表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/21

21 まだ見ぬ春の彼方に

 



 東京の街に春が舞い降りた。

 四月四日、月曜日。

 のどかな光の落ちる朝七時前のペデストリアンデッキを、ぶかぶかのブレザーを背負うように着込んだ男子が駆けてくる。


「悪い。待ったか」

「別に」


 読みかけの参考書にしおりを挟んで、私は顔を上げた。彼があんまり息を荒げているので、なんとなく気遣って「いま来たばっかりだから」と付け加えた。同意するようにクラクションを鳴らしたバスが、足元の駅前広場を発車してゆく。揺れるデッキの上で「ならいいけど」と彼は大きな息をついた。


「つか、入学式の格好、本当にこんな適当なブレザーでいいのか。やっぱ学ランの方がよかったか」

「服装自由だから何でもいいんじゃない。スーツや羽織袴で参加してる先輩を見たこともあるし。自分でTPOを判断しなさいってことでしょ」

「厄介だな、自由って」

「分かってて受験したくせに」


 肩の力を抜いたら「まぁな」と彼も肩をすくめた。そのうち校則が変わって制服が再導入されるかもよ、なんて一足先に教えてやろうかとも思ったけれど、結局、そっと口をつぐんで、雑踏を縫って歩き出した。鼻先をくすぐる春風に乗って、らしくもない悪戯心が胸の中でぽっと弾けた。重い足音が私の後ろをついてきた。


「慣れてるな、人混みの歩き方」

(あきら)もすぐに慣れるよ」


 デッキの先に続く駅ビルを見上げながら、いつもの手癖でICカードを取り出す。呼び名を改めたことの方が私にはよほど慣れない。まだ硬さの取れない背中の向こうで、「そういうもんか」と小台暁が髪を掻いた。



 二月半ばに行われた湯附高等部の一般入試を、小台くん──もとい暁は危なげなく突破した。今日、湯島大学附属高校では入学式が執り行われ、私たちは高等部の()()()として湯附に迎え入れられる。外部生の暁と違い、内部進学した身としては受け止めに迷う部分もあるけれど、儀式というのはそういうものだとも思う。実際的な意味や意義など乏しくてもいい。絶え間ない日々のなかにひとつの節目を与えて、新たな心持ちで一歩を踏み出すために、きっとなくてはならないもの。特に、いまの私にとっては。

 私を取り巻く状況は大きく変わっていない。変わったとしても予定調和的なものだ。日本発電事業開発は四月一日付けで本社直轄の奥銀山現地本部を開設し、奏の家族は新潟へ旅立っていった。奏を刺した小菅優は殺人罪で起訴され、いまも公判に向けて検察の取り調べが続いている。公判が始まったら証言台に立ってもらいたいと依頼も受けた。私はまだ、首を縦にも横にも振れずにいる。

 あれほど多くの人々が犯行の瞬間を目撃していたにもかかわらず、依然として私の名前はメディアにもインターネットにも漏れていない。けれどもひとたび身にまとった血の匂いは容易には消し去れないみたいだ。生徒会室でも、仕事で立ち入った職員室でも、いまだに腫れ物を扱うような接し方をされる。あの凄惨な殺人事件に関わったのだと、遠回しの詮索を受けているのが分かる。暁も例外なく事件のことを知っていた。聞けば、奏の葬儀は報道にあったように完全な近親者のみで執り行われたわけではなく、頼み込めば誰でも焼香に加われたらしい。当日は暁を含む数人の同級生が参列して、燃えゆく奏に最期の花を手向けた。その中には元カノの舞の姿もあったようだ。


