06 卒業式の夢
私の葛藤などそっちのけで、中川は勉強会の詳細を詰めていった。十二月十九日の午後四時、北千住駅西口のファミレス『Daily’s』で集合。終了時刻は特に決めない。ずいぶん中途半端な集合時刻だと思ったら、肝心の中川が直前まで塾で授業を受けていて合流できないのが理由らしい。
【先に集まって話しててもいいよ】
【ぜんぶで七人くらい来ることになってる。舞とか暁とか、あと数人】
【綾瀬のことはとりあえず秘密にしてあるんだ。びっくりするだろうな、あいつら】
ポップアップに浮かび上がる中川からのメッセージは無邪気そのもので、まるで私と旧友たちの再会を本気で心待ちにしているみたいで、息をひそめていても胸が苦しくなる。私はベッドの上で寝返りを打った。重たいスマートフォンを放り出して、布団に埋もれながら返信を考えた。
梅島舞、小台暁。懐かしい名前だ。卒業アルバムに頼らなくとも、なんとなく当時の面影を思い起こせる。おしゃまでお洒落で、流行にも敏くて、甘え盛りの仔猫みたいに天真爛漫だった梅島さん。無口で大柄で、マイペースで、冬眠明けの熊みたいに穏やかだった小台くん。話したことも遊んだこともあるけれど、私とはあまり馬の合わない二人だった。厳密には逆で、私が二人にとって馬の合わない異分子だったのだろうけど。
白けた眼差しの二人をひと思いに脳裏から拭い去って、溜め息をつく。扉を開けたままのクローゼットが目に入る。勉強会の格好、どうしよう。下手に格好つけた私服を着込んでいって、目を付けられてはたまらない。登下校用のブレザーが無難だろうか。狭いクローゼットの中身を脳内で整頓しながら、はたと私は嘆息した。母校の湯附に制服がない現状を、初めて少しだけ恨めしく思った。
「灯里?」
ドアの向こうでお母さんの声がする。
「起きてるの。風呂入るなら入っちゃってよ。あんたが入らないならお母さんが入るから」
見上げた壁掛け時計が午後十時過ぎを指している。鈍重な上体が持ち上がらず、布団に埋もれたまま「あとでいい」と返すと、お母さんは「そう?」と語尾を上げて扉の前を去っていった。ぐったりと力を抜いて、指先を太ももに這わせる。肌荒れの治った太ももの表面がつるんと滑る。痴漢の付きまといが始まって以来、帰宅したら真っ先に風呂へ飛び込んで垢を落とすのを習慣にしていたけれど、それも最近は必要なくなった。だって今は、中川が守ってくれるから。
中川がいなきゃ怖くて動けない。
私は泣きたくなるほど脆弱だ。
【私も中川と一緒に合流する】
重たい頭をもたげてスマートフォンを拾い上げて、返信の文面を打ち込む。これでひとまず眼前の懸念は片付いた。既読の表示がついたのを確認して、返事を待たずに私は布団をかぶった。もう思い悩むのは懲り懲りだった。胸を脅かす不安も、緊張も、懲りずに湧いてくる淡い泡も、霞のように垂れ込める微睡みのなかへどろりと溶けて混濁した。
中学受験を決めたのは小学五年生の時だった。
当初、何よりも苦心したのは志望校選びだった。そもそも私は湯附に惹かれて受験を決めたわけじゃない。私の学力に適した進学校で、かつ学費の安い国公立といったら、選択肢はおのずと絞られた。お金や時間のロスを考えると、通学事情の悪い遠方の学校を選ぶわけにもいかなかった。さんざん重ねたフィルターの底に最後まで残った候補が湯附だったから、目指した。志望理由はたったのそれだけ。
受験を勧めたのは両親だった。遊び盛りの貴重な時間を勉強に費やすことになるのだから、嫌がられても仕方のない提案だと両親も覚悟していただろう。それでも二人の説得は根強かった。たとえ地球上の誰もが味方になってくれなくても、学問だけは灯里を裏切らない。努力は決して嘘をつかない。だから受けてみなさい──。丹念な両親の言葉には、実際、相応の説得力があった。我が家は共働き家庭だ。お父さんも、お母さんも、いろんな事情で大学を出られなくて、苦労の末にたどり着いた職場で薄給の長時間労働に喘いでいる。一人娘の私に同じ経験をさせたくないのだと推し量るのは、幼い私にも難しいことじゃなかった。
だけど、おそらく二人の想像にも及ばないような理由で、私は両親の提案に賛同した。
受験を選んだのは、桜葉小の世界から逃げるためだった。
