7
三十分ほど歩いただろうか。木造の人工建造物を見つけた。
「小屋って聞いていたから、物置みたいなものを想像していたけど……それなりに立派ね」
今晩泊まる宿を品定めするような口調でエマが言った。
森の少し開けた場所にあるのは、小さくはあるけれど二階建ての家だ。
何を育てているのかは分からないが、簡易的な畑もあった。
薬草採りの住処だろうか。
もしかすると、ここが「アデライン」と呼ばれている魔女の家だったのかもしれない。
「もしかすると、通報した猟師は落ちぶれた貴族なのかもしれない」
これが『小屋』なのであれば、たいていの家を『小屋』と呼ばなければならなくなる。
言伝が繰り返された末に物事の表現が変異していしまうのはよくある話で、いちいち目くじらを立てることでもない。
回収する死体が二人ではなく二十人でした……なんて事態になったら、さすがに文句を言いたくなるけれど。
ドアを押すと、木の皮を剥がすような嫌な音が響いた。
立て付けが悪いというより壊れていると表現した方が正しい。
あまり家を大事にする家主ではなかったのかもしれない。
死体の在り処は探すまでもなくすぐに見つかった。
部屋を入ってすぐのところのベッドの上に、男女が並んで横たわっていたのだ。
二人はお互いの手を握り合っている。
二十歳前後くらいだろうか。
黒い髪の青年は眠るように目を閉じている。
枕元には短剣があった。
柄や鞘に傷が多く、使い込まれていることが伺える。
エマは床に膝をつき、青年の頬を指先で撫でる。
薄暗い室内で、真紅の瞳が爛々と輝いていた。
「穏やかね。自分が死んだことに気づいていないみたい」
部屋に漂う死臭と糞便臭がなければ、彼が死体であることを疑ったかもしれない。
死後数日が経ち、緩んだ肛門から汚物が流れ出てしまったのだろう。
中は外から見たよりも気密性が高いようで、臭いがこもっていた。
私もエマに倣って膝を着く。
ウェーブのかかった茶髪の女性の方の表情は分からない。
顔の大半が酷く損傷していた。『食べられた痕』だ。
「……〈人喰い〉かな」
私は警戒心を一段階高める。
日中に活動する〈人喰い〉は多くはないが、全くのゼロではない。
「それにしてはずいぶんと食べ残されているし、顔以外に損傷がないわ。どこからか忍び込んだネズミかイタチの仕業ではないかしら」
顔の一部分だけを食べる『偏食』で『小食』の〈人喰い〉がいても不思議ではない。
でも、エマの言うように小動物にかじられたと考える方が自然かもしれない。
損傷は口の周りや鼻など肉が柔らかくかじりやすい部分に集中していた。
女性の方だけかじられているのは、香水や化粧に含まれる成分が小動物の食欲を刺激したからだろうか。
損傷は下唇のところで止まっていて、白い歯と変色してくすんだ歯茎が露わになっている。
「夜まで待てばはっきりするかもよ。〈人喰い〉がいるかどうか」
「それはだめ。凍えてしまうから」
部屋には暖炉があったが、肝心の薪が見当たらない。
きっと外でびしょびしょになっているのだろう。
ここで一夜を過ごすのは、外よりも多少はまし程度のものだろう。
エマが女の死体の顔の損傷の具合を確かめるため、栗色の髪に触れた。
絞殺するように顎の下を覆っていた髪を解くと、白い首が露わになった。
女の首は大理石で造られた神殿の円柱のようだった。
そこに彫刻された、薄い淡紅色の痣。
心臓が締め付けられるように痛む。
その痣に、どうしようもなく見覚えがあった。
私は小さく深呼吸をする。
腐臭が鼻腔を突き、吐き気を誘った。
口を抑えながら、自分の中に生まれた感情を整理する。
戸惑い。そして、怒り……だろうか。
でも、私は自分が何に動揺し、怒っているのか分からない。
「『若い男女』って話だったよね」
「ええ。どうかしたの?」
エマは目の前の死体に対して、これといった疑問を感じていないようだった。
それもそうだろう。
顔以外に荒らされた様子はなく、手首や足に縛られたような痕もない。
寒さのせいか見た目の上での腐敗があまり進んでいないのが、この死体の特徴と言えばそうかもしれない。
もう一度、首の痣を見る。
記憶力に自信はないが、先週描いた絵によく似た形をしている。
首。そう、首だ。
首を見れば、おおよその年齢が分かる。
でも、訪れた小屋で唐突に死体を発見しただけの猟師に、その知識と余裕はあったのか……いくらか疑わしい。
女が身につけているのは革のコート、赤いロングスカート、ブーツ――。
これらの服装から『若い』と断定できるものなのだろうか。
十代、二十代のお女性の格好として相応しいものだけど、もっと年齢が上の成熟した女性が着ていても不思議ではない。
猟師は女が若い女性であることを最初から知っていたのではないか。
――そもそも、猟師はどうして森の中にある家を訪れたのだろう。
私は首を振る。
「何でもない。森では少し動きづらそうなだと思って。若気の至りというやつかもね」
エマは首を傾げる。
「若いのは確かだけど、少なくとも男の方はケイトよりも年上よ」
「十五、六の若者よりも、この人たちみたいな大人もどきの方が道を踏み外しやすいものなんだ」
「知ったふうに話すのね」
「多少、知ってるからね」
私は肩をすくめる。
姉が人としての道を踏み外したのも、身分として成人したころだった。
姉は失踪し、私は彼女を追って旅をしている。旅の目的は分からない。
けれど、道からそれた姉を元の場所に連れ帰るためではないことだけは確かだ。
結局、私は自分の中に創った疑念をエマに伝えなかった。
彼女は〈死体拾い〉で、目の前に罪が転がっていたとしても咎めるようなことはしない。
それに、私は責任を誰かに押しつけたいだけなのかもしれない。
きっと知っている人に似た死体を見て、動揺している。
ただ、それだけなのだろう。
読んでいただきありがとうございます。
次の更新は3月28日(火)ごろです。




