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08 口のきけない人魚姫

 



 はじめて中川が友達になったのは、たしか小学五年生の頃だった。


『なに読んでんの?』

『どうしてこんな難しい問題が解けるの?』

『こんど僕にも教えてよ』


 なんの偏見もなく寄ってくる中川を、はじめのうち私は警戒した。当時、孤独な日々を勉強にばかり費やし、テストの点数でクラス一位を連発していた私は、同時にクラスの中で加速度的に浮きつつあった。爽やかで、温厚で、誰とでも分け隔てなく好意的に接する中川は、誰もが認める高嶺の花。水底で息をひそめる私のことなど目に留まるはずもないのに、いつからか中川は私を関心のターゲットに据えてしまったらしい。体育の授業でチームを組むとなれば、中川は決まって私を「参謀」と称して自チームに引き入れた。帰り際に近所の河川敷へ寄って、土手に座って、私の薦めた本を一緒に読んだりした。中川の鶴の一声があれば、クラスメートたちの鬼ごっこやドロケイにも何不自由なく参加できた。

 六年生の学芸会で演劇をやったとき、あろうことか中川は私をメインヒロイン役に抜擢しようとした。アンデルセンの童話『人魚姫』をモチーフにした、異種族の少女と青年の悲恋を描くドラマだった。当然のことながら私の起用には猛烈な反発が沸き起こった。地味な私では比較にもなれない、きらきら可愛げな容姿の同級生が幾人も立候補するのを尻目に、そっと私はみずから辞退を選んだ。あとで中川に謝ると、中川は少し寂しそうに目尻をゆるめて、ううん、と首を振った。


『気にしないでよ。お節介を焼いてごめん。……でも僕、どうしても、綾瀬がみんなの前で輝いてる姿を見たくてさ』


 はじめて喉に何かが詰まる経験をしたのは、多分、そのときだ。私は真っ赤になって息もできなくて、返事もしないで逃げ出した気がする。

 学芸会では結局、台詞のない侍女の役をやった。中川の扮する王子様の傍らに立って、王子様とお姫様が絵本のような恋をはぐくむのを見ていた。わけも分からずギュッと胸を何かに掴まれて、苦しくて、切なくて、台本を読むのがつらくなった。息苦しさの原因は大きな大きな(あぶく)だった。中川のことを考えるたびに泡は膨らんで、ひとりぼっちの私を内側から絶え間なく圧迫した。

 きっと、これが恋なんだ。

 私は恋をしてしまったんだ。

 それもよりにもよって、決して手の届かない、私では釣り合うはずもない海の上の王子様に──。

 邪念を振り払うように私は受験勉強に没頭した。叶わない恋の痛みに比べれば、湯附の合格発表を待つ時間など苦痛のうちに入らなかった。念願の合格証書も奏の笑顔よりはくすんで見えた。もはや私は認めがたいほど恋に落ちていた。中川の何気ない善意を拒んで逃げ出すたびに、また(あぶく)が大きくなって、とうとう何も言えないまま卒業式の日を迎えた。

 卒業式自体の記憶はほとんどない。冷めた思いで来賓の話を聞いて、気持ちの入らない【巣立ちの言葉】を唱和したことしか覚えていない。私ひとりを置き去りにして、みんなは別れのムードを堪能していた。中川もそのひとりだったことに私は少なからずショックを受けた。裏切られたように感じる筋合いなどないのに、ホームルームが終わるや否や、耐え切れなくなって教室を出た。まっさらなままのアルバムも、ランドセルも、胸から外した花のブローチも置き去りにして、あてもなく校舎内をさまよった。

 これでぜんぶぜんぶ、おしまい。

 六年間の小学校生活も、中川に恋をして逃げ回り続けた日々も。

 今度という今度は中川も私を追いかけて来ないだろうと高をくくっていたから、藪から棒に中川が声をかけてきた時には驚愕のあまり心臓を吐きかけた。中川は気まずそうに視線をそらしたまま、『探してたんだよ』と畳み掛けた。そこから先の会話はいまも詳細に覚えている。自分だけじゃない、みんなも探していたと中川は言った。理由を尋ねたら『綾瀬のアルバムに誰も何も書けてないから』などと(のたま)った。私の自虐的な拒否反応にも耳を貸さないばかりか、今度は手を差し伸べて、教室へ戻るように催促を始めた。しまいに私は目を閉じ、耳を塞いでしまった。心も頭もいっぱいいっぱいだった。


