03 再会
護国寺駅から地下鉄有楽町線で池袋駅まで。そこから山手線で日暮里駅へ出て、さらに常磐線に乗り換えて数駅。毎日、毎日、片道三十五分、三九〇円の電車旅。三年も続ければさすがに慣れたものだけど、通学電車にはろくな思い出がない。二度も乗り換えを強いられる上に、朝も夜も車内は鮨詰めの満員。おまけに最後の一区間には、先月から卑劣な痴漢がひそんでいる。
南千住駅を出た常磐線の電車は、モーターを唸らせながら隅田川の橋を渡り始める。ざらついた指が肌に触れて、私は目を閉じる。声を出すまいと懸命に唇を結んで息を止める。昨日、中川に邪魔された腹いせのつもりなのか、今日の痴漢はいくらか執拗だった。橋を渡り終えた電車が隣の北千住駅に滑り込むまで、わずか数分の乗車時間が途方もない長さに思われた。
私の身体が刺激に弱いのは事実だ。痴漢の手つきに快感を覚えたことなど一度もないのに、触れられただけで痺れが走って、底の知れない穴が足元に開く。あの穴に落ちたらどんな目に遭うのか、想像するだけでも鳥肌が立つ。私は吊革にしがみついて転落を免れながら怯えるばかりだ。向こうも変に器用なもので、胸とか、下着とか、その上に重ねている短パンとか、私の決死の抵抗を招くような場所は触ってこない。
こんな姿を誰かに見られたと考えるだけで死にたくなる。ドアが開くや否や、鳴り響く発車メロディに叩かれながらホームへ飛び出して、そのまま一目散にトイレへ駆け込む。鏡の中の顔を覗き込んで、耳が赤らんでいないのを確かめる。バカ正直に自分の容態を知らしめる、素直な私の身体が嫌いだ。私は蛇口に手を広げて、掴んだ冷水を顔にぶちまけた。氷のような痛みが顔を覆って、目頭の堰がふっつり切れた。
最悪。
どうしてよりによって私なの?
いつまでこんなことが続くの?
なまぐさい血の匂いが鼻腔いっぱいに広がる。涙を啜りながら私はむせ返った。お風呂を沸かしておいてもらって、帰ったら真っ先に入ろう。ぜんぶぜんぶ洗い流してやるんだから。引っ張り出したハンカチで顔を拭って、それからスマートフォンの画面をつける。家族のグループチャットを開くと、そこにはすでに私宛てのメッセージが表示されていた。お母さんからの言伝だった。
【帰りがけにパン買ってきて】
【桜葉小の角のサクラベーカリー、今日セールやってるみたいだから】
私は真っ黒の溜め息をついた。私に買い物を頼むのは、お母さんが定時退勤できなかった証拠。沸きたてのお風呂は期待すべくもなかった。
振り返れば、連なる電柱や街灯の彼方に国道沿いのペンシルビルが雑然とそびえている。大学やデパートの小綺麗な建物があるのは駅前の一等地くらいのもので、あとは小さな家々や雑居ビルが細い街路に延々とひしめくばかり。私の暮らす街の景色は、どこまでいってもその繰り返しだ。
東京都足立区千住。もとは東北地方へ向かう奥州道中の宿場町だったところで、いまは一大ターミナルの北千住駅を中心にして、隅田川と荒川を挟んだ中州状の一帯に猥雑な市街地が広がっている。町工場もあれば古びた商店街もある、典型的な下町の風景だ。夜になれば駅前の繁華街は酔漢の跋扈する魔境に化ける。街の真ん中を抜ける広い国道は、トラックや乗用車が昼夜を問わずに往来している。ちっぽけでひ弱な子どもの私は、やかましい人々や車のあいだを控えめに通り抜けるのがやっとだ。思うように息ができるのは、国道を渡った先に広がる、生まれ育った住宅街の一角だけ。
「ありがとうございましたー」
店員さんの挨拶を背中に浴びながら、パンの入った袋を握って道へ出る。とうの昔に日没を過ぎて、家々は街灯の光をまといながら宵闇に沈んでいる。道端を吹き抜けた風がスカートのふちを舞い上げて、痴漢の指の這いずり回った太ももをあらわにして笑う。汚い子だな、と嘲る声が聴こえた。コートの前を掴んで嫌味な風を拒み、足早に交差点を渡って歩き出した私は、ふと、視界をよぎった門柱の文字に意識を吸われて立ち止まった。
