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05 嫌い、怖い、疑い

 



【十九時十四分発の快速に乗ってる】

成田(なりた)行き?】

【たぶん。見てないけど】

【いつものドアだよな。二号車のいちばん前】

【変えてない】

【分かった。ちょうどいま駅に着いたとこ】

【うん】


 音もなく浮かんだ既読の表示が、事務的な会話の終端にピリオドを打つ。揺れる吊革にしがみついて居場所を確保しながら、メッセージアプリの会話履歴をぼんやり見つめた。急カーブに差し掛かった電車が左へ傾く。百足(むかで)のような無数の車輪が、悲鳴と火花を上げて軋む。耳の奥にまでこびりつく轟音の余韻がようやく途切れた頃、開いたドアの向こうから駅の構内アナウンスが聴こえてくる。南千住(みなみせんじゅ)、南千住、ご乗車ありがとうございます──。


「綾瀬」


 出入りする雑多な人垣のどこかに、私を呼ぶ声が響いた。

 私はスマートフォンをしまって脇を固めた。分厚い黒のダッフルコートに身を包んだ中川が、吊革のツタを渡るようにして私の前へ現れた。


「お待たせ」

「別に待ってないし。そっちこそ待ったでしょ」

「まぁ、ほんの数分くらい時間調整しただけ。おかげで単語帳も六ページ進んだ」

「……よかったね」


 冬晴れの空みたいに透き通った中川の眼差しに、すこし怯んだ心が硬くなる。そっぽを向いたまま吐き捨てたら、吊革を握りながら「どうも」と中川は口元だけで苦笑した。すかさず、静かに研ぎ澄まされた彼の眼差しが、私の身体を縁取るように飛び回る。防犯カメラの代わりに痴漢を探してくれているようだ。つんと痛んだ胸を私はカバンで隠した。胸の底から泡が上ってきて喉に絡んで、また少し、息が細くなる。大袈裟な咳払いをしたら中川が怪訝な顔をした。

 連絡先を交換してからしばらく経った。このところ私と中川は、わざと帰宅時間を調整して、同じ時間の電車で帰宅するように心がけていた。中川が言い出して始めたことで、一応、名目は痴漢対策のため。僕が隣にいれば手を出しにくいだろ、一緒に帰ろうよという彼の提案を、はじめのうち私は断った。わざわざ私のために電車賃を払わせるわけにはいかないと遠慮したのだけれど、どうやらそれは私の誤解だった。


【通ってる塾が南千住にあるんだ。こないだ久々に会ったのも、実は塾帰りでさ】

【綾瀬も忙しいだろうし、帰宅時間は僕の方で帳尻を合わせるよ。綾瀬の乗った電車に後から僕が乗り込んで合流すればいいだろ】


 中川の通学先の塾がある南千住(みなみせんじゅ)は、私たちの暮らす北千住と隅田川をへだてて隣り合う街だ。駅の西側には昔ながらの下町が、東側には貨物駅の敷地を再開発して生まれた超高層マンションや団地が並んでいる。そのぶん朝夕の乗降客も多くて、それまでどんなに混み合っていた下り電車の車内にも、南千住駅を過ぎると多少の隙間が生まれる。そのわずかな隙間を巧妙に縫って、例の痴漢は私の太ももを付け狙ってきていたのだった。

 中川と一緒に電車に乗るようになって以来、嘘のように痴漢は消えた。有象無象の人混みのどこかにハイエナの体臭を嗅ぎ取ることはあっても、そのハイエナが実際に手を出してくることはなくなった。こうして私はまたも中川に救われている。それも、現在進行形で。

 電車が鉄橋に差し掛かった。突き上げるような金属質の轟音と衝撃が、私たちの居場所を足元から断続的に揺さぶる。目の前には中川の胸板がある。バランスを崩しかけて、頼りない吊革にしがみつく。ぎりぎりと革の痺れる音が響く。


「混んでるな」


 中川がつぶやいた。


「普通でしょ、このくらい」

「これでも普通なんだ」

「もっとひどい日だってあるし。いちばん混んでる時は身動き一つ取れない」

「大変だな、電車通学って」

「別に。もう慣れたから」

「そこまでしてでも行きたかったんだな、湯附」


 ほんの些細な言葉選びが心に刺さって、私は返事を取りこぼした。中川の目はどこか遠くを見つめている。軋む胸を押し隠して、なんなの、と無言で毒づいてみる。私の選んだ学校を悪く言うつもりなの。それとも、桜葉小のみんなを捨てて湯附に進学した私のこと、遠回しに非難してるつもりなの。


「それ、どういう意味──」


 こらえきれずに発した疑問符が、足元の大きな揺れにあおられて倒れた。

 電車がブレーキをかけた。なすすべなく振り回された身体が、中川の胸に向かって大きく傾く。「うわ」とうめいた中川が、のけ()って私を避けた。吊革がなければ床に倒れ込んでいるところだった。車内放送は延々と乗り換え案内を続けている。隅田川をまたいで橋を下りた電車は、迫る駅構内に向けて減速を始めていた。

