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〈死体拾い〉のエマ  作者: しゃかもともかさ
1.地獄のような顔の女
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 アンナを回収した日は雨だった。


 東部は秋が深まる十月ころになると雨雲が空を覆う。降水量はさほ多くはないが、しとしととした雨が続く。

 私たちがしばらく滞在している〈ウサギ丘のふもと〉という町もその例外ではなく、先週から陰鬱な分厚い雲とたい雨に包まれていた。


 エマが運転する車で東にある隣町、〈ミカ・リベラ〉に移動している間、助手席の私の頭は眠気でまだぼんやりとしていた。


 眠ってしまわないようにラジオをつける。


 パーソナリティが今日の天気は雨だと分かり切ったことを言った。

 いったい誰に向けたメッセージなのだろうか。思わずため息が出る。


「元気ないのね」


 ハンドルを握るエマが楽しげに言った。


「寝起きで、雨だから」


 宿泊していた部屋のベッドで窓を打つ雨の音を聞きながら微睡んでいたところ、「ケイト、ご機嫌よう。刺殺死体よ」とエマに叩き起こされたのはつい十数分前の出来事だった。


「でも、朝食代が浮いて良かったじゃない」


 窓ガラスにぼんやりと映る私の顔が渋いものへと変わる。


 エマの〈死体拾い〉の仕事を初めて手伝ったとき、乱暴されて殺された少女の死体を見た私は情けなく嘔吐した。

 その少女の死体は、人間の身体を畑にしようとしたのかと疑うほど胴体が丁寧に耕されて、腐敗した臓器が強烈な臭いを周囲に放っていた。


 ――ときどきこういうこともあるわ。


 エマは何でもなさそうな顔でそう言った。

 本当にそうなのだろう。

 だから、私は仕事の前に胃を空にするように決めたのだ。好き好んで朝食を抜いたわけではない。


「今日の死体はどんな死体かしら。刺殺はありきたりではあるけれど、今回は殺人事件だから期待できるわ」


 私の憂鬱とは対照的に、エマは上機嫌だった。死体の話をするとき、彼女はたいてい生き生きとしている。

 両手いっぱいの花束に目を輝かせる町娘のようだった。


「ケイト、知ってる? 戦争や虐殺を除いた人殺しのたいていは、家族間や親密な友人同士で行われるのよ」

「知ってるよ」

 私は苦い顔をする。

「知らないまま人生を終えたかった現実の一つだ」


 私はエマのような特殊な感性を持ち合わせていない。

 だから、死体を見ても幸せな気持ちになれない。


 死体は死体だ。

 元々は人間で今は肉塊。

 〈人喰い〉の餌で、できれば自分から遠ざけたいもの。

 それ以上でも以下でもない。


 死体を愛していない私が〈死体拾い〉のを手伝いをしているのは、行方知れずの姉を探すためだ。

 〈死体拾い〉は死体を求めて各地を転々とするし、行方不明者に関する情報に精通している。

 明確な目的地のない私にとって、エマはとても都合が良い旅の同行者だった。


 エマと共に旅をしていればいつか姉を見つけられるかもしれない。


 そんな淡い期待をしている。



      *



 〈ミカ・リベラ〉に到着する。


 『ミカ』は大きな川の名前で、知恵と幸運を運ぶ天使に由来する。

 古くから商業で栄えた町で、リベラ家が代々治めていたことからそう呼ばれるようになった。ただ、リベラ家は数十年ほど前に没落してしまったから、今は教会がこの町を取り仕切っている。