学校の門が道端に口を開いている。
私の母校だ。足立区立千寿桜葉小学校。
学童保育の時間も過ぎて、ひとけのない校舎は鬱蒼としている。六年間、嫌になるほど通い詰めたはずの場所も、こうしてみるとまるで未知の空間のようだ。当時の思い出はほとんど捨ててしまったから、あるいはそのせいかもしれないけれど。
私はビニール袋を握りしめた。
一抹の懐かしさが身体中に染みた。
あの頃、もっと違う生き方を選んでいれば、きっと私の人生も変わっていた。もしかすると中学受験なんてしていなかったかもしれない。ひかりやゆかりの代わりに幼馴染の友達が私を囲んで、隣で笑い合ってくれていたかもしれない。そうしたら中川との関係も少しは違うものになったのかな。あのとき伝えきれなかった思いの丈を素直に伝えて、恋人として寄り添っていられたのかな──。
むなしく膨らんだ無意味な夢想が、香ばしいパンの匂いでぱちんと弾ける。その勢いでふたたび歩き出そうとした私は、呼び止める声に釣られてまたも足を止めてしまった。
「──綾瀬!」
それは今、この世でいちばん聞きたくない人の声だった。
喉が乾いた音を立てた。立ち尽くす私のそばに、軽い足音が駆け寄ってくる。急に込み上げてきた吐き気をすんでのところでやり過ごして、私は細い声を絞り出した。
「中川っ……」
「こんなとこで何してんの。買い物?」
追いついてきたのは中川奏だった。はち切れそうなスクールバッグの口からは、収まり切らなかった参考書や資料集が覗いている。わざわざ彼が回り込んできたので、私はまともに中川と目を合わせてしまった。無意識に開いた口が、金魚みたいに無意味な開閉を繰り返した。
中川が目の前にいる。
二度と巡り会うこともないと思っていた人が。
血なまぐさい悪心が消えない。気管が狭まって呼吸もままならない。めったやたらに打ち鳴らされる心臓が痛い。真冬の日暮れの早さに私は感謝した。これならきっと、耳が赤くなっていても気づかれない。
「中川こそ、なんで……」
「話したことなかったっけ。僕の家、すぐそこなんだよ。ちょうど塾帰りでさ」
「……そうなんだ」
「綾瀬も学校帰り?」
見れば分かるでしょ。心の奥の多弁な自分が涙目で毒づいた。昨日の今日でどうしてこの人は、こんなにも平然と私に話しかけられるのだろう。私は見つめ返すこともできなくて、無言で首を振って応じるのが精一杯なのに。
どうしよう。
なにも言葉が浮かばないよ。
まだ、状況をうまく整理できない。頭の中がぜんぶ白飛びして、思考が渋滞を起こしている。こんなことなら私に気づかないで通り過ぎてしまえばよかったのに、運命の神様も中川も意地悪だ。
「その、なんていうか……昨日は大変だったな。びっくりしすぎて邪魔することしかできなかったけど、本当は痴漢、捕まえて警察か駅員さんに突き出すべきだったよな」
ばつが悪そうに中川が後頭部を掻く。古びた彼の靴先を睨んだまま、私は首を振り回した。そんなことで犯人を刺激したら事態の悪化を招くだけだ。穏便に忘れられてしまいたい。痴漢にも、中川にも、誰からも。
「別にそんなの……。邪魔してくれただけでも助かったし」
「そっか。まぁ、それなら良かったんだけど」
中川は髪を掻くのをやめた。つぶらな二つの瞳が、くたびれた私の全身をまじまじと見つめる。思わず私はカバンで身体を隠した。
「……何」
「いや、なんか、本当に久しぶりだなって思って。ずっと心配してたんだ。ひとりだけ遠くの学校に行っちゃったから、元気してるかなって」
「誰が心配してたの」
「僕がだよ。他にいないだろ」
そうだろうな。私なんかの安否を気にかけてくれるのは、きっと中川だけだ。割れた柘榴のように赤黒く濁った心が、どろりと痛みを強めながら喉に流れ込む。黙り込む私を見て中川も口をつぐんだ。二度、三度とまばたきを挟んで、中川は小学校の正門へと視線を向けた。ロボットみたいにぎこちのない動きぶりで。
「懐かしいよな、桜葉小」
「……うん」
