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〈死体拾い〉のエマ  作者: しゃかもともかさ
1.地獄のような顔の女
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 机の上にスケッチブックを広げ、鉛筆を取る。


 絵を描いていると充足感が身体を満たす。それは冷えた部屋で温かいお茶を飲んだときの感覚と少し似ていた。

 遥か遠い昔、私は絵を描くのが好きだった。そのことを思い出したのは最近……つまりは、姉を探す旅に出てからだ。


 無心に鉛筆を握る腕を動かしていると、スケッチブックに女の死体が浮かび上がってきた。二十代半ばの細身の女で、名前をアンナという。


 アンナを殺したのは、彼女の夫であるリカルドという男だ。リカルドは浮気を問い詰められたことに逆上し、アンナの喉をナイフで突いた――というのがよく語られるストーリーだ。


 『哀れなアンナの死』は新聞やラジオでも取り上げられた。

 ちょうど話題になるものがなかった時期というのもあったかもしれない。世間はとある領地で起きた大規模な汚職事件に飽き始めていた。


 アンナが暮らす〈ミカ・リベラ〉という町で、彼女は評判の信徒だった。教会の奉仕活動にもよく参加し、近所の老人の買い物の手伝いを日常的にしていた。アンナは幼いころ両親から捨てられ孤児として施設で育ったが、生い立ちの暗さを感じさせない明るく優しい淑女だったという。


 信心深い妙齢の女が夫に殺された。


 その理不尽な最期は『悲劇』として分かりやすく、人々の心を掴んだ。

 人々はアンナの死を悲しみ、殺人者であるリカルドに厳罰を求めた。




 部屋の扉がノックされる。


 私の返事を待たずにドアが開かれるのはいつものことで、抗議することはすでに諦めた。

 振り返ると銀色の長い髪の少女、エマが立っていた。滑らかな白い肌と整った顔立ちは陶器人形を思わせる。

 私と同じ十六歳。けれど、私よりも小柄で可愛らしく柔らかな体つきをしたエマは、死を具現化したような黒装束に身を包み、真紅の瞳を虚ろに輝かせていた。


「ケイト、ここから西にある町に死体を搬送することになったの」


 エマは〈死体拾い〉だ。その肩書きの通り、彼女は死体を仕入れ、それを商品として売って生計を立てている。

 非人道的な行いに思えなくもないが、〈死体拾い〉は女神に仕える教会の承認を受けたまっとうな職業……ということになっている。

 だから、悪態をつかたり後ろ指を差されたりすることはあっても、背徳者として糾弾されることはない。


「〈人喰い〉が出たの?」

「さあ、分からない。行方不明者が出たみたいだけど、『食べ残し』は見つかっていないわ。でも、見つかっていないだけかもしれない」


 〈人喰い〉には特定の部位ばかり食べる『偏食家』もいれば、骨まで綺麗に胃に収める『完食家』もいる。食べきれなかった残り物を地面に埋めたり袋に詰めて隠す者も少なくない。


 ――この世界は〈人喰い〉に侵されている。


 人間は猛獣に襲われる子羊とほとんど変わりない。

 もし、同じ檻に子羊と猛獣がいたら、子羊は逃げることもできず猛獣に食われるだろう。

 けれど、十分な生肉が餌として与えられ、猛獣の腹が満たせるのであれば、彼らは哀れな子羊を襲う理由がなくなる。


 人間たち子羊は〈人喰い〉という猛獣のために隣人の死体を餌として提供する。


 そうすることでなんとか自分たちの日常を守っている。

 人間が生きるせかいは不健全な造りをしているのだろう。でも、そうすることでしか生きられない。

 人々のその「仕方ない」という気持ちにつけ込んで商売するのが〈死体拾い〉だ。


「絵、見てもいい?」


 エマは身を乗り出し、スケッチブックを覗き込む。彼女の淡い桃色の唇の隙間から、仄かに甘い香りがした。ここに来る前、蜂蜜菓子でも食べたのかもしれない。


「この絵の人って、アンナ?」

「うん、そう」


 私とエマがアンナの死体を回収したのはつい先週のことだった。


 鉛筆の先でアンナの頬をなぞる。

 彼女の頬は日照りが続いた大地のようにひび割れ乾いていた。

 新聞に掲載されたアンナの写真は整った顔立ちの女性だったが、絵の中に生前の面影はどこにもない。彼女の顔は胸の奥底から湧き出た黒い感情――憎悪とも絶望とも形容しがたい何かで染まっていた。


 スケッチブックを見ていたエマが目を細める。少女が店頭に飾られた可愛らしい熊のぬいぐるみを見つめるような顔だった。


「とてもよく描けている。表情が特に素敵ね」


 短く礼を言う。

 出来映えを気にして描いた絵ではないが、エマから褒められて悪い気はしない。

 もっとも、エマが私の絵に興味を持つのは死体の絵を描いたときだけなのだが。エマは死体を愛している。


「絵が完成したら譲ってくれる?」

「誰も引き取り手がいなかったらね」


 私の絵はときどきお金になる。名のある画家ではないから、絵は銅貨数枚かパンや果物との交換だがそれでも貴重な収入源だ。でも、死体の絵を引き取りたがる人はさほど多くないはずだ。

 エマは唇の端に小さな笑みを浮かべていた。


「ケイトは死体の絵だけ描くべきよ」


 肩をすくめる。


「たいていの人は君ほどは死体に関心がないんだ」


 普通、人は自分の日常から死体を遠ざけようとする。死体は恐怖……もしくは嫌悪の対象だ。死体が死をあまりにも容易く連想させるからだろう。

 それに、死体は腐ると致命的な疫病の原因となる。人が死体を遠ざけるのは、宗教的にも生存本能的にも利に適った行動だ。


 エマはその合理性から外れている。


 私が死体を描くようになったのはエマの影響だ。きっと少しずつ私の中で死体が日常のものとなっているのだろう。

 エマの〈死体拾い〉の仕事を手伝うようになって、一月ひとつきが経っていた。

次の更新は2022年10月25日(火)ごろです。

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