『中川が何をしたいのかちっとも分かんないよ。そこまでして私をみんなのところに戻して何が嬉しいの。何も求めないでよ。何も期待しないでよ。だって私なんか邪魔者じゃん。私がいなくたってみんな楽しそうじゃん。私なんか、私なんかっ……』


 あまりの激しい拒絶に動揺したのだろうか。中川は言葉を失った。みずからの心に刃を刺し続ける私をなだめることも、笑い飛ばすこともしないで、茫然と立ち尽くしてしまった。その透き通った、あまりにも憐れな瞳の色に、私が先に耐えられなくなった。私は無我夢中で中川を押しのけた。名前を呼ばれても振り返らずに、みずからの足で教室へ駆け戻った。そうして、呆気に取られている同級生たちを尻目に、ランドセルを開いてすべてを詰め込んだ。手元に意識を集中させていたから、そのときのみんなの顔は見ていない。中川が私を追いかけてきたかどうかも覚えていない。たぶん追いかけては来なかったのだろう。無我夢中で校門を飛び出したとき、私の後ろには誰の人影もなかったから。


『うぇ……っ』


 その場で二、三度、嘔吐(えづ)いてしまった。粘っこい大量の何かが喉に絡みついて、血なまぐさい臭気を発していた。吐き気をこらえきれずにうずくまる私を、待ち受けていた仕事帰りの両親が介抱してくれた。悪かったね、式にも行けなくて。寂しかったでしょ──。口々に慰められながら私は咽び泣いた。泣いて、吐いて、また泣いた。足元には赤黒い水たまりができていた。叫びきれなかった無数の言葉が、想いが、暗い水底から延々と響いていた。

 あの日を境に、私の喉には赤黒い血のかたまりがこびりついている。伝えきれなかった言葉が錆びついて瘡蓋(かさぶた)になって、感情がたかぶるたびに喉が詰まるようになった。ただでさえ天邪鬼だった私は、あれから他人に思いの丈を明かせなくなった。憧れや愛情や感謝を抱くたび、まるで呪いのように(あぶく)まみれの血で喉が塞がる。吐き気ばかりが催されて、何も言えないまま、相手に見切りをつけられるのを待つことしかできない。ひかりやゆかりと友達でいられているのは、二人が幸運にも、私に見切りをつけなかったからに他ならないのだ。

 これは呪いだ。

 叶えきれなかった初恋の生んだ、二度と拭えない沈黙の呪いだ。

 アンデルセン童話の人魚姫は、足と引き換えに美声を魔女に奪われる。そうして最後には、声が出せないばかりに王子様への想いを伝えられず、その儚い命を海に散らしてゆく。きっと私の初恋も同じ末路を辿るのだ。

 口のきけない人魚姫は海の藻屑になるしかない。

 ずっと、ずっと、分かっていたはずだったのに。

 台詞のない侍女の役を引き受けると決めた、あの日から──。



 中川は帰りの電車に現れなくなった。

 乗った電車の時刻を教えていないのだから無理もなかった。

 勉強会を逃げ出して早々、メッセージアプリには中川からの着信が殺到した。私は返信するどころかメッセージを開きもしなかった。下手に既読をつけてしまって、返事の必要に迫られるのが恐ろしかった。当然、電車の時刻なんか伝えられるはずもない。私の家路はふたたびひとりぼっちに逆戻りした。

 スマートフォンの画面を点灯するたび、メッセージアプリのアイコンと中川の名前が目に入る。空腹でもないのに胃がシクシク痛んで、あらゆる負の感情が頭の中を引っかき回して、(うず)いた指が勝手に電源ボタンを押して画面を切ってしまう。ああ、また返信しそこねちゃった──。そうやって自業自得の罪悪感に溺れることを、この数日間、何度も繰り返した。