『奏の母親が式中に口を滑らせたんだ。奏の親しかった女の子までもが巻き込まれて本当に卑劣な事件でしたって。それであいつ、灯里のことだと勘付いたみたいだ』


 合格を報告する電話のなかで、暁は溜め息まじりにそう打ち明けた。送りつけられた一方的な恨み言の数々を思い返しながら、わけを知ってひとり納得したのを覚えている。事件の全貌は大手メディアの手で細かく報じられている。事件の遠因になった痴漢行為の被害者が私だと察知した舞は、激情を抑え込めず、私に向けてメッセージを打ったのだ。よもや私が実行するとも思わず、勢い余って【死ねよ】とまで。

 どこまでも直情的で、自分の心境に素直な舞のあり方は、良くも悪くも私のそれとは百八十度真逆の関係にある。どちらがいいとか悪いとかを短絡的に論じることはできない。実際、心を隠し続けた私は奏と恋仲にさえなれず、心を開けっ広げにしていた舞は奏に愛されなかった。人と人との関係は複雑で、中学英語みたいに簡単な文法じゃ読み解けない。どんな言動も毒や薬になりうる。思いがけず口走った【死ね】の一言で、相手が本当に命を落とすことさえある。だから自然と私たちは本心を閉ざして、相手との距離を取りながら心の開き具合を測るようになる。いつか暁の口走ったように、もはや私たちは「素直に何でもかんでもさらけ出せる歳じゃない」のだ。

 それでも時おり考えてしまう。

 もしも素直になれたなら、私と奏の関係はどんな風に変わっていたのだろうって。

 もしも素直に()()()なら、私の未来はどう変わってゆくのだろう──って。



 JR常磐線、東武伊勢崎線、つくばエクスプレス、東京メトロ日比谷線と千代田線。四社五路線の乗り入れる北千住駅は、単純な乗降客数で比べれば世界第六位の規模を誇る、城北地区随一の巨大ターミナル駅だ。さすがに見慣れた光景とはいえ、通勤時間帯の混雑には目を見張るものがある。あまたの人々がここで電車に乗り、あるいは乗り換え、それぞれの目的地をめざして旅立つ。この住み慣れた平凡な街から、無数の人生が分岐してゆく。

 有象無象の汗の匂いが駅ビルを満たしている。エスカレーターを上って自由通路に出て、人混みの先に常磐線の改札口を探した。暁は私の後ろにぴったりついて歩いていた。歩きづらさを覚えて「どうしたの」と振り向きかけたら、不意に、真新しいブレザー姿の女子高生が視界を横切った。振り向きざまに私は硬直した。見覚えのある顔が脳内のデータベースと一致したときには、彼女も立ち止まって私を見つめていた。


「あ……」


 引きつった声で叫んだ彼女は、何事かを続けかけて、けれどもすぐに顔をそむけて駆け出してしまった。呼び止める間もなかった。耳の下で束ねられた可愛らしいツインテールが、焦ったように跳ねながら人混みの向こうへ消えてゆく。その小さな背中を茫然と目で追っていると、背後で「梅島だったよな、今の」と暁がつぶやいた。


「一言くらい挨拶して行きゃいいのに」

「……別にいいよ、そんなの。私もとっさのことで声が出なかったし」

「まぁ、あいつもずいぶん急いでたみたいだしな。どの電車に乗るんだか知らねぇけど」

「都立六町(ろくちょう)でしょ。TX(つくばエクスプレス)じゃないの」

「なんで灯里が知ってんだ、あいつの進学先」


 暁の目が丸くなる。ドーナツ屋に誘われた経緯を話すと、彼は眉根にしわを寄せて「へぇ……」とうなった。あれほど敵愾心あらわだった舞がみずから進んで私へ声をかけたことに、いくらか暁も驚きを持て余したらしい。