当時、友達の少なかった私はクラスの中で浮いていた。最低限の挨拶や社交辞令を交わすくらいはできたけれど、みんなは私を遊びには誘わなかったし、私の側からも誘いかけられなかった。きっかけは知らない。ボタンを掛け違えた瞬間を覚えている人なんていない。同じ空気を吸って、同じ時間を共有してきたはずなのに、ものの考え方とか価値観とか趣向とか、そういうものが少しずつ食い違って、私はみんなに置いてゆかれた。たったひとりの例外は中川くらいのものだった。中川だけは私を仲間はずれしないで、クラスメートとして平等に扱ってくれたけれど、そんな存在が一人二人いたところで焼け石に水だったのも確かだ。逃れ得ない息苦しさに追い立てられながら私は勉強した。中学受験を成功させればすべてをリセットできる、そうしたら何かが変わるのだと信じて、一心不乱にペンを握った。
結論から言えば、私の願いはたぶん叶ったのだと思う。中学ではそれなりに友達にも恵まれて、ひかりやゆかりのように親友と呼べる存在もできた。そしてそれは、小学校の交友関係を残らず生贄に捧げた結果でもある。私は正真正銘、みんなとの縁を切った。連絡先も交わさなかった。様子を怪しんだ中川に問い詰められるまでは、湯附への進学も黙っているつもりだった。後悔はない。あのまま無理をしてクラスメートとして付き合い続けることが、お互いのためになったとは思わない。小学校の交友関係を手放したくらいで独りぼっちに陥れるほど、東京の街はちっぽけじゃない。──そうと頭では分かっているのに、いまも喉の中には分厚い瘡蓋が残っている。あの卒業式の日、煮えたぎる血のような本音が喉に溜まって絡まって、やがて冷えて生まれた瘡蓋だ。
私はみんなの前から逃げた。
向き合う努力をしないで逃げた。
憧れも羨望も初恋も、ぜんぶぜんぶ投げ捨てた。
あれから三年近くの月日が過ぎた今も、喉を詰まらせる瘡蓋はまだ癒えない。
微睡みの彼方で夢を見た。
風にひるがえったカーテンが頬を叩いて、私は顔を上げた。
新調したばかりのブレザーの胸元には、真っ赤な花のブローチがついている。馴染みのあるチョークの匂いが鼻を包む。木目調の床板、整然と並ぶスクールデスク。見上げた壁には黒板が掛かっていて、その上には額縁入りの教育目標が鎮座する。【進んで学ぶ子 思いやりのある子 元気な子】──。そこは見慣れた千寿桜葉小学校の教室だった。見慣れないのは黒板の真ん中に大書された卒業式の日程だけだった。
一抱えもあるハードカバーのアルバムを手に、二十九人のクラスメートたちがたむろしている。和気あいあいと盛り上がって膨らんだ会話の風船が、私の席まで張り出してくる。風船を割らないように私は身を縮める。誰も私を見ていない。息を殺してたたずむ私は、まるで水槽の隅をたゆたう水草だ。カラフルなペンでメッセージを寄せ書きしながら、みんなは先を争って風船を膨らませる。──卒業しちゃったね。実感わかないよな。どうせ明日からも普通に遊ぶのにね。そういえば千住公園のトイレ、工事が始まって使えなくなってたよ。こないだ連載の始まった漫画が面白くてさ。近所にできたパン屋さんのチーズベーグルすっごく美味しかったな。二組の〇〇くん、受験して都立立国に行くんだって。へぇ、すごいね。うちのクラスも誰か受験したんじゃなかったっけ。そうだったかもね。まぁ、いいや──。
『私だよ』
蚊の鳴くような声で私は叫んだ。
精一杯の心を込めて膨らませた風船は、みんなの声に押し負けて呆気なく潰れた。
乾いた諦念が口をついた。──何をいまさら悲しみに暮れているのだろう。これまでだってこうだったのだから。私はここにいるよと叫ぶチャンスは何度もあったのに、いざとなると怖くなって、ありのままの心をさらけ出せなかった。受け入れられずに心を捨てられるのが怖かった。常人と異端の狭間に確かに横たわる、埋めがたい断層を認識するのが恐ろしかった。私が異端であることを受け入れたくなかった。そうして私はまた実在感を失う。誰の特別にもなれない泡と化してゆく。