 もういいよ。

 惨めになるから謝らないでよ。

 中川は悪くないよ。私の期待が重すぎただけなの。ろくに連絡も取っていなかったくせして都合よくみんなと復縁しようだなんて、身の丈に合わないことを願った私が悪かったの。そんなに頭を下げられたって、どんな顔で相対すればいいのか分からないよ。


「はぁ……」


 (にじ)んだ涙を嘆息で誤魔化しながら、くたびれた英語参考書の世界へ私は逃げ込んだ。夕刻の電車は今日も混んでいた。窓の外の景色も見えないから、気を紛らわせる手段は参考書の挿絵や例文くらいのものだった。


【I could’ve been honest if I had wanted to.】


 ぱらり、何気なくめくったページの隅に、太文字で強調された例文を見つけた。鈍い頭で私は読解を試みた。過去の事実に反することを述べる、仮定法過去完了の倒置形だ。意味は「素直になろうと思えばなれたのに」。

 ぐったりと吊革に掴まって私はうずくまった。

 和訳なんか試みたのを心底後悔した。

 思えば、変わるチャンスは何度も与えられていた。素直になろうと望めばなれたのに、そうしなかったのは私自身の問題だ。くだらない羞恥心や自己嫌悪を言い訳にして、恋心の片端も口にできないでいるうちに、中川は自分に正直な梅島さんのものになった。当然の帰結だ。口のきけない人魚姫は海の藻屑になるしかない。三年前の痛ましい教訓を反芻するたび、閉じたまぶたの裏に二人の目合(まぐわ)う姿が浮かんで、また涙が込み上げて、鼻を啜りながら私は参考書を胸に抱いた。やっぱり私の人生なんて反実仮想だらけだ、と思った。



 制服の再導入という重大議案を前にして、湯附桐友会は全校生徒を対象に校内アンケートを行った。実際に再導入するとなれば保護者には費用負担が、学校側にはデザイン制作や業者への発注、在庫管理の手間が否応なしに発生する。それらの計り知れない負担を鑑みれば、いくら賛同意見が多くとも安易に推進するわけにはいかない。そこで、意思決定の前段階として、全校生徒のニーズを把握するための事前調査を実施することに決まったのだった。


「これ、アンケートの結果です」


 表計算ソフトのデータを印刷して持ち寄ると、長髪の先輩は「お」とソファから立ち上がって、干したばかりの衣類みたいに顔をほころばせた。青井(あおい)(じゅん)、高校二年生。部活にも入らずにふらふらしていた私を生徒会メンバーに引き入れた、湯附桐友会の現生徒会長だ。


「仕事が早いねぇ。さすが、私の見込んだ優秀な後輩だ」

「やることを積み残すの、嫌なので」


 嘘つき。中川への返信は積み残してるくせに。滲み出した卑下を愛想笑いで拭って、青井先輩と一緒に資料を覗き込む。どれどれー、と言いながら他のメンバーも寄ってくる。今度のアンケートでは賛否は問わず、意見や感想を自由に寄せてもらった。おかげで集計には手間取ったけれど、より実態に即した声を集めることができたと自負している。

 やはり賛成の意見が多い。いや、でも反対の意見も根強い。そもそも無関心だという層も一定数はいるようだ。性差が賛否に影響を与えているようにも見える。そりゃ、可愛い制服を着たい女子の方が賛成に回りやすいだろ──。さっそく侃々諤々の議論が飛び交うのを、一歩引いた場所から他人事の気分で眺める。話し合いに加わる気力が湧かないのは、画面の放つブルーライトに体力を奪われたせいだ。「トイレ行ってきます」とつぶやいて、足音を忍ばせながら生徒会事務室を抜け出した。「行ってらっしゃい」と応じたのは青井先輩だけだった。

 昼休み中の校舎には無秩序な喧騒が延々とこだましていた。トイレは口実に過ぎなかったので、トイレの前も素通りして廊下を歩いた。教室にでも戻ろうかと考えたけれど、やめた。ゆかりは部室にいるはずだし、ひかりはなぜか学校を休んでいる。迎えてくれる人のいない場所に乗り込む気力を、いまの私はとうてい振り絞れなかった。

