20 卒業
東京の桜は卒業シーズンとともに散ってしまう。
例年以上の暖冬だったせいか、今年は開花の時期も前倒しだった。いつしか