「結局、私に探りを入れたかっただけみたい。中川の志望校を知らないかって」

「……あいつらしいな」

「舞の望む情報は私も持ってなかったし、期待外れだったのは分かってるよ。でも、あの勉強会の時より少しは打ち解けられた気がして、私、ちょっと嬉しかったのにな……」


 腹の底に響く轟音を鳴らしながら、頭上のホームを電車が出発してゆく。とうとう声にもならなかった自嘲を、そっと私は奥歯で噛み砕いた。

 舞の口調は剣呑だったし、一貫して上から目線だった。私は終始及び腰で、彼女に会話の主導権を握られっぱなしだった。それでもあのドーナツ屋での一件は、小学校時代にほとんど舞と話せなかった私にとっては、計り知れない大きな進展だったのだ。舞の抱える哲学の一端にも触れられて、多少なりとも相互理解を深められた気でいた。けれども蓋を開けてみれば、相互理解など夢のまた夢だった。奏の死に私が関与していると知るや否や、舞は激情に任せて私に【死ねよ】と叫び散らかした。傷ついた私の心境を彼女が推し量ってくれることはなかった。私も彼女の真意を理解しないまま、絶望に駆られて電車に飛び込んだ。


「中川が死んでから、あいつ、うわごとみたいに繰り返してた。灯里のせいで中川は死んだんだ、灯里が中川を殺したんだって」


 溜め息交じりに暁が後頭部を掻いた。たわしみたいな前髪の下で、澄んだ黒の瞳が行き交う人々を静かに映していた。


「メッセージでも何か言われたんだろ。それも梅島が言ってた。詳しい中身は聞いてねぇけど」

「……まぁね。いろいろ言われたよ」

「俺は灯里のせいで中川が死んだとは思わねぇ。どう考えても逆恨みした犯人が悪いに決まってるって思う。でも、そういう公明正大な正論で、誰もが現実を割り切れるわけじゃねぇよな。現にあいつは割り切れなかったんだ」


 そうだろうなと私も瞳を伏せる。この世の大概の正論は、誰かを救うためにあるものじゃない。


「高校進学のタイミングでよかったのかもな。これで梅島と顔を合わせることもなくなるだろ。もう、どんなに言葉を尽くしても、梅島が灯里に寄り添うことはないんだろうし……」

「逆でしょ。前より顔を合わせやすくなったよ。だってこれからは私たち、毎朝のように同じ駅を使うことになるんだから」


 そっと吐息を落として取り出したICカードを、並ぶ自動改札機の読み取り部にかざした。ばつが悪そうに「それもそうか」と暁もカードを押し当てた。乱暴な音を立ててゲートが開く。足取りを早めて改札を通り抜けながら「それに」と畳み掛けたら、追いついてきた暁が怪訝な顔をした。


「私、いつかまた、あの子とドーナツ食べに行きたいなって思ってる」

「正気かよ。意味分かってんのか」

「すぐにできるとは思ってない。私だって心の準備ができてないし、いまも舞に突き付けられた言葉を思い出すと息が詰まって苦しくなるし……。だけど舞との関係を諦めるのは、本当に言葉を尽くしてからにしたい。私たちはまだ何も尽くせてない。寄り添うとか理解するとか以前に、お互いの気持ちをドッヂボールみたいにぶつけ合うことしかできてない」


 そうだったよね、舞。

 ICカードをしまった手を胸に押し当てて、石畳調のタイルの敷き詰められた床を見つめる。艶やかに磨かれた床の表面に、一分前の景色が陽炎のように浮かび上がる。

 私に気づいて声を上げ、次いで何かを口にしかけた舞は、まるで(あぶく)になった人魚姫の末路を見届けた王子様のように、唇の端を青くこわばらせていた。我の強い舞にしては珍しい、後悔の交錯した憂いの面持ちは、私には隠し切れない罪悪感のあらわれにも思えたのだった。行き場のない憎しみを私という悪者(スケープゴート)にぶつけながら、もしかすると舞も今、そんな自身の歪んだ営為に、心の底では何かしら葛藤を抱えているのかもしれない。