耐え切れずにふらりと、何も持たずに教室を迷い出た。呼び止める声はかからなかった。あわい泡は誰の目にも留まらない。まっさらなままのアルバムも、ランドセルも、胸から外した花のブローチも置き去りにして、あてもなく校舎内をさまよった。ひとりきりになれる場所があればよかったのに、そんなものは女子トイレの個室くらいしか思いつかなかった。仕方なく、防火扉の戸袋の影にもたれかかって人目をやり過ごしながら、むなしかった六年間の学校生活を総括した。もっともそれも暇つぶしの名目でしかなくて、いまさら大層な言葉で総括するほどのことでもなかった。卒業式も終わり、最後のホームルームも済んだのに、アルバムの自由記入欄は白紙のままだ。私も誰かのアルバムに別れの言葉を書けなかった。つまるところそれが、私の費やした六年間の結果なのだった。
卒業式では泣けなかった。一丁前に別れを惜しむみんなの姿を目の当たりにして、ひどく心が醒めてしまった。四月になれば揃いの制服を着て、これまでと同じように学区内の中学校へ通うのに、みんなが何をありがたがって涙を流しているのか理解できなかった。お涙頂戴のパフォーマンスにはうんざりだ。本物の別れに直面している子なんて片手の指ほどしかいないくせに。私がどんな思いで登壇して、卒業証書を受け取って、【巣立ちの言葉】を唱和したか、誰も知らないくせに。
私は目頭に腕を押し当てた。
潰れるように胸が痛んで、ひびの入った心がぼろぼろ砕けて、防火扉の影で静かに泣いた。
見上げた未来は霧のように煙っていた。根拠のない自信に浸れるほど私は強くなかった。六年間を費やしても友達を作れなかったのに、中学や高校で豊かな人間関係に恵まれる保証はどこにもない。結局、三年後も、六年後も、あるいは十年後も、こうして私は性懲りもなく後悔に暮れるのだろうか。きっとそうなのだろうな。バカは死ななきゃ治らないんだ──。
ぐずぐずと際限のない悲嘆に溺れていると、不意に、すぐ傍らに人の気配を感じた。
私は顔を上げた。
ぐいと涙を拭うと視界が晴れて、壁にもたれかかった男子の横顔を鮮明に映し出した。
『ここ、いていい?』
私は息を詰まらせた。
あろうことか、そこにいたのは中川奏だった。首を振って拒んでも中川はよそへ行ってくれなかった。壁に背中を預けたまま、おぼつかない視線を足元へ向けて、いくらか居心地悪そうに中川は続けた。
『探してたんだよ、綾瀬。みんなも探してた』
『なんで私なんか……』
『だってまだ、綾瀬のアルバムに誰も何も書けてないから』
『意味わかんない。書くことなんてないでしょ』
『なかったら綾瀬のこと探してないよ』
おもむろに中川は手のひらを広げた。誘いかけるように『ん』と指先が揺れた。
『教室、戻ろう』
畳み掛ける声が優しい。僕の言うことに間違いはないよ──とでもなだめたげに、視界の隅で中川の口元が微笑んでいる。唇を噛みながら私は手のひらを見上げた。中川は私を待っていた。呼応するように右手がうずいた。確かな熱を抱いた私の手は、しかし持ち上げるにはあまりにも重くて、私は力なく目を伏せた。
無理。
私には握り返せない。
だって、求められる理由が分からないから。
見え透いた嘘をつかれたって心は動かない。みんなは私の出てゆく姿など気にも留めていなかった。わざわざ探し出してメッセージを書かせるほど、みんなは私に執着しているわけがない。ぜったい騙されない。のこのこついて行って教室に戻って、痛い目に遭うのは、中川じゃなくて私なのだ。
『取ってくれないの』
中川の声色が静かに淀んだ。かたくなに私は首を振った。
『取ってどうするつもりなの。引っ張って教室まで連れていくの。そんで見世物にでもするの?』
『違う、そういうわけじゃ……』
『もういいよっ。中川が何をしたいのかちっとも分かんないよ。そこまでして私をみんなのところに戻して何が嬉しいの。何も求めないでよ。何も期待しないでよ。だって私なんか邪魔者じゃん。私がいなくたってみんな楽しそうじゃん。私なんか、私なんかっ……』
いくら自虐を垂れても中川は道を譲らない。差し伸べられた手が遮断桿の役割を果たして、私は壁際に追い詰められたまま縮こまるばかりだ。いたたまれなさのあまりねじれて歪んだ心が、胸の中で悲痛な叫び声を上げる。──もう無理だよ。逃げよう。このままじゃ惨めになるだけだ。どうせ私は伝えられないのだ。ひとりぼっちで寂しかったことも、優しさをかけられることしかできない切なさや不甲斐なさも。こんなに突っぱねても私を友達のように扱ってくれる中川のこと、ほんとは好きで好きで仕方ないのに、胸が詰まって言葉にならない苦しさも──。
