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プロローグ

 双子の月が空に漂っていた。


 私は死体の池に浮かびながらそれをじっと眺める。酷い血の臭いが鼻をついた。顔をわずかに傾けると十歳に満たない幼い少女の顔が見える。

 馬車に母親と共に同乗していた子で、私たちはお互いを時間潰しの話し相手として歓迎した。


 ――久しぶりにお父さんに会うのよ。


 少女の父親は西の都市で学者をしているという。普段は忙しいが、研究が一段落したので会いに行くのだという。


 ――お姉さんはどこに行くの。


 私の旅にはあやふやではあるけれど目的地はあった。でも、その前にやらなければならないことがある。少し迷って「姉を探しているの」と答える。


 ――いなくなっちゃったんだ。


 私は頷く。


 私の四つ年上の姉は優しくて落ち着いて、大人びた性格だった。けれど、本当のところは精神的に幼かったのかもしれない。他人から向けられる感情……悪意や善意、期待や嫉妬を上手く受け流すことができず、彼女は全て真に受けてしまった。


 あるとき、姉は全てを拒絶した。


 学校に行かなくなり、自分の部屋に閉じこもって布団を深く被った。そこまでしても自分と他人との折り合いを見つることができなかった姉は、ある秋に家を出た。

 そこから先のことは何も分からない。私が姉を探す理由は彼女の安否を気遣う気持ちよりも、後悔や罪の意識によるものが大きい。


 私は姉に謝りたかった。


 そんなことを出会ったばかりの見知らぬ少女に話しても仕方がない。だから、「もう一度会いたい」と困った顔で笑う。


 ――会えるといいね。


 少女は微笑んだ。八重歯が印象的で、素敵な笑みだった。私は少女の純粋な祝福に感謝した。

 その少女の顔は今、恐怖と苦痛で醜悪に歪んでいる。


 馬車の御者が〈人喰い〉だったのだ。


 日が沈んでも隣村に着く気配がなく、「おかしいわね」と少女の母親が首を傾げる。すると、馬車が止まり、御者の若い男が荷台を振り返った。彼は無機質な表情で「誠に申し訳ありません」と謝罪を口にした。


 荷台に身体を乗り出した御者の手が、母親の顔が砕く。悲鳴が上がる間もなく、もう片方の手が女の子の喉を潰した。助けを求めるように眼球が揺れる。それを無視して逃げようとした私は、荷台から降りて幾分か走ったところで御者に捕まった。

 膝を砕かれ、身動きが取れなくなった私は地面で苦痛に呻くだけの芋虫でしかなかった。


 私は荷台に戻された。


 御者の鋭い爪が少女の腹を裂き、開いた裂け目に腕を通す。引き抜かれた御者の手に握られていたのは真っ赤な果実のような心臓だった。御者は林檎にかじりつくようにそれを口にする。

 その光景をいつまでも見ていられるほど私の心は強くない。けれど、両足の痛みは気を失わせてくれるほどのものではなく、瞼を閉ざす以外の逃避の手段はなかった。


 くちゃくちゃという水っぽい音を歯を食いしばりながら聞いた。


 御者は少女の心臓である程度の腹を満たせたらしい。少女の母親の心臓は革の袋に丁寧な手つきで入れた。

 御者の手が私の胸に伸びる。けれど、彼の手は私の腹の肉を裂こうとしたところでぴたりと止まった。彼は酔っぱらいの吐瀉物に触れてしまったかのように顔をしかめた。


 御者は中身を失った少女と母親と一緒に私を地面に放り投げた。馬に鞭を叩き、そのままどこかへ行ってしまった。


 双子の月を見上げる。

 どうして私は見逃されたのだろう。


 私の身体が女性的ではなく、男を惹きつけないから――ではなさそうだ。あの〈人喰い〉は人を果実のなる木くらいにしか考えていなかった。人間的な嗜好はおろか、慈悲の心なんて持ち合わせていないだろう。


 それなのに、あの〈人喰い〉が口にした「誠に申し訳ありません」という形だけの謝罪が、まるで形骸化した女神への日々の祈りのようで妙に人間臭く感じてしまう。

 飢えた獣に襲われたのであれば理不尽を感じるだけで良かったのに、あの言葉のせいで虚しい憤りを覚える。


 それもすぐに無力感に変わった。

 酷く喉が乾いた。

 

 すっかり夜は深くなり、空気が酷く乾燥していた。ここは荒野の真ん中だ。都合良く誰かが通りかかる確率はどれほどのものだろう。


 遠くからの低く唸るような音がした。


 それがエンジンの音だと気づくのに時間がかかった。私の目の前で車が止まる。黒い車体が月明かりに反射していた。


 車のドアが開く。


 現れたのは双子の月に照らされたのは美しい銀色の髪の少女だった。

 少女の朱色の瞳が私に向けれる。彼女は手を私に伸ばす。枯れ枝のように細く氷のように冷たい指が私の頬に触れた。彼女は水をすくうように優しく私の頭を両手で包む。不思議な安堵感が私の身体を満たした。


 ――助けて。


 私が唇を動かすと銀色の少女は長く息を吐いた。


「死体かと思ったのに」


 少女は心の底から残念そうだった。生きていることが申し訳なるほどに。

 それが〈死体拾い〉のエマと私の、最低な出会いだった。

ゆっくりと更新していきます。続きを読んでいただけると嬉しいです。

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