 私は意思疎通の下手な人間だ。けれども声を奪われた人魚姫とは違う。みずからの意思で発することのできる声を、臆病ゆえにみずから封じていただけ。それを私は長らく“呪い”と呼んで、あたかも自分が悲劇のヒロインかのように錯覚して、誰の姿もない暗闇でうずくまり続けてきた。いざ“呪い”の解けた私は、想像以上に多弁で、感情豊かで、たとえ素直にはなれなくとも一生懸命に真心を届ける意志の強さを持ち合わせていた。夢の中ではあるけれども奏に想いを伝え、依存じみた初恋をカタチにすることができた。

 私には声がある。言葉がある。

 望みさえすれば意思の疎通を図れるのだ。

 どんなに時間がかかってもいい。いつかゆっくり二人で向き合って、分かり合って、凝り固まった心の瘡蓋(かさぶた)を剥がし合えたら。それは()()()()()()()()()()()()()私にとって、きっと一つの大事な到達点になる。素直になれなかった間に失ったチャンスや可能性や信頼を、この手のなかへ取り戻すために、避けては通れない通過点になる。諦めの悪くなった心の奥底で、そう願ってやまないのだ。


「……また、会えるかな」


 不安と期待の入り混じった独り言が、床のタイルに転がって砕ける。行き交う人々の波は衰えない。くぐもって反響を重ねる雑踏のはざまで、噛み締めるように暁がつぶやいた。


「……大人だな、灯里は」

「なに、急に」

「俺が灯里の立場なら、もう二度と梅島と話したいなんて思わねぇ。だって傷つくようなこと言われたんだろ。分かり合えることなんて期待しねぇよ」

「傷ついたのは確かだけど……。でも、私たち、別に喧嘩して仲違いしたわけじゃない。お互いのことを誤解しただけだと思うから」

「そうやって客観視できるところが大人なんだろ」


 まさか、と私は肩をすくめる。不意に地鳴りのような重低音が轟いて、踏み出した足の裏がわずかにこわばる。階下の一番線ホームに下り電車が到着したようだ。()()()()()は電車の音に怯えやしない。すくむ足を無理に突っ張って、下りのエスカレーターに乗り込みながら、「大人じゃないよ」と失笑を口に含んだ。


「大人だったらきっと何も怖がらない。私はまだ怖くてたまらないよ。舞のことも、痴漢も、朝夕の満員電車も……」


 奏の死から二ヶ月が経とうとしている。ようやく近頃、帰宅ラッシュの電車にもひとりで乗れるようになった。けれどもそれはひかりやゆかりの手を(わずら)わせなくなっただけで、染みついた恐怖を払拭できたわけではない。いまだに電車の中ではじっと息をひそめて、誰にも見つからないように身を縮めている。背負ったトラウマのすべてを過去のものとして割り切れるほど、私はまだ、大人にはなれない。

 七時六分発、品川行き。上り電車の接近を告げる構内放送が行く手に響いている。カバンを持たない左手でエスカレーターの手すりを握りしめたら、背後で「俺もだよ」と暁がうめいた。


「自慢じゃねえけど。俺、人混みが怖ぇんだ」

「何かあったの」

「いじめられてた頃、よくクラスの連中に取り囲まれてボコボコにされてた。それ以来、大人数に囲まれるのが苦手なんだ。とっさに防衛本能みたいなのが働いて、ダメージを受けないように身体が固まっちまう」


 私の背中へ隠れるように歩いていたのはそういうわけだったのか。しきりにあたりを気にする彼の眼差しの数々を、目を伏せながら私は思い返した。「情けねぇよな」と暁は静かに笑った。鉄と香水の匂いのするホーム上の喧騒に、痛ましい自虐の笑みはいくらかかき消された。


「いつも逃げてばっかりだ。いじめてくる連中に立ち向かおうだなんて一度も考えなかった。教師や警察を頼ればいいって何も知らねぇやつは平然と言うけど、そんなことができりゃ苦労はしねぇんだ。耐えて、耐えて、やり過ごすしかなかった。授業も放課後も学校行事も地獄でしかなかった。中川がいたから生きてゆけたようなもんだった」


