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〈死体拾い〉のエマ  作者: しゃかもともかさ
1.地獄のような顔の女
19/89

後日談:今すぐにでも地獄へ2

「前の僕は仕事人間だったんだ。教師をしていた」


 あの日、男はそう言って語り始めた。

 黄ばんだシーツに身をくるんだ見窄らしい男。

 私には男が吐瀉物と変わらない存在に思えたが、彼は誇らしげに見えた。


「給料は安いし、休みはない。その癖、責任は重い。割に合わない仕事だ。でも、やりがいは感じていた。教師っていうのは、少なからず他人の人生に影響を与える仕事だろう?」


 くたびれた男の自分語りを聞くために銀貨一枚払った。

 そのことを考えると頭が痛くなる。

 下腹に力を入れ、信徒の懺悔に耳を傾ける敬虔な修道女のような面持ちを意識する。


「家に帰ると妻と娘は寝ていて、テーブルの上に置かれた冷めた料理を食べた。休日は休日で、仕事があった。学校の行事っていうのはたいてい休みの日にあるからね。だから、家族らしい交流はなかったよ。でも、妻と娘のことを思うと明日も頑張ろうって前向きな気持ちになれたんだ」


 男は寂しく笑う。

 自嘲のようで、自己保存のための同情を誘う笑みだった。

 自傷癖持ちの精神弱者が、袖をまくってちらちらと見せる手首の傷そのものだ。


「あるとき家から妻と娘の姿が消えた。書き置きはなかった。出かけたのだろうと思っていたけど、しばらく……三日くらい経っても二人は帰って来なかった」


 僕は途方に暮れたよ、と男は本当に参った顔で言った。

 本心なのだろう。

 彼がどれほど妻と娘のことを大事に思っていたかを推し量ることは難しいが、教師が妻子に逃げられたと知られたとき、『世間』というものがどう思うかは理解できる。


「妻と娘が頼りそうなところを当たったけど、どこにも彼女たちはいなかった」


 この男は何を言っているのだろう。

 私は純粋に、不思議な気持ちになった。

 家族らしい交流がなかった男に、妻と娘の拠り所が理解できるはずがない。


「仕事が手に付かなくなって、クビになった。朝、布団から出られないんだ。どうしてか、玄関の外が怖い。みんなが僕のことを馬鹿にしている気がした」


 不登校の子の気持ちを理解したよ、と男は神妙な顔で言う。

 私は部屋に引きこもった姉を思い浮かべる。

 確かに状況は近いものがあるかもしれない。


 でも、それは鮫とイルカの形が似ているのと同じで、本質は決定的に異なる。

 きっと、この大人はいつまでもそのことに気けないのだろう。


「ものが喉を通らなくなって、食事ができなくなった。お茶さえだめなんだ。味がついているものを身体が受け付けない。水を温めて、なんとか水分だけでも取った。妻と娘が僕にとってどれほど大きな存在だったか、改めて思い知ったよ。やり直したい。でも、その方法が思い当たらない」


 男は深い谷底を覗くように、目を見開き、薄汚れた壁の一点を見つめる。

 そこに、かつての『昔の僕』がうっすらと映っている……とでもいうように。


「気がつくと、僕は川岸にいた」


 今から一年前のことだという。

 リカルドが教会に離別を申し出たが却下され、失踪した時期と重なる。


「前後の記憶はなかった。でも、自分が『リカルド』という名前であることは理解できた。『リカルド』には妻がいて、彼のことを愛する……優しくて、美しい人だった。

 前の僕の妻は優しくはなかったし、お世辞にも美しいとは言えなかった。子供が泣くと、同じくらいヒステリックに喚くような女で、家事も躊躇半端だ。部屋の隅にはいつも埃と髪の毛があったし、シンクには洗い物が必ずたまっていた。だから、僕は『リカルド』が妻と離別しようとしたのか理解に苦しんだ」


 〈人喰い〉は別の人格が身体に乗り移ることで生じる。

 元の身体の持ち主の人格がどうなるかははっきりしていない。


 完全に消滅してしまう場合もあるだろう。

 人と〈人喰い〉の奇妙な同居生活が始まることもあるかもしれない。

 人類が〈人喰い〉と対話を試みた例は少なく、彼らの生態には謎が多いとされている。


「僕は遠くに見える〈ミカ・リベラ〉の町の灯りに向かって歩いた。やり直すためだ」


 順調だった、と男は言う。

 実際、そうだったのだろう。

 少なくともこの一年、アンナ夫妻の衝突の話は聞かなかったようだ。

 一度崩れてしまった夫婦は、静かに『やり直し』を行っていたのだ。


「アンナは精神的に不安定なところもあったけど、僕と一緒にいるときは穏やかだった。仕事は荷物を別の場所に運ぶだけのやりがいのないものだったけど、アンナのことを想うと頑張れた。教会への寄付には参っていたけどね。でも、それは昔からだ」


 男は笑みを苦いものにする。

 愛する人の我が侭に肩をすくめるように。


「いつまでも、この生活が続くと思っていた。なのに……どうしても渇いて仕方がないんだ」


 あるときから、男は〈人喰い〉としての自分を無視できなくなった。

 人間の食事が摂れなくなり、紅茶かワインで空腹を誤魔化す。

 もちろんアンナは男を心配した。医者を呼ぼうとしたが、男はそれを拒んだ。


 遂に衝動は耐えられないものに達し、男はアンナに離別を切り出す。

 妻のためを想っての行動だったのだろう。その意志は固いものだった。


 ――だから、アンナは自らの首を切った。

読んでいただきありがとうございます。

次の更新は2月21日(火)ごろです。

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