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神田先生が髪を切った

作者: 村崎羯諦

 あの神田先生が髪を切った。


 チャイムが鳴ると同時に教室へ入ってきた先生の姿を見て、クラスのみんなは同じことを思った。昨日まで、神田先生の髪は二の腕まで伸びていて、艶のあるその綺麗な髪は教室の安い蛍光灯の光を反射して白く光っていた。みんなが惚れ惚れするような美しい髪。だけど、たった今教室に入ってきた神田先生はショートボブで、歩くたびにさらさらと揺れていたあの長い黒髪はそこにはない。それでも、神田先生はまるで何でもないかのように物理の教科書を開き、いつものように淡々とした口調で授業を開始した。


 神田先生は人気の先生ではあるけど、凛としたその態度のせいか、どこか近寄りがたい雰囲気を漂わせている。他の先生だったら授業中だろうと関係なく質問をするであろう男子たちも、今日はお互いに困惑げに顔を見合わせるだけ。みんなが戸惑いながら、みんなが同じ疑問を持ちながら、神田先生の授業は進んでいく。教室全体がそわそわしていて、神田先生が話す一言一言が、みんなの耳に届く前に空気の中へと溶けていった。


「失恋とかかな?」

「えー、でもあの神田先生だよ。失恋で髪を切るなんて、そんなベタなことする?」


 授業が終わり、神田先生が教室を出て行ったタイミングで、あちらこちらからで同じ噂話が聞こえてくる。失恋が原因だと言い張る人。あの神田先生のことだから、髪が短い方が合理的だと考えたんだと推測する人。今まで髪の毛を伸ばしていたのはヘアドネーションのためであって、また伸ばし始めるんじゃないかなと予想する人。そして、別に意味なんてないんじゃない?と笑う人。髪を切っただけでこんなに噂されることにうんざりしながらも、みんなが神田先生のことについて話していることが、私はちょっとだけ嬉しかった。


「神田先生って、美智子が入ってる天文部の顧問だよね? さりげなく聞いたりできないの?」


 友達の一人が思い出したように私に話を振ってくる。そのことに優越感を覚えなが、あくまで私は控えめな口調で、神田先生はあまりプライベートのことを話してくれないということを友達に伝えた。


「でも……あの神田先生が色恋沙汰で髪を切ることはないと思うな」


 ()()()()()()。そんなわけないでしょと断言したい気持ちをぐっと堪えて、私は角が立たないようにあえて曖昧な表現を使った。それから、私はさりげなく別の話題へと話をそらす。あの神田先生が、そんなしょうもない理由であの綺麗な髪をバッサリ切るわけがないでしょ。心の中でもう一度だけ呟いた後、私はさっきまで神田先生が立っていた教壇へ、一瞬だけ視線を向けるのだった。




*****




 恋愛ドラマも、男子を意識したメイクをしてくる女子も、それを性的な目で見る男子も、私はずっと気持ち悪かった。もちろんそんなことを口に出さないし、会話には混じりながら、みんなと同じように関心があるように振る舞っていた。でも、いつか大人になったら、みんなと同じようにその気持ち悪いことをしなければならない日がきっと来る。そのことを考えるだけで、私は大人になりたくなんかないと叫びそうになる。


 だから、私が初めて神田先生と出会った時、全身に稲妻のような衝撃が走った。美人で、背も高くて、頭も良くて、だけど他の女性の先生みたいに、誰かに好かれるために媚びるなんてことはしない。口をひらけば物理の話ばかりで、異性の影も匂いも一切ない、女性。誰の目も気にせず、周りに流されない、その姿に私は心から惹かれた。身の回りには、呼吸をするように媚びを売る大人の女性しかいなかった私にとって神田先生は、こんな女性になりたいと心から思える、初めての大人だった。


 もちろん私は先生みたいに美人ではないし、みんなと馴れ合わずに堂々としていられるような、心の強さもない。周りを気にして、自分が言いたいことも、自分がしたいこともできない弱い人間。先生に憧れて髪を伸ばしていたけれど、できることといえばそれくらい。だけど、先生みたいになれなくても、せめて先生の近くにいたい。だから、元々あんまり興味がなかったけれど、先生が顧問だと聞いたから廃部寸前の天文学部に入ったし、苦手な物理の授業だって頑張って勉強した。


 神田先生を見るたびに、声を聞くたび、神田先生の存在は大きくなっていったし、もっと先生のことを知りたいという気持ちも強くなっていった。部活の顧問ではあったけれど、基本的には名ばかりの顧問だったから、部活動中に先生とお話しすることはほとんどない。たまたま先生が顔を出してお話する機会があったとしても、その時はいつだって緊張で当たり障りのない質問しかできなかった。だから、神田先生のプライベートとか、昔のこととかを、私は想像して、ノートに書いたりした。全部私の勝手な妄想だったけれど、そこにはこうであって欲しいという願望と、きっとこうなんだろうという推測が混じりあっていた。


 子供の頃の神田先生は、友達は少ないながらも、本当に心を通わせた親友がいて、その頃から物理学の難しい本を読むような才女だったとか。子供の頃は近所でも有名な美人で、クラスの男子からちょっかいをかけられたりしたけど、そんなの全く相手にしなかったとか。大学では指導教官から海外の研究室で研究を続けるように説得されたけど、その誘いを蹴って、昔から夢だった教師の道へ進んだとか。


