15
教会に到着する。
前の口の軽い神父がいた教会とは別の教会だったから、少し安心する。
これ以上、アンナやリカルドのことで心のリソースを使う気分にはなれない。
エマがリカルドの腕と足の査定をしている間、中庭の長椅子に座って待つことにした。
中庭には子供たちとそれを見守る若い修道女の姿があった。
その光景をぼんやりと眺める。
私と姉、母にもあのような光景があったはずだ。
けれど、それははるか遠い記憶のもので、色褪せて灰色ですらなく、まぶた越しに見るランプの明かりのようなぼやけた眩しさしかなかった。
私は、姉と母のことを想った。
二人は年の離れた姉姉のように仲が良かった。
実際、町を歩いているとそう勘違いされることもあった。
姉は同年代よりもずっと大人びていて、母は年の割に若く見えて美しかった。
私は二人の少し後ろを歩くのが好きだった。
私は綺麗なものを見るのが好きだ。
姉と母の関係は綺麗なものだと心の底から信じることができた。
でも、私は間違っていた。
姉と母は小さくない問題を抱えていたのだろう。
だから、姉は母を殺すしかなくなった。酷く単純な方程式に吐き気すら覚える。
地面を向き、俯いていると人影が私を見下ろすように現れる。
顔を上げると銀色の〈死体拾い〉の無機質な顔があった。
「たいした額にならなかったわ」
「そっか。残念だったね」
私の言葉にエマは返事すらせず、教会に背を向けた。
車に戻り、帰路に着く。
蜂蜜をたっぷり入れた熱い紅茶が飲みたかった。
車のラジオからは古いラブソングが流れていた。
失恋の曲だ。
歌詞に耳を傾ける。
恋愛のことは分からない。でも、成就した恋よりも失恋の方に惹かれる。
どんなに美しい感情も、いつかは薄汚れ、磨耗し、朽ちていく。それなら悲恋として終わる方が美しい。
私の悲観主義がそう思わせるのだろうか。もしくは、私の在り方は破滅主義的なのかもしれない。
「ケイトは、アンナとリカルドの関係に、あなたのお姉様とお母様を重ねていたのね」
そうだよ、と私は乾いた笑みを返す。
「姉さんは私の二つ年上だった」
エマは生きている人に対する関心が薄い。だから、姉の話は興味がないだろうと思ったが、彼女はハンドルを握り、横目で私の言葉を待っていた。
心の中で礼を言う。
「姉さんは母さんから期待されていた。……いや、あれは期待なんて呼べるものではなかったかもしれない」
母が姉に向けていたのは、愛情と呼ぶのは軽薄で、執着と称するには純粋過ぎる感情だった。
「私の家はこの国で言うところの領主みたいなものだったんだ」
痩せた土地が広がる、これといった特産のない山に囲まれた場所だった。
頼られてはいたが、頼られたところで現状を動かせるほどの力はない土地に縛られただけの家。ある意味で、アンナの頭を届けた町長と似ていたかもしれない。
「でも、私が物心着く前に父が死んだ。だから、母さんは女手一つで私と姉さんを育てることになった」
「厳しい人だったの?」
「全然。優しかったよ。優しすぎるくらいだった」
母は私と姉に跡取りとしての責務を説いたが、押しつけるようなことはしなかった。
東から昇った太陽は西へと沈む。当たり前のことを教えるように、私と姉に跡取りとしての在り方を自覚させた。
「跡取りとしての才覚を現したのは私ではなく、姉さん方だった。姉さんは勉強ができたし、身体を動かすのも得意だった。音楽や絵のことももちろん詳しい。明るくて優しくて人当たりがいい人だったから、姉さんと話したほとんどの人が彼女のことを好きになる。完璧だったよ」
「優しくていい人なんていないのよね?」
「うん、その通り」
私は力なく笑う。
そんな当たり前の事実に、幼いころの私は気づけなかった。
「あるときから姉さんは上手くやれないようになった。ちゃんとした理由は分からない。たぶん、誰にでもあることなんだろうけど、それまでが上手く行きすぎていたせいか、なかなか立ち直ることができなかった。姉さんは学校に行きたくないと言い出し、部屋を出ることを拒むようになった」
次第に声を発することすら怖がるようになって、活発な性格は面影を失った。これは冗談ではなく、私はそのうち姉が歩くことすらできなくなるのではないかと思った。それくらいに姉の挫折は大きなものだった。
「お母様は失望したでしょう」
私は首を振る。
「あの人は今まで通りの期待を姉さんに注いだ。柔らかくて温かい言葉で姉さんを励まして、叱責するようなことは一度もなかった」
それは母親として美しい姿だったかもしれない。けれど、姉と母親の『ずれ』が決定的になったのはそのときだっただろう。
「姉さんは優秀だった。でも、周囲の期待に応えられるほどではなかったんだと思う。性格も本当は内向的で、他人のことがあまり好きではなかった。身体を動かすよりも、一日中、部屋の中でじっとしている方が好きだった。早起きが苦手で、許されるなら寝坊をしたかった……のかもしれない」
エマが小さく吹き出す。
「ケイトと似てるわ」
「そう。もしかすると、私と姉はすごく似ていたんだ」
私たちはきっと、どちらも跡取りとして相応しくなかった。
姉が無理をしたのは、私のためかもしれない。
『姉』という役割が、そうさせたのだろうか。
「でも、母さんはそれを優しく受け入れなかった。『あなたなら大丈夫』って、何度も何度も……優しく唱えた。呪いの呪文みたいに」
だから、あるとき姉は壊れた。
母を夕焼けよりも濃い赤で染め、どこかへ消えてしまった。
結末としてはあまりにも呆気ない。
「エマの言う通り、私はアンナ夫婦に姉さんと母さんを重ねていた。彼らのことを理解したら、姉さんと母さんのことが少しくらいは分かるかもしれないと思ったんだ」
結局、得られるものなんて何もなかった。
自分の傷と似たものを見て、それに同情や理解を示しても何も生まれない。
当たり前のことだ。
それに……姉と母のときも今回も私は当事者ではなく傍観者でしかない。
誰かと誰かのすれ違いを見て、勝手に傷ついて、勝手に苦しんでいるだけだ。
つまるところ、私の傷は後悔と呼ばれるものですらない。
私の傷はどこについているのだろう。
どうすれば癒えるのだろう。
それすら分からない。
もしかすると傷なんてないのかもしれない。
でも、姉のことを想うと酷く苦しくなる。
部屋を飛び出して、走って彼女を探したくなる。
心なんてものがなければ、私は苦しまずに済んだのだろうか。
読んでいただきありがとうございます。
次の更新は2月10日(金)ごろです。




