆け落ちというものかしら」と首を捻った。
「どうだろう」
『若い男女の死体』から連想するものとして、ありきたりかもしれない。
でも、自然な発想だ。
固く握られた二人の手は、私の目にも印象的に映った。
「だとしたら、自殺……かしらね」
死体をエマがぽつりと言った。
私は先週、描いた女性のことを頭に思い浮かべる。
私と彼女は他愛のない話をした。彼女の心情を今から察することはできない。
でも、「死にたい」という気持ちを持たないまま一生を終える人間が世界に存在するとも思えなかった。
昨日まで元気そうに見えた人が、何の前ぶれもなく死んだ。
それは特別珍しい話ではない。
けれど、自由を持て余し、コーヒーをすすっていたあの美しい貴女と『自殺』という暗く重苦しい単語が、どうにも私の中で結びつかなかった。
「もしかしたら薫製作りに失敗しただけかもしれない」
「薫製?」
エマが怪訝な顔をしたので、私は暖炉を指差す。
暖炉には薪が燃やされた痕跡があった。
雨漏りや隙間風を感じることはないが、部屋は冷え切っている。
暖炉があれば使うだろう。
テーブルにはコップが二つあった。
二人はベッドに入る前にここでお茶をし、目覚めることのない眠りについたのかもしれない。
「閉め切った場所で火を焚くと煙から猛毒が発生する。ときどき、暖炉が原因で死人が出ることがあるだろう。この二人もそうやって死んだんじゃないかって考えたんだ」
私とエマが入るとき、空気の入れ替えがされているはずだから大丈夫だとは思うが、彼らはその毒を吸って死んだのかもしれない。
「ええ、そういう死体を見たことはあるわ。外傷がなくて、嘔吐の痕跡はあっても胃の内容物から毒物が検出されないの。だから、死体としてはとても綺麗ね」
エマは鈴が鳴るような口調で話す。
そうなんだ、と私は適当に相槌を打った。
「でも……もし煙の毒による自殺なら、ずいぶんと手の込んだ自殺の仕方じゃないかしら」
「そりゃね。手間がかかるし、煙のせいで酷く苦しい。痛みなく楽に死ねる方法って言われることもあるけど、実際はそうでもないみたいだ。だから、煙の毒で死んだとしても事故なんじゃないかな」
エマの赤い瞳が私のことをまじまじと見ていた。
「ケイトは自殺に詳しいの?」
「知識としてそれなり。実践の経験はないよ」
あらそう、とエマは残念そうに言った。本来は怒るべきところかもしれないが、いつものことなので気にしないでおく。
「自殺するなら、やっぱり首吊りなのかしらね」
エマはぽつりと言った。その呟きは陰鬱とした小屋の中で、不思議と印象的に響いた。
「君が自殺するなら首吊りなの?」
「予定はないわ。有識者のケイトは、首吊りをどう思っているの?」
「どうも思ってないよ。自殺は全部下らない」
「私はそうは思わない」エマは目を細める。「自分の手で人生を終わらせるなんて、とても人間的な行動でしょう」
自殺について、エマと徹底的な議論する気は起きなかった。
だから、「かもね」と適当な相槌を打っておく。
私とエマの死生観は、夏の紫陽花、冬のシクラメンと同じくらいには隣り合わない。
もし、全くの第三者が私たちを比較したら、どちらも悲観的な人間だと評価するかもしれないが、私はエマほどは死というものに対して前向きな考えを持っていない。
だから、考えてしまう。
この二人は、本当に自殺なのだろうか……と。
私にとって、自殺は救いなどではないし、自らの手で行う人生の締めくくりでもない。
死体に外傷らしいものはない。
女の顔は悲惨だが、ベッドのシーツについている血が少ないことから損傷は死後つけられたものだろう。
駆け落ちした上で自ら死を選んだ。
もし、そうだとするなら、釈然としない。
この男女は何に絶望したのだろう。
困難であったとしても、自由で幸せな未来というものに二人は想いを馳せることはしなかったのだろうか。
彼女たちが何かを成し得たから死を選んだのなら、いったい何を成したのだろう。
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次の更新は3月30日(木)もしくは3月31日(金)です。