『…………っ』
無数の言葉が喉に込み上げて詰まって、血なまぐさい悪心に変わる。嘔吐きながら私は口元を押さえた。破裂寸前の風船のような私を前に、やがて穏やかな吐息を漏らして、中川は『分かってるよ』といった。何を分かっているのと叫び返すこともできずに私は顔を上げた。ひとしずくの光が頬を駆け下りて、床へ跳ねる前に、中川は続けた。
『綾瀬は真面目だから。うまく話せなかったり仲良くできないと、ぜんぶ自分が悪いって思っちゃうんでしょ。それでみんなに冷たいこと言われたりして、苦しそうにうつむいてる姿をいつも見てた。つっけんどんで不器用で、話しかけてもあんまり笑い返してくれなかったけど、綾瀬がそれだけの人じゃないってことは僕には分かってる。分かるに決まってるよ。六年も一緒に暮らしたんだから』
私は不器用に鼻を啜り上げた。否定できたらよかったのに、何ひとつ返す言葉を持たなかった。
『それでさ。不器用なのは、僕らも同じだから』
中川は口角を持ち上げた。自嘲にしてはずいぶん切なげな笑顔だった。
『本当はもっと、綾瀬のこと知りたかったんだ。仲良くなりたかったんだ。なかなかうまく話せなくて、糸口を掴めないまま卒業の日になっちゃったけど、このまま大人しく離ればなれになりたくない。綾瀬のことを諦めたくないんだよ。分かってよ。図々しい願いかもしれないけどさ──』
乱雑な足音が中川の言葉を遮った。身構えた私や、立ち尽くす中川を取り囲むように、ブレザー姿の同級生たちが立ちはだかった。引きつった喉から「あ……」と声が漏れた。にわかには信じがたい光景に、呆気に取られながら何度もまばたきをした。
クラスのみんなだ。
どうしてここに。
まさか、本当に私の姿を探していたのか。
『……私なんか、私なんかって、そんなに身を守ることばっかり言わないでよね』
肩で息をしながら、いちばん前の女子が呆れ顔で私を見た。ふわふわのツインテールが風に揺れている。子猫みたいな釣り目を寂しく光らせて、ふっと彼女は力を抜いた。丸い頬がほのかな赤みを帯びていた。
『仲良くなりたいなら素直に言ってよ。でなきゃ分かんないよ。わたしたちだってもっといろいろ話してみたかったんだよ。遊びたかったんだよ』
梅島さんだ。脳内の記憶と彼女の顔立ちが一致を見て、私は息を呑んだ。思えば、こんな容貌の子だった。ちょっぴり勝ち気で自信満々で、いつでも自分に正直で、仔猫みたいに誰からも愛されるクラスの人気者だった。
『……俺たち、別に綾瀬のこと、嫌いじゃないし』
端のほうで所在なげに立っている男子が、伏し目がちに私を見た。天然パーマの前髪に隠れた瞳が金色の艶を放っている。こちらは小台くんだとすぐに気づいた。どこか私に似て控え目で、物静かで、けれども他人に流されない大らかな子だった。いまも熊みたいな図体を傾けながら、手探りで私に話しかけてくれる。
一人、二人、三人。みんなは順繰りに私を見つめて、口々に言葉を重ねた。綾瀬さんのことを大事に思ってないわけじゃない。ただ、向き合い方が分からなかった。綾瀬さんは私たちと仲良くしたがらない子なんだと思ってた──。真摯な呼びかけの数々に胸が震えて、立っているのもつらくなる。うなだれる私の正面に中川が立った。差し伸べたままの手を『ほら』と振って、中川は笑った。寂静感を拭い去った本物の笑顔がそこにあった。
『いまならやり直せるよ。だから、もう心の声を隠さないでよ。アンデルセンの人魚姫みたいにさ』
床板を踏む足が震えた。
唇が痺れて上手に声を出せない。
啜り上げるたび、流しきれなかった涙が喉に流れ込む。喉に絡みついた血なまぐさい悪心が、涙に混じって見る間に流れ落ちてゆく。私は懸命に顔を上げた。吐き気の消えた喉は嘘のように通りが良くなって、詰まっていた言葉たちが次々と口の中にあふれ返った。
あのね。
私、ほんとはもっと、仲良くなりたかった。
自然に触れ合って笑い合って、当たり前のようにみんなを愛していたかった。
だけど私はどこまで行っても異端で、波長の合わない音符で、みんなと同じ譜面の中じゃ不協和音を生んでしまう。こんな私でもいいの。みんなに親しみを覚えていいの。中川の隣にいていいの?