私は首をすくめた。素直に「懐かしい」と応じられるほど、小学校の思い出は華やかな代物ではなかった。色あせていないのは中川のいる記憶ばかりだ。話しかける勇気もないのに、いつも気づけば中川の背中を探していた。声をかけられれば嬉しかった。本人の前ではおくびにも出せなかったけれど。
「あんなに外遊びも好きだったのに、今はもう何もやらなくなっちゃったな。ドロケイとか隠れ鬼とかドッヂボールとかさ。泥んこになるまで一緒に遊んでたのが懐かしいや」
「…………」
「綾瀬のことも覚えてるよ。勉強も運動も得意で、テストでも一番を取りまくっててさ。真面目で、静かで、いつも教室の隅で本ばっかり読んでたけど、声をかければ何だかんだ言いながら遊んでくれたり……」
「…………」
「綾瀬はもう、そんなの覚えてない?」
私は無様な沈黙を決め込んだ。覚えてない。そんなのぜんぶ忘れた。中川にも忘れ去っていてもらいたかったのに。
「みんなもきっと綾瀬のこと覚えてるよ」
声を上ずらせながら中川は私を振り仰いだ。
「ちょうどよかった。卒業してから三年も経ったしさ、同窓会みたいなことやれたらいいねってみんなで話してるところなんだ。せっかくこうして再会できたんだし、綾瀬も来てよ」
私は目を剥いた。真っ先に漏れたのは「なに言ってんの」という拒絶の文句だった。
「同窓会なんかやってる暇ないでしょ。みんな受験生でしょ。中学三年なんだし……」
「だから勉強会っていう口実でやろうって話してる。実際、みんなも勉強道具とか持ってくるだろうしさ。綾瀬は頭のいい中学に通ってるし、きっと頼りになると思うんだ」
平然と外堀を埋められ、私は反論の切り口を失った。たちまち、頭の中でサイレンが光って警告を発し始めた。──冗談じゃない。いくら中川の誘いでも、同窓会なんか絶対に行けない。私は小学校の人間関係を捨ててしまったのだ。
「私はいいよ。みんなで楽しくやってよ」
声高に撥ねつけることもできずに、私は尻込みしながら拒否を絞り出した。中川も譲らなかった。
「じゃあ勉強の面倒を見てくれるだけでもいいから。勉強会ムードに入ったところで呼ぶとかして、僕の方でも何とか工夫するよ。それならいいだろ」
「よくない……。私、忙しいし」
「でも綾瀬の学校は高校受験ないでしょ?」
「そういう問題じゃ……。部活とか……」
「そういえば部活は何してるの」
「……生徒会」
「すごいな、綾瀬らしいや。でも生徒会ならそんなに忙しくないんじゃないの」
またも私は返答に詰まった。多分、中川の想像するような公立中の生徒会は、自治権の強い湯附の生徒会とは似て非なる存在だ。けれどもそれを真面目に説明しても埒が明かないし、嫌味に思われてもたまらない。本当は生徒会への所属も黙っていたかったくらいだ。きっと堅物のレッテルを貼られ、距離を置かれてしまうから。
「連絡先、交換しようよ。勉強会のこととか連絡したいしさ」
スマートフォンに指を走らせた中川が、二次元バーコードを表示して私の前に突き出す。有無を言わせる気はないらしい。仕方なく私もスマートフォンを取り出して、おずおずとカメラを構えた。バイブレータの振動とともに中川の名前が画面に踊る。友達登録のボタンを押す指も、ちょっぴり震えておぼつかなかった。
どうしよう。
連絡先、手に入れちゃった。
中川は無縁の人ではなくなってしまった。
たとえ現実で会うことはなくとも、この指先と端末があれば中川と繋がっていられる。だけどこれじゃ、生殺しの状況が悪化するだけだ。とうとう勉強会のことも突っぱねられなかった。たとえ勉強会への参加が免除されても、割れた泡の残り香を隠したまま、この人と親しい関係を築いてゆける自信なんてどこにもない。
またも吐き気が込み上げてきた。
瞳を潤ませながら私は胃液を飲み込んだ。うつむいて、そろそろと息を吐くと、わずかに開いた喉の隙間から「なんで」と声が漏れた。
「なんでいまさら、私なんかに声かけたの。気遣いのつもりなの」