 思いがけず奏の名前を出され、すっとんきょうに私は「中川が?」と問い返してしまった。「言わなかったか」と暁に尋ね返されて、それからようやく思い出した。告白の失敗で周囲のすべてを敵に回してしまった暁にとって、唯一、そばにいて相手をしてくれていたのが奏だったことを。

 遠くにヘッドライトの明かりがきらめいて、横たわる線路に緊張が走る。線路の先にまばゆく広がる春色の空を、じっと穏やかに暁は見つめている。


「変な話でさ。あいつといると不思議と人混みも怖くなかったんだよな。中川だけがあの頃、俺を普通のクラスメートとして扱ってくれてた。どいつもこいつもバカみてぇに中川を崇めてたから、あいつが陰で俺とチームや班を組んだりしても誰ひとり文句を言わなかったんだ。中川が何を思って俺に接してたのかは知らねぇけど、思えば俺、あいつにずいぶん救われてた気がする」


 どっと跳ねるように胸が(ぬく)もった。動揺を悟られないように呼気を整えて、そっか、と答えてみる。一瞬ばかり強い既視感を覚えたのは、それが私の体験とあまりにも似通っていたせいだ。

 思い返せば、暁もまた小学生の頃、ちやほやと奏のまわりに寄り付かない希少な同級生のひとりだった。無骨な言葉選びでストレートに人の内面を評価し、褒めたり貶したりする暁の姿勢は、当時も今も変わってはいない。中川が暁のどこに惚れ込んで“人間扱い”をするようになったのか、いまなら私にも多少は分かる気がする。弾けた温もりが身体中に行き渡ってゆくのを感じながら、なんだか嬉しいような、寂しいような、くすぐったい気分になって、私はうつむいた。皮肉なものだ。彼岸へ渡った奏との距離が開けば開くほどに、得体の知れなかった奏の解像度が上がってゆく。むかしは涙でぼやけるばかりだったのに。

「悪い」と暁が後頭部を掻いた。


「中川のこと、思い出したくなかったよな」

「ううん」


 私は気丈に笑ったつもりだ。

 心が温まったのだと続けたら、きっと彼はいよいよ奇妙な顔をしたことだろう。

 きいと最後に甲高い音を立てて、電車が停まる。何十ものドアが一斉に開いて、三々五々に乗客を吐き出す。むろん降りる客より乗る客の方が多い。鮨詰めの車内を伺って、どこへ身体を押し込もうかと思案に暮れながら、足元へ下ろしていたリュックサックを抱え直す。無意識に伸びた手がファスナーを開いて、一冊の本を取り出した。


「電車の中でも勉強すんのかよ」


 呆れ果てたように暁が尋ねた。


「習慣だから」


 取り出した英語の参考書を私はリュックサックと一緒に抱えた。暁が気遣いたげに横へ並んだけれど、首を振って、勇気を出して、固まった足を振り上げて電車に乗り込んだ。それから(きびす)を返して、まだ乗り込めずにいる暁をかえりみる。思い切って「大丈夫だよ」と声をかけたら、彼はおっかなびっくり肩を縮めながら、満員電車の中へ踏み入ってきた。

 足の踏み場もない混雑が車内を埋め尽くしている。否応なしにぴったり隣り合った暁の身体は、奏のそれよりもひんやりとしている。駆け込み乗車をやめるようにと構内放送が騒々しく叫んでいる。迷惑にならない人混みの狭間を探して、そっと参考書を開いて、目を落とした。勉強に集中できる環境でないのは承知している。非効率なのもわきまえている。それでも努力をやめられない。やめたくない。これが奏の好きになってくれた、ひたむきな私の在り方だと信じているから。

 挟んでいたしおりを指で外して、目を落とす。

 並ぶ例文の数々が太字で強調されている。

 目に留まった例文のひとつを私は黙読した。


【Would I be honest, what will I do?】


 未来において容易には起こりそうもないことを述べる、仮定法未来の倒置形。和訳のときには「万が一」という言葉が使われがちなほど実現性に乏しい、されどゼロとも言い切れない、ほんのわずかな可能性を表す構文だ。

 もしも素直になれるなら、私はどうしよう?