いざなわれるままに踏み込んだ足が、ワックスがけの床面で派手に滑った。青ざめたときには上体のバランスが崩れていた。『うわわっ』──私は床に倒れ込んだ。沈むように視界が暗転する。みんなの笑顔が闇の底へ飲み込まれる。息を詰まらせながら私は手を伸ばした。ああ、待ってよ。消えてしまわないでよ。私、まだ何も素直に伝えられてないのに──。
どんと背骨の痺れる音が轟く。
目から星が散った。
「痛ったたた……っ」
涙目をこじ開けた私は、そこが自分の部屋であることに気づいた。私は抱え込んだ布団もろともベッドから転げ落ちていた。手のひらに握り込んだままのスマートフォンが二十三時過ぎを告げている。つけっぱなしの電灯がまばゆい。遠くの国道を行き交う車の音が、窓の外の街並みを時おり穏やかに濡らしてゆく。
中川への返信をしたためたきり、疲れて寝落ちていたらしい。メッセージアプリのやり取りに目を通しながら、ぼやけた記憶の輪郭をなぞる。最後に私の送ったメッセージには、既読の表示とともに【了解!】と敬礼するキャラクターのスタンプが押されている。私は布団もろともスマートフォンを抱え込んだ。夢で見た景色が記憶の底にまだ残っている。今、この瞬間もこうして中川と繋がれていることが、なんだかひどく奇跡めいて思えた。
足音が迫ってきた。
ノックを数回繰り返して、お母さんがドアを開いた。
「大丈夫?」
「ちょっと落っこちただけ」
抱えた布団に私は口元を埋めた。愚鈍な娘のありさまにお母さんは肩をすくめた。
「お父さん、まだ帰って来られないみたいだから。入るなら先に風呂、入っちゃって」
「もう十一時なのに?」
「終電には間に合わせるって。いつものことでしょ。灯里も就職するなら、頼むからもっと健全な会社に……」
「分かってるってば。何年先の話してんの」
溜め息をつきながらお母さんを追い出して、そっとドアを閉じる。将来を案じることの重要さもわきまえてはいるけれど、いまの私は目先のことで手一杯だ。悩ましい難題は無数にある。生徒会の仕事のこと、間近に迫る内部連絡入試のこと、痴漢のこと、それから──勉強会のこと。
まだ背骨が軋んでいる。スウェットのほこりを払い落として、足を引きずりながら本棚に向かった。本棚の隅には卒業アルバムが無造作に押し込まれている。固い紙面をめくって、私のクラスのページを探す。一面に並んだ同級生たちの笑顔に、音もなく心が引き締まった。
──『みんなもきっと綾瀬のこと覚えてるよ』
いつかの中川の台詞が耳元によみがえる。アルバムの一角に並ぶ中川の顔は、いまと変わらず穏やかで物静かで、変な笑いが口をついた。三年たっても少しも成長していないな。でも、だからこそ、雑踏の中で再会を果たせたのかもしれない。
ねぇ。
私、一度だけ、中川の言葉を信じてみようかな。
アルバムを抱きながら私は天井を見上げた。
どうして中川が私を勉強会に誘ってくれたのか、いまなら少しは分かる気がする。もはや参加は決まってしまったのだから、仮定の話ばかりしても埒が明かない。みんなに会ったら勇気を出して『仲良くなりたい』と言ってみよう。私の願いが届くことを信じてみよう。ひとりぼっちにならない未来を信じてみよう。みんなと向き合うのはまだ怖くても、せめて中川のことは信じていたい。だって中川は私の恩人だから。たくさん心をかけてくれた、忘れたくても忘れられない人だから。
ああ。
この祈るような胸の痛みを「恋」と呼ぶのなら。
きっと私、まだ中川のことが好きなんだな。
間抜けな音を立てて、また泡が喉に上ってくる。秒針の振れる音が気忙しく私を急かし立てる。すんと研ぎ澄ませた鼻の先に中川の匂いを思い起こしながら、私は最後に一度だけ、アルバムを抱きしめた。それからいそいそと着替えを取って風呂へ向かった。喉にこびり付いた瘡蓋のなまぐさい匂いは、いまは鼻腔に溜まった中川の匂いでちょっぴり誤魔化されていた。
「今からでもいいから私のことなんか忘れてよ」
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