後日談:今すぐにでも地獄へ3
私は短く息を吐く。
「あなたは、アンナさんを食べなかった」
この男はアンナという「ご馳走」を前にして、それに手をつけなかった。
アンナの身体に『食事』の痕跡がなかったことを、私はこの目で確かめた。
妻子に逃げられた過去と同じように、世間体を気にしての立ち振る舞いかもしれない。
それとも、男のアンナに対しての想いは本物だったということだろうか。
腕と足、私は男の欠損した部位に視線を向ける。
〈人喰い〉は人の肉を口にしないと心が壊れ、魂の器でもある身体も徐々に崩壊していく。
男の肉体の再生が行われていないのは、『食事』をしていないからだ。
でも、目の前の男はまだ正気を保っているように思える。
会話が成立しているし、衝動に任せて私を襲う素振りを見せることはない。
少なくとも、心の方は無事のようだ。
私はアンナの死体を頭の中に思い浮かべる。
紅茶とパンと、地獄のような顔をした女。
ナイフと首筋の深い傷。
そして、咽せるほどの濃い血の臭い。
「でも、あなたは血を吸ったんだ」
男の顔が枯れたバラのつぼみのようにしわくちゃに萎む。
アンナの酷い死に顔の理由を、私は正しく理解する。
なんてことはない。
アンナは愛した夫の中身が全くの別人であることを悟ったのだ。
「僕は…………どうすれば良かったんだろう」
男は言葉を発さなくなった。部屋の中が重たい沈黙で満たされる。
どうしようもない、というのが彼の疑問に対する私の答えだが、それを口にしたところで何も生まれない。
何より、男自身もそれを理解しているはずだ。
〈人喰い〉は人を喰うから〈人喰い〉なのだ。
私は男に〈騎士〉の派遣を提案する。
自分には特別な伝手があり、男が希望すればすぐにそれは叶う。
〈騎士〉の炎は〈人喰い〉の肉と魂を灰す等残さず燃やし尽くす。
男は〈人喰い〉の衝動やどうすることもできない世界の檻から逃れることができるだろう……。
そのように説明した。
くたびれた男は情けなくうなだれる。
そして、首を振った。
「まだ少し、足掻いてみたいんだ。もう一度、やり直せるかもしれない」
そう、と私は返事した。
足掻いたところで何も変わらない。
〈人喰い〉は世界にとって悪性の腫瘍で、放置すればするだけ状況が悪化するだけだ。
男の身に起きたのは「やり直し」の奇跡ではない。
破滅が約束された、ただの貧乏くじだ。
その事実を突きつけ、諭し、説得しようと思うほど、私はこの男のために働こうとは思えない。
……それに、先ほどの私の提案は優しさや同情によるものではない。
目の前の醜い男を一刻も早くこの世界から消し去りたいという個人的な願望によるものだった。
「力になれなくて悪いね。お姉さんに会えるように祈ってるよ」
私は形式的な礼を言う。
私と姉の再会がお互いにとって良いものである保証はどこにもないのだ。
それすら、この男には理解できないのだ。
でも、理解して欲しいとも思わない。
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次の更新は2月24日(金)ごろです。