 避けられた。

 しんと胸に走った痛みで、一瞬ばかり表情が抜け落ちる。視界の外で「その」と中川が言い訳がましく弁解を始めた。


「不可抗力だとしても誰かに身体が触れるのは嫌かなって思ってさ。特に綾瀬はほら、痴漢の件もあったし……」


 私は無言で体勢を立て直した。聞き入れられなかったと誤解したのか、まだ中川は不器用に言葉を繋ごうとしている。私が一睨みすると中川も大人しくなった。ついでに電車も止まって、いっときの静寂が車内へ流れ込んだ。

 出任せじゃないのは分かっている。中川は本心から私の気持ちを(おもんぱか)って、私の嫌がることを排除しようと努めてくれたのだ。ただ、その優しさの純度に私が耐え切れなかっただけ。その大人びた優しさを素直に受け止められるほど、まだ私が大人になれないだけ。

 ああ。こんなとき、素直に「そういうところは嫌い」って言えたらな。

 もちろん言えるわけがなかったから、私は黙ってカバンを抱きしめて、一足先に北千住駅のホームへ降り立った。「待ってってば!」と小声で叫びながら中川が後をついてきた。



「好きになるのに理由は要らない」なんて言うけれど、そんなの嘘っぱちだと思う。好感の根っこには必ず何らかの興味関心があるわけで、何の取っ掛かりもなければ人は誰かを愛せない。──なんて偉そうに語る私も、中川のどこが好きで、どうして好きになったのか、実のところ上手く言葉にできないでいる。八方美人なところとか、ちょっと配慮に欠けるところとか、嫌いなところはいくつも列挙できるのに。本当は私、中川のことなんか好きじゃなくて、ただ後ろ向きな興味を恋心のように誤認しているだけだったりするのだろうか。「好きの反対語は無関心」なんて言葉を道端で見かけるたび、ほのかな気の迷いと後ろめたさで胸がちくちくする。

 だいたい幼馴染面で中川の為人(ひととなり)を語れるほど、私は中川に詳しくない。趣味も、交友関係も、家庭の事情もほとんど知らない。父親がどこかの有名企業の重役で、家庭も相応に裕福らしいと、噂話を小耳に挟んだことがある程度だ。それさえも私自身の口から聞き出したわけではない。関心の所在がバレれば中川に疎まれてしまいそうで、卒業式を迎えるまで一言も話しかけられなかった。私は今も、昔も、救いようのない引っ込み思案だった。


「……今でも本とか好きなの、綾瀬って」


 大通りの交差点に立って青信号を待ちながら、沈黙を(いと)うように中川が切り出した。片側四車線の広い道路を大型車が風を切りながら行き交って、並ぶ私たちの顔に排気ガスを塗りたくる。国道四号線、日光街道。江戸時代の五街道・奥州道中の系譜を継ぐ、青森県まで続く日本最長級の国道らしい。


「別に。本が好きってわけじゃないし」

「でも小学生の頃、熱心に読んでただろ」

「ほかにやることがなかっただけ」

「じゃあ何が好きなの」


 私は口をつぐんだ。いざ改まって問われると、うまく自分を説明できる言葉を持ち合わせていなかった。趣味らしい趣味なんてほとんどない。予定が合えばひかりやゆかりと落ち合って遊ぶこともあるし、ひとりで映画や美術展を観に行ったりもするけれど、そんなものを逐一趣味と称するのはみじめだ。


「……そういう中川は何が好きなわけ」


 思い切って尋ね返してみる。私が中川のプライベートに踏み込む質問をするのは、たぶんこれが初めてのことだった。どうしよう、質問を質問で返しちゃった。気を悪くされたかな。浅い息を繰り返す私の前に、中川は「これ」とスクールバッグを持ち上げた。カタツムリみたいな楽器のキーホルダーが、ファスナーの穴に紐で結わえられて下がっていた。


「もう引退したけど、吹部やっててさ。ホルン吹いてた。桜葉小の金管バンドにも入ってたんだけど覚えてない?」


 覚えてない。歌が上手だったことと、母校の金管バンドがいくらか有名だったことを辛うじて思い出せる程度だ。ほら、やっぱり私、中川のことなんか何も知らないや。うごめく胃痛を黙ってこらえたら、幸運にも「そうだ」と中川が話題を切り替えた。


「好きって話で思い出した。綾瀬、食べ物の好き嫌いってある?」

「なんでそんなこと……」

()()()の日程、近づいてきてるでしょ。店選びをどうしようかと思ってさ」


 トレーラーの排気を頭からかぶって私は立ちすくんだ。十二月十九日の()()()まで、そういえばすでに残り五日を切っていた。嫌な物事を思い出させることにかけては中川は天才の域だ。もちろん褒めてはいない。そういうところも嫌い。


