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翌日、私は宿でアンナの絵を完成させた。
絵は鉛筆だけで描かれた白黒で、少し味気のないものだったが、私はそれを良しとした。
記憶というものは少しずつ色に関連する情報は薄れ、灰色の世界に近づいていくのだという。
アンナの顔に別れを告げたのは一週間前で、私の中で彼女の地獄のような死に顔は灰色になりつつあった。
それに絵の具は高い。
部屋に広げていた新聞を片付ける。先週の新聞で、宿の主人から譲ってもらったものだ。
新聞にはアンナに関する記事と、生前の彼女の写真が掲載されていた。
記事の見出しは『心優しい信徒を襲った凶刃』。
写真は教会で撮られたものだろう。アンナの周りには教会が引き取ったであろう孤児たちの姿があって、絵を描く上で参考になると思ったが、何にもならなかった。
誰かが描いた絵を見て絵を描いても出来の悪い模造品しか生まれないのと同じだろう。
絵描きとして三流以下の私でも、それくらいのことは理解できる。
ラジオからニュースが流れる。
すでに誰もアンナのことを語らない。紙にも電波にも、アンナの痕跡は存在しない。
世間の話題は国境沿いで起きた異教徒の暴動に移り変わっていた。
エマがノックなしに部屋に入ってきた。彼女は私を見て小さく微笑んだ。
「絵、完成したの?」
「うん、これで私はアンナの死に顔の呪い解放され」
「そう。呪いを解くために絵を描いていたのね」
もちろんただの戯れ言だ。
絵を描いたくらいで嫌な思い出が消えてなくなるなら、世の中は絵描きで溢れかえり、誰も女神に救いを求めなくなる。
でも、少しだけ清々しい気持ちになったのは事実だった。完成させた余韻のせいだろう。
「素敵」
エマはアンナの絵を見て目を細めた。
普段、陶器人形のように無機質で生気のない彼女の頬に血の気が通うのは死体を前にしたときだけだ。
私は死体を前にしたときのエマの穏やかな表情に、恋心に似た感情を抱いている。
「優しい人っているのかしら」
エマがぽつりと言った。彼女の視線は新聞の記事に向けられていた。
「アンナの死に顔を見て、彼女の優しさを連想するの、私には難しいわ」
「この前の女の町長たちもアンナのことを優しい人だとは思っていないみたいだったね」
エマは薄く笑う。
「顔を、見たからでしょう」
アンナの地獄のような顔を見たのは私とエマ、隣町の人たちと、現場に立ち入った衛兵くらいだろう。
彼女の死に顔が公表されたら、『心優しい信徒』という評判は覆るかもしれない。
それとも、敬虔な信徒の顔を歪めた夫の裏切りに嘆くだけだろうか。
「『優しさ』の定義にもよるだろうね。誰かにとって都合がいいことを優しさとするなら、優しい人はたくさんいるはずだ」
「それなら、アンナは間違いなく優しい人ね」
アンナは教会に多くの寄付をし、奉仕活動に参加した。近所の老人の買い物の手伝いをすることもあったらしい。色々な人にとって彼女は『都合がいい人』だっただろう。
「エマはアンナのこと優しい人だって思う?」
「思わないわ」
エマは上品に頭を傾ける。
「だって、私は彼女から優しくされたことなんてないもの」
無機質さを感じるほど合理的な判断だった。
「他の人がアンナの優しさを証明したとしても?」
「信じるって行為、一番苦手」
「聖職者なのに」
「そういえばそうだったわね」
銀色の〈死体拾い〉は少しも悪びれる様子なく肩をすくめる。
「ケイトはどうなの? アンナのこと優しい人だって思う?」
私は意識して笑みを作る。
「優しい人とかいい人なんているはずがないよ」
殊勝な考えね、とエマは頷いた。
どうかな、と思う。
世界は優しさで満ちていて、努力は報われる。
そんな幻想に浸っていた方が幸せでいられるかもしれない。
「結局、アンナの死に顔が歪んでしまった理由、分からずじまいね。どうしてリカルドはアンナを殺したのかしら。彼にとって、アンナは『都合のいい人』だったはずだけど……。だって、浮気を許してくれる奥さんよ」
「気になるの?」
それなりに、とエマは小さく頷く。
「だったら、リカルド本人に聞くのが一番いい。留置所に連絡すれば面会できるはずだよ」
もちろんそれらしい理由が必要だが、エマの〈死体拾い〉という立場を利用すれば難しくない。
「嫌よ。リカルドは死体ではないわ」
エマは小刻みに首を振る。
本当に嫌そうな顔だった。
私は苦笑する。
「どうしても?」
「……そうね。リカルドは死刑になるなら考えなくもないわ」
「人を一人殺しただけだから、厳しいんじゃないかな」
殺人と不貞の罪は重い。
でも、極刑になるほどではない。
その辺りの裁量はその土地を監督する領主や教会の機嫌や気分次第になるが、罪に相応しくない罰は民衆の反感を買う。
ある程度、慎重になるはずだ。
「これから死体になる人となら話してみてもいいと思ったけど、上手く行かないわね」
残念、とエマは呟く。
ビスケットの欠片を口に放り込むような軽い口調で、少しの未練も感じなかった。
エマは生きている人間との会話を毛嫌いしている。
ただの人見知りかもしれないが、ポリシーのようなものを感じなくもない。
エマの『生者嫌い』は私の知らない彼女の過去に起因するのだろうか。
ノックの乾いた音が部屋に響く。ドアを開けると宿の従業員の姿があった。
エマ宛に教会からの電話があったらしい。
エマは赤い瞳に光を灯す。
「新しい死体かも」
エマは小走りで部屋を出て行く。
私はラジオを消し、新聞を片付ける。
スケッチブックをしばらく眺め、それを閉じて鞄にしまった。
人々が語るアンナは美しく繊細な女性だった。
私が描いたアンナとまるで正反対だ。
でも、私は「心優しい信徒」が嘘だとは思わない。
アンナに優しくされた人たちはきっと多い。
アンナのためになけなしの金で死体を買おうとした老婆もいたし、新聞やラジオに寄せられた彼女の死を惜しむ言葉は本物なのだろうと思う。
一方で、私が描いたアンナの死に顔も一つの事実であるはずだ。
アンナは死の間際、酷い憎しみと絶望を感じた。
その感情がアンナの顔を歪ませたのだ。
夫の不貞を許し、事業の失敗に寄り添った『心優しい信徒』の顔を地獄に染めたのは、本当にたった一本のナイフによるものなのだろうか……。
ドアが勢いよく開く。戻ってきたエマは分かりやすく不機嫌な様子だった。眉を寄せ、腰に手を当てている。真紅の瞳がじっとこちらを捉えていた。
私はそれを笑顔で受け止める。
「ケイト。私の名前、勝手に使ったでしょ」
読んでいただきありがとうございます。
次の更新は1月10日(火)ごろです。