 直訳すればそのようになる。

 伸ばした手のひらで吊革を握りながら、もう一方の手で参考書を胸に押し戴く。機械的なドアチャイムとともに、苦しげな音を立ててドアが閉まる。じっと暁は身を固めている。垂れ込める有象無象の汗の匂いが、いっときの静寂に溶けて鎮まる。わずかな静寂の合間に私は息を吸った。奏の匂いがした。冷え切ったずぶ濡れの私を乾かして人間に戻してくれた、優しくて、温かな人の匂いだ。

 きっと永遠に忘れることはない。

 初めて愛した人の温もりを。笑顔を。優しさを。

 もしも素直になれるなら、いつか、またどこかで、生まれ変わった奏の魂に巡り会いたい。依存じみた恋じゃなく、ひとりの対等な人間として、酸いも甘いも併せ吞んで奏のすべてを愛せるようになりたい。奏の前に立って堂々と誇れる自分でありたい。そうして今度は真心を込めて伝えるのだ。大好きだよ、って。 

 そのためにも、今のままではいられない。私の人生は反実仮想だらけだなんて、情けない泣き言は口にしたくない。この足で、この口で、思うままにならない世界と向き合って、望んだ未来を切り開けるようになりたい。「人間になって王子様と結ばれたい」という真摯な願いを前にして、アンデルセンの人魚姫がそうしたように。──ああ、そうだ。あの悲劇の奥底に滲むわずかな救いを、幼い頃の私は読み取りきれなかった。人魚姫は確かに失恋したけれども、そのひたむきな真心を神様に買われ、天国に昇る道筋を立ててみせた。決して、すべてを失うばかりのバッドエンドではなかったのだ。


「……奏」


 声をひそめてつぶやいたら、わずかに匂いが濃くなった。華奢な私を守るように、奏の息吹が身体を包んでいる。

 ありがとう。

 私の大好きな人。

 どうか、そばで祈っていて。見守っていて。私がふたたび道を見失って、(くら)い海の底へ沈んでゆかないように。

 にじんだ想いをそっと私は啜り上げた。

 春色の光が車窓を、世界を包み込む。

 きいと軽やかな声を上げて、滑るように電車が動き出した。











 挿絵(By みてみん)














 この物語はフィクションです。



 本作の連載にあたり、以下の方に力添えをいただきました。

 構想段階より全体構成・人物設定等の考案に参画いただいた、桐生桜嘉様。

 キャラクターデザインをご担当いただいた、亜鉛ちゃん様。

 下読みにご協力いただいた、橋本ちかげ様・小林汐希様。

 イメージイラストをご担当いただいた、ぐあびえんく.様。

 素敵なFAをご提供いただいた、天崎剣様・采火様。

 皆様の協力がなければ本作は完成しませんでした。心より御礼を申し上げます。


 その強すぎる責任感や不器用な性格、そして周囲との不和や孤独のために、素直になれない“呪い”を背負い続けてきた主人公・綾瀬灯里。最愛の人の死と引き換えに呪いを解いた彼女の未来は、果たしてどこへ向かうのか。無限の可能性(もしも)のみをそこに残して、十五万文字の物語は幕を閉じます。

 読了いただき、ありがとうございました。

 初めての感情に苦しみ続けた彼女のいたいけな軌跡が、読み終えてくださった貴方の未来に、少しでも前向きな何かを残していますように。


 2022.06.14

 蒼原悠





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです! 文章から場面の空気とか気持ちとかがすごくよく伝わってきて、特に後半は夢中で読むことができました。 厳しい展開がありつつも、救いがある結末でよかったです。 爽やかな読後感…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