 目的地である鮮やかな茶色の外壁のアパートの前には雨にも関わらず玄関口に結構な人集りができていた。

 控えめに見積もっても二十人程度の人がいる。


「今日って祝日だったかしら?」


 真っ当な人間であれば社会活動を始めていても不思議ではない時間だが、残念なことにこれだけ暇を持て余した人たちがこの町にはいるらしい。


「きっと平和の証拠だろうね」

「もしくは、不景気の証明よ」


 作物の不作、税金、〈人喰い〉の恐怖……不景気の原因は至る所に存在する。

 そのどれもに決定的な解決策を見出すことができないまま、すでに数十年が経過している。人類は緩やかに滅亡に向かっているのだろう。

 聖書が騙る『世界の終焉』は今世紀中に訪れるのかもしれない。


 人集りの成分は主婦らしき中年の女性と老人が大半だったが、剣を腰に差した男たちの姿もあった。

 彼らの胸に刺繍された鷹の紋章がある。衛兵だ。

 現場は衛兵がすでに押さえているようだ。彼らは権威の象徴である紋章を見せつけるように胸を張り、周囲を威圧していた。


 私とエマはフードを深く被り、車を降りる。

 群衆は〈死体拾い〉であるエマに気づくとさっと身を引き、その後ろに続く私に訝しげな視線を遠慮なくぶつけてきた。


 エマは入り口に立つ衛兵に声をかける。

 若いというよりも幼い雰囲気の男で、頬ににきびの痕が目立っていた。私やエマとさほど年は変わらなそうだ。


「死体の回収をしに来たわ」


 黒い手帳を見せる。〈死体拾い〉の身分証だ。

 手帳は平べったい炭のようで、一見しただけでは装飾らしいものがないように見えるが、光の当たり方次第で表紙に女神の像が浮かび上がる細工がしてある。


「殺人犯はまだ中?」

「尋問中だ」

 衛兵はぶっきらぼうに答えた。彼は私に鋭い視線を向け、顎をしゃくる。

「そいつは何者だ?」


 どこか芝居がかった口調だった。配属されてまだ間もないのかもしれない。


「手伝いよ。許可は取っている」


 衛兵は返事代わりの舌打ちをした。

 建物の中に入ってから声を抑えてエマに耳打ちする。


「ずいぶんと感じの悪い人だったね」

「適材適所でしょう。感じのいい人が衛兵なんて不自然だもの」

「……確かにそうかも。あの彼は将来有望ってことなのかな」


 民衆の大半は衛兵のことを嫌っている。彼らの態度が原因だ。

 衛兵は傲慢で不親切で、時々暴力的なのだ。私は衛兵に対して特別な感情を持ってはいないが、できる限りお世話になりたくないとは思っている。


 外階段を昇り、三階を目指す。金属製の階段は雨に塗れていたが、塗装の剥げと錆が良い滑り止めになってくれていた。


 二階の踊り場のところに老婆が立っていた。


 このアパートの住人だろう。騒ぎを聞きつけて野次馬をしているのかもしれない。

 私とエマが老婆を避けて通ろうとすると、彼女は私たちの行く手を枯れ枝のような身体で遮った。


「あんたたち、アンナを持って行こうとしている人たちだろう?」


 私とエマが顔を見合わせる。アンナ、とは死体のことだろう。

 老婆はエマに薄汚い布の小さな袋を押しつけた。じゃらりと金属同士が擦れる背徳的な音が響く。


「アンナは優しくていい子だったんだよ。この前なんて、腰の悪いあたしに代わって買い物を手伝ってくれたし、毎日教会に通って子供の面倒を見てやってる。若いころ十分過ぎるほど苦労したのに……」

 老婆は濃い皺の顔をさらにしわくちゃにした。

「それなのに浮気された上に殺されるなんて……。あの子を〈人喰い〉の餌にするなんてあんまりじゃないか!」


 時々、この老婆のような人がいる。〈人喰い〉の餌になることを哀れんで死体を買い取ろうとする人たちだ。


 エマが小袋の口を開く。

 彼女はため息をついて、「銅貨」と小さく呟く。老婆に小袋を押しつけるようにして返した。

 死体は高級品だ。銅貨なら数えるまでもない。


 老婆は歯を剥き出しにする。

 歯茎の隙間から荒い吐息がしゅーしゅーと漏れていた。


「お前に人の心はないのか? 〈死体拾い〉も聖職者の端くれなんだろう?」

「そう、女神に仕える聖職者様よ」

 エマは心底不本意そうに言う。

「だから、そこをどかないならあなたは教会の職務の妨害をしていることになる。いいの?」


 権威の権化である「教会」という単語を聞いて老婆はほんの一瞬たじろいたが、すぐに怒りと失望で顔を赤く染める。


「人の皮を被った薄汚い鼠めッ!」


 老婆はエマの足下に銅貨の入った袋を叩きつける。銅貨が袋の口からこぼれ甲高い音を鳴らしながら散らばった。

 大きく跳ねた硬貨の一つがエマの額に当たる。


 私は身体の芯が強ばり熱くなるのを感じた。


 老婆に向かって身体を進めようとする私の袖をエマが引いた。塩を摘む程度の力だったが、私の動きはそれで制される。


「行きましょう。時間と体力の無駄よ」


 エマの無感情な瞳を見て、罰が悪い気持ちになる。

 暴言を吐かれたのも、硬貨をぶつけられたのも、〈死体拾い〉であるエマだ。その彼女が怒らないのなら、私が怒る道理はない。


 私はただの手伝いなのだから。


 老婆はそのあとも〈死体拾い〉を罵る言葉を酔っぱらいの吐瀉物のようにまき散らしていたが、私は聞き流す努力をした。


「君はあんなふうに悪態をつかれて気分が悪くならないの?」

「よくあることだもの」


 エマはそよ風に吹かれたような涼しげな口調で言った。

 フードの隙間から朱色の瞳が私に向けられる。視線にはわずかに哀れみが込められていた。


「ケイトは犬が自分に向かって吠えていたらこの世に絶望するタイプの人? 生きづらそうね」


 私は曖昧な顔をするしかなかった。

 エマの他人に対する無関心さがほんのわずかでも私にあれば、もう少し生きやすかったかもしれない。

 心の底からそう思う。


 でも、それを実行するのは難しい。


 私は自分以外の誰かが傷ついていると無責任に『可哀想』と思ってしまう愚かな人間なのだから。その癖に、自分が一番可哀想だと信じている。


「君にとって他人は犬なんだね」

「私、猫の方が好きなの」

「死体の話?」

「もちろん。犬よりも猫の方が造形美として優れているのよ。この前、馬車に轢かれた猫の死体を見つけたのだけど、素敵だったわ」


 エマは小さく微笑む。


「顎が砕かれて、頭の下半分がなくなっていたの。舌って生きている猫が口から出すものよりも実際はもっと長いのよ。ケイトにも見せてあげたかったわ。きっと、あの子は水も食事も取れなくて死んだのね」

「気持ちは嬉しいよ」


 自分の顔にできる限り不快な感情が出るように努める。


「でも、次にそういう機会があったら、君一人で楽しんで。私は生きている猫が好きなんだ」

読んでいただきありがとうございます。

次の更新は11月8日ごろを予定しています。

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