「違うよ。そんなことする理由ないだろ」
「だって昨日あんなことがあったばっかりじゃん。……軽蔑したでしょ、私のこと」
「やめろよ。軽蔑なんてしてないってば」
「だったら何なの。どうして私に構うの。ぜんぶ忘れてって言ったじゃん。痴漢のことも私のことも全部、忘れてくれてよかったのに。忘れてほしかったのに……」
涙目のまま私は吐き捨てた。狭い喉に濾過されて出てきた言葉は、どれも赤黒い血の色に濡れて光っていた。鉄の匂いも、喉に走る痛みも、すべてが懐かしい。三年前から何も変われていない。まるで呪いにかかっているみたいに、中川の前に立つと何かが喉に詰まって吐き気を生んで、振り絞った本心もぜんぶ引っ掛かってしまう。
忘れていてほしいわけがない。あんな形で再会を果たさなければ、きっともっと喜べたのに。──なんて、言えない。絶対に言えないのだ。
中川は後頭部を掻いた。
うつむく私の脳天に、「無理だよ」と声が降ってきた。
「忘れることなんてできないよ。だって僕ら、六年間も同じクラスで暮らしてたんだから」
「…………」
「綾瀬は嬉しくないかもしれないけどさ。こうやって綾瀬と再会できて、僕は普通に嬉しいよ。また昔みたいに仲良くやれたらいいなって思ったから、こうやって声をかけたんだ。それだけなんだよ。下心や他意なんて何もないよ。だからそんなに嫌がらないでよ」
私の動揺が馬鹿らしくなるほど、終始、落ち着き払った口ぶりだった。それでも動揺を深めるには十分だった。うつむいた耳の内側で、中川の声が繰り返し反響した。──再会できて嬉しい。また昔みたいに仲良くやりたいって思ってる──。
きゅんと胸が締まった。
他意はないと分かっているのに。
さらなる問いかけの文句を私は残らず飲み込んでしまった。代わりに無数の泡が喉元へ込み上げてきた。昨日の夕方に割ってしまったものと同じ色合いの泡だった。息が詰まって瞳孔が開いて、パンの香りがなければ今にもビニール袋を取り落としそうだった。──ああ。たぶん私、街灯の下でも分かるくらいに真っ赤だ。再会できて嬉しいのは私のほうだ。だけど言えない。言えるわけない。だって嬉しいのと同じくらい、当惑と動転が心の中で渦を巻いているから。
中川は私の気持ちなんか何も理解してない。他意はない、なんて分かり切った現実を突きつけないでよ。そんなことは言われなくても知ってる。中川にとっての綾瀬灯里は、最低限の再会を喜べる程度の幼馴染。それ以上でもなければそれ以下でもない。だけど私にとってはそうじゃないんだ。
私、ずっと中川に片想いしてたんだよ。中川のことを考えるだけで頭がくらくらするから、忘れ去ろうと努めてきたのに、中川のせいで台無しだよ。こんなことならやっぱり再会なんて果たさなきゃよかった。もう全部ぜんぶ、手遅れだ──。
「いけない。帰らなきゃ。夕飯があるんだった」
中川の声で私は現実に引き戻された。
まだ吐き気は止まない。おそるおそる顔を上げたら中川と目が合った。察しの悪い中川は、やつれた私を一瞥したきり、すぐに肩のスクールバッグに目を戻してしまった。
「また連絡するよ。日程のこととか決めたいしさ」
「うん……」
「じゃあ。帰り道、気をつけて」
呆気ない挨拶を最後に残し、満杯のスクールバッグを後生大事に抱えて、中川は慌ただしく校門の前を去っていった。置いてけぼりを食らった私は立木のように佇みながら、暗い街路の中へ消えてゆく背中を見つめていた。姿が見えなくなるのと同時に喉の詰まりが取れて、身を屈めて静かに嘔吐いた。あわい泡の混じった唾液が暗がりに染みを描く。頬に宿る温もりと、ぼたぼたとあふれる血の匂いに溺れながら、ああ、と私は溜め息をこぼした。
助けてもらったお礼、また伝えそこねちゃった。
「初恋なんて叶わないもんだよ。こんなことで痛い目に遭っちゃダメだよ」
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