「……私は別に、何でもいい。だいたいのものは食べれるし。みんなの好きなものにしたらいいんじゃない」


 本性隠し半分、鎌かけ半分の気持ちで返してみる。「そっか」と中川が頭を掻く。


「駅前のファミレス、適当に探してみようかな。どうせあいつら何でも食べるだろうし。長いこと居座るから空いてるところがいいよな」

「何時間やるつもりなの」

「決めてない。けど、日曜日だし何時間でも大丈夫でしょ?」


 無邪気に切り込んできた中川の眼差しが怖くなって、思わず私は目をそらした。うなずくことも首を振ることもできなかった。ぼうと赤く光ったままの歩行者信号が道の彼方に霞む。押し黙る私と中川の間に、北風が滑り込んできて落ち葉を舞い上げた。

 大丈夫なわけがない。そもそも時間の問題じゃない。中川の前では顔に出せないだけで、いまも胸の底は垂れ込めた恐怖に震えている。三年ぶりの再会を果たしたみんなに、どんな顔で迎え入れられるのか想像もつかない。何時間も一緒にいたところで、思い出話が長続きするとも思えない。だって、私はみんなの思い出の世界にいないから。


「……心配しなくたって、みんな綾瀬のこと覚えてるよ」


 ポケットに手を突っ込んだ中川が微笑んだ。


「みんなが覚えてなくたって僕が覚えてる。僕も参加するんだから、綾瀬は絶対ひとりぼっちにならないだろ。だから何も怖くないよ」

「怖いなんて言ってないでしょ」

「顔が言ってる」


 私は泡を食いながら顔をマフラーに隠した。

 血の集まった耳が熱を帯びながら赤らんでゆく。まただ。このバカ正直な顔が、醜い本心をぜんぶ露呈してしまう。みじめな私を見て中川は笑った。屈託のない、くすぐったそうな笑顔だった。

 信号が青に変わった。

 一足先に中川が横断歩道を渡り始めた。

 私は出遅れながら中川の背中を見つめた。すらりとして、華奢で、だけど大きな背中。私を痴漢から守ってくれた勇敢な人が、風の向こうへ遠くなってゆく。追われるようにぎこちなく踏み出した足が、冷たい北風に巻かれて(こご)えた。

 あの背中にすがりついて温もりに溺れてみたい。

 この身体も、心も、何もかもゆだねて甘えたら、怖いものなんて何もなくなるのだろうか。

 きっと中川は笑って私を受け止めてくれる。泳げない我が仔を見守るイルカのような、くすぐったげな屈託のない笑顔で、ほかの子たちと同じように私を気に掛けるのだろう。そこにあるのは多分、分け隔てのない博愛精神だけだ。私だけのために調合された愛情じゃない。私が中川の特別だったことなんかこれまで一度もない。そして、これからも。

 ぐっと喉の奥から吐き気が込み上げる。

 耐え切れずに「ねぇ……」と小声で呼びかけた。往来するトラックの爆音が私の声を消し飛ばした。中川は振り返らない。勢い余って嘔吐(えづ)きながら私は中川を見上げた。息が上がって、足が重くなって、熟れすぎた柘榴(ざくろ)が胸のなかでじゅくじゅくと傷み出した。

 ずっと、尋ねてみたかった。

 どうして私を助けてくれたのって。

 どうして私に心を配ってくれるのって。

 中川の意図が私にはちっとも見えない。ただの目立たない群衆(モブ)の一員でしかなかった私に、こんなにも中川が執心する理由が分からない。電車内で再会を果たしたあの日、羞恥心と動揺のあまり逃げ出した私を、わざわざこうして引き留めたのは中川だ。連絡先の交換を望んだのも、勉強会への参加を望んだのも、一緒に帰宅することを提案したのも、ぜんぶ私じゃなくて中川だ。理由らしい理由を明かしてくれたことは一度もない。『再会できて嬉しい』なんて台詞も、あのときは舞い上がってしまったけれど、冷静に考えればやっぱり変だ。だって私は再会を喜ばれるに値するような人間じゃない。可愛くもないし、口下手だし、素直じゃない。

 本当は疑いたくない。私を助けてくれた、好きだった人のことを悪いようには思いたくない。だけど私は弱いから、嫌でも勘繰ってしまう。膨れ上がった不安が吐息に変わって視界にもやをかける。中川の背中がますます見えなくなって、喘ぐように私は足取りを早めた。


──『あかり、騙されてるのかもよ。あかりを連れ込んで変なことしようって腹なのかもしれないよ。悪いこと言わないからやめときなよ』

──『初恋なんて叶わないもんだよ。逃げられなくなる前にキャンセルした方がいいよ』


 ひかりやゆかりの忠告が、生々しいぬめりを帯びて心にまとわりつく。私は無我夢中でそれらを振り払った。うるさい。二人に言われなくたってそんなことは私も分かってる。だけど中川は確かに私を助けてくれたんだ。気づいてもくれなかった二人とは違うんだ──。なまぐさい意地を張りながら追いついた私を、「どうかした?」と中川が優しい声で案じた。





「私なんか、私なんかって、そんなに身を守ることばっかり言わないでよね」


▶▶▶次回 『06 卒業式の夢』

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