 神田先生が髪を切った日。私は一番新しいページを開き、神田先生があの綺麗な長髪を切った理由を書こうとした。だけど、みんなと同じような推測しか出てこなくて、私はペンを置き、ノートを閉じた。他のクラスメイトなんかよりも私は神田先生のことを知っているつもりだし、神田先生のことを考えている時間は長い。だからこそ、私は神田先生が髪を切った理由を、どうしても知りたかった。


 それでも、考えても考えても納得のいく理由は思いつかず、もやもやした気持ちを抱えたまま毎日が流れていった。時間が経つにつれて、みんな髪の短い神田先生に慣れていき、先生のことを話す人もいなくなった。それでも、私だけは神田先生が髪を切った理由を考え続けたし、考えれば考えるほど、その裏にはきっと深い理由があるはずだという確信が強くなっていった。


 そんなことばっかり毎日考えていたから、天文学部の部室で神田先生とばったり出くわしたとき、驚くくらい間抜けな声が出てしまった。私はうわずった声で、どうしたんですかと尋ねると、神田先生は部活動の予算について私に連絡があるんだと落ち着いた表情で答えてくれる。


 私は神田先生の近くの席に腰掛け、話を聞く。だけど、話なんて全く頭に入ってこなくて、私は先生の短い髪を見つめ続けた。そしたら神田先生も私の視線に気がついて、どうしたの?と不思議そうな表情で尋ねてくる。


「いきなり短くしたから、まあ気になるよね」


 言葉に詰まった私をフォローするように、神田先生は微笑みながら言ってくれた。いつも表情ひとつ崩さずに授業をしている神田先生が見せたその表情に、私は思わずドキッとしてしまう。先生と話すだけでも私にとっては特別なことなのに、それだけではなく、私にだけそんな表情を見せてくれるのがどうしようもなく嬉しかった。夢見心地のまま、私は神田先生を見つめる。自分が憧れる、私の気持ちをわかってくれるたった一人の存在を。


「……どうして、いきなり髪を短くしたんですか?」


 そんな言葉が自分の口からこぼれた時、私はしまったと思った。神田先生はプライベートのことを聞かれることが好きじゃない。それはずっと前から知っていた。私は神田先生から少しでも嫌われないように、ずっとそれを避けていた。私は急いで質問を撤回しようとしたけれど、気持ちだけが先走ってうまく言葉が出てこない。嫌われてしまう。そんな考えが一瞬頭をよぎったけれど、神田先生は一切不快そうな表情を浮かべず、そのまま私を穏やかな表情で見つめ返すだけだった。


「こういうことは生徒に話すようなことじゃないんだけど……まあ、別にいっか」


 先生が言葉を濁しながらそっと私から目を逸らす。別にいっか。その言葉が私の頭を何度もリピートする。私は心臓の鼓動が速くなるのを感じる。それが顔に出ないように必死に表情を作りながら、私は神田先生の言葉を待ち続ける。神田先生の瞳の中に、蛇に睨まれたみたいに身体全体が硬くなった私の姿が見える。私と神田先生しかいない二人っきりの空間。息が止まりそうなほどに幸せなこの時間が、私の頭をぼーっとさせていく。そして、神田先生は躊躇いがちに口を開き、それから思い直したように口を閉じる。そして、もう一度口を開くとともに、囁くように言葉を呟いた。


「今お付き合いしている恋人が、短い方が好みって言うからさ、思い切ってショートにしてみたんだよね」


 それから神田先生は幸せそうに微笑み、他の先生には内緒にしといてねと念を押す。私は言葉を失いながらも、何とか首を縦に振る。神田先生は壁にかけられた時計で時間を確認し、職員室に戻るねと言って席を立ち上がる。残された私は先生の姿を見送ることもなく、そのまま虚空を見つめ続けることしかできなかった。


 頭の中では、神田先生の言葉が繰り返し再生され、右耳からは電子音のような耳鳴りがした。私は想像してみる。神田先生が嬉しそうに語った恋人を、神田先生がその恋人と一緒にいる姿を、その恋人から短い髪の毛を褒められて嬉しそうに笑う神田先生の姿を。


 胸の奥から吐き気が込み上げきて、私は手で口を抑える。左腕に神田先生を真似して伸ばしていた髪がかかり、鳥肌が立った。神田先生は、神田先生だけはそんなことはしないと信じていたかった。衝動的な気持ちを抑えきれないまま立ち上がり、髪をかきむしりながら狭い部室の中を歩き回る。そして、ふと私は机の上にある鋏に目が止まる。そしてそれから、椅子の背もたれにかけられた、神田先生のカーディガンに気がついた。


 私は反射的にハサミを手に持ち、それから神田先生のカーディガンへとゆっくりと近づいていく。憧れだった神田先生のカーディガンを手に取り、私はゆっくりとハサミを近づける。


 ずたずたに引き裂いてやろう。私はそう思いながらハサミを開く。そして、刃と刃の間にカーディガンの襟を持っていく。だけど、その瞬間。私の頭に、神田先生の姿と、それからカーディガンが引き裂かれたことを知ったクラスの人たちの好奇の表情が思い浮かんだ。


 その瞬間、私の心が揺れる。私はハサミを動かし、首元のタグの間に刃先を通す。それから深く息を吸い込んだ後で、タグだけをハサミで切り、私は泣きながら部室を後にした。

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