 空虚だ。

 あらゆる努力が無価値に思えるほど。

 私自身は制服再導入に賛同じゃない。なんちゃって制服での登下校にも満足している。でも、多数派の生徒たちが再導入を望むのなら、ちっぽけな私ごときが何を言っても逆らえない。私は声の小さな人間だ。どんなに心が悲鳴を上げていても、噛み殺すことでやり過ごす以外の処世術を知らない。いつだって本音は二の次だ。悩みも、不安も、好きな気持ちさえも。


「……返信、しなきゃ」


 うつろな目で私はスマートフォンを取り出した。

 中川からのメッセージは相変わらず未読無視のまま放置してあった。

 ああ、怖い。中川の心に触れたくない。だけどそろそろ向き合わなきゃ、せっかく手にした中川との縁さえも千切れてしまう。震える指でメッセージアプリを開き、中川のアイコンを押す。五件もの新規メッセージが画面に並んだ。おおむね予想を裏切らない言葉ばかりだった。

 中川は延々と謝り倒していた。楽しい場にできなくてごめん、もっと人を呼びたかった、もっと僕が場をリードするつもりだった、云々。どれも穿った見方をすれば身勝手な後出しの自己弁護に過ぎないのだけど、いくら非難めいた台詞を心に並べても、(しび)れた指先は動かない。弾切れだ。糾弾の文句は店の前でみんな中川にぶちまけてしまった。勢いのまま、思ってもいないのに。

 どうしよう。

 どう(したた)めたら私の真意が伝わるのだろう。

【許す】じゃない。【気にしてないよ】でもない。そんな上から目線の態度を取る資格もないし、そもそも私自身、まだ中川に向かう感情の整理をつけられていない。いくらか気分の落ち着いた今もやっぱり、心の底では中川を許せないし、同じくらい気にかかって仕方ないのだ。もう梅島さんとはキスも済ませたのかな。()()()()()()もしたのかな。あれだけ身体の距離が近かったのだから、きっとぜんぶ経験しているんだろうな。私は何一つ経験できていないのにな──。嫌いになる材料を集めれば集めるほど、かえって下劣な関心がうずたかく募って、矛盾に耐え切れなくなった頭が割れるように痛み出す。

 ああ。

 もっと頭が空っぽで、難しいことなんか考えずに行動できる人間だったらよかったのに。

 ひとまず仮に【うん】とだけ打ち込んで、廊下にもたれかかる。重たい頭をもたげると、ぱたぱたと廊下を駆けてくる女子生徒の姿が視界に映った。どこか見覚えのある格好だった。ジャケットの下にオーバーサイズのパーカーを合わせていて、髪型はショート。


「おはよ、あかりっ」


 ひかりだった。広めの肩にリュックサックを担いでいる。びっくりした拍子に私は送信ボタンを押してしまった。なんの応答にもなっていない【うん】の二文字が、中川のチャット欄にスタンプよろしく表示された。しまった、やっちゃった。隠し切れない動揺で青ざめた私を、「おやおや?」とひかりが猫みたいに覗き込んでくる。


「誰とメッセージやり取りしてんの」

「見ないでよ! やり取りなんてしてないし」

「でも熱心にいろいろ打ち込んでたじゃん」

「違う、打ち込んでたんじゃなくて……」


 私は無我夢中でスマートフォンをポケットに押し込んだ。打ち込んでいたことには違いないが、実際に送ったのは【うん】の二文字きり。やり取りの(てい)などなしていない。


「だいたい()()()()じゃないでしょ。もう昼休みじゃん。なんで午前中来なかったの」


 なんでもいいから話題をそらしたくて、ひかりの格好を上目遣いに探り回した。「へへ」と彼女は鼻の下を掻いた。


「許してよ。ちゃんと休みの連絡は入れてたよ」

「別に怒ってるわけじゃないけど……」


 私は手持ち無沙汰の腕を組んだ。今日、ひかりが午前中いっぱい授業を休むことは、朝のホームルームの時に担任教師の口からも聞いていた。健康体のひかりが授業を休んだのは、インフルエンザを除けば今度が初めてだった。


「ちょっと……用事があってさ」


 ひかりは露骨に目をそらした。

 その細い指が、スカートの下に穿いたスパッツを引っ張って直すのを、私は眉をひそめながら見つめていた。大きいけれども繊細な指だ。バスケットボール部の厳しい練習に耐えられるようには見えない。そういえばいつからスパッツなんか穿き始めたのだったか。入学した頃はもっとガサツで、胸元や下着が見えたからって気にも留めない子だったのに。


「通院?」


 当てずっぽうに問いただしたら、ひかりは凍り付いた。


「え、なんで分かんの」

「なんでって、前に話してたじゃない。通院の予約がどうとかって……」


 尋ね返す私の声も当惑に揺れた。健康体のひかりが病院の世話になる理由が思い当たらないと、ゆかりと一緒に(いぶか)ったのを覚えていた。もしや、重篤な持病でも見つかったのか。あるいはまだ検査の段階か。

 ひかりは大袈裟に手を振った。


「違うってば。そんな深刻なことじゃないよ」

「じゃあ何なの」

「なんていうか……心のケア的なこと。心療内科ってやつ」


 いよいよ私は言葉を失った。心療内科の世話になるほど鬱屈した心をひかりが抱えているようには見えない。心療内科ってもっと、鬱病とか、双極性障害とか、そういう心の病に侵された人が頼る場所じゃないのか。粘り気のある不安が身体の節々から染み出てくる。血の気の引いた私を見て、「そんなことよりさ」とひかりは強引に話題を切り替えにかかった。どうあっても詳しい事情には触れたくない様子だった。


「例の初恋の男子との件、どうだったの」


 今度は私の顔が引きつる番だった。


「え。なんのこと……」

「とぼけないでよね。先週末の日曜日、勉強会やってきたんでしょ」


 ぐいと背中を曲げたひかりの顔が迫る。壁に追い詰められながら私は(ほぞ)を噛んだ。迂闊だった。奏のことを悪く言われて以来、二人の前では勉強会の件は()()()()()()にしていたつもりだった。


「……とっくに忘れてると思ってた」

「忘れるわけないじゃん。鶏じゃないんだから」

「別に……。普通に勉強して終わったけど」

「いま嘘ついたね、あかり」

「はぁ? 何の根拠があってっ」

「鼻の頭が赤くなってる」


 私は真っ赤になって鼻の頭を手のひらで隠した。


「まぁ、あかりの個人的な人間関係だしさ。あたしがどうこう口を挟むことじゃないのもわきまえてるよ。でも、ほどほどの付き合いにとどめておいた方がいいと思うな、あたしは」


 肩の力を抜いたひかりが微笑する。艶やかな黒一色の瞳が、情けなく赤らんだ私の佇まいを静かに映している。いたいけな私をいびろうとたくらむ意地悪な眼差しには見えなかったけれど、それでもちょっぴり心が硬くなって、私は身を縮めながら「経験者は語るっての?」と言い返した。ひかりの眼差しが揺れた。ぼうと瞳の奥に暗い光が走るのを私は見た。


「どう思ってくれてもいいけどさ。あかり()()しんどい思いをしてほしくないんだよ。……これだけは嘘じゃないよ」


 静かな言葉の(はら)む重みに呑まれて、私は黙り込んだ。与えられた示唆の意味を噛み砕く暇もくれないまま、眼光を緩めたひかりが「行こ」と私の手を取る。引きずられるままに廊下を歩きながら、中途半端に終わってしまった中川とのやり取りを思い返した。あんなにも切実な誠意を【うん】の二文字で()なされた中川が、いまごろどんな心境でたたずんでいるのか想像もつかなかった。想像したくもなかった。共感したら私の負けだと思った。──だって、裏切られた痛みに震えて立ちすくんでいるのは、ここにいる私も同じなのに。





「俺たち、もう、素直に何でもかんでもさらけ出せる歳じゃないんだ」


▶▶▶次回 『09 答え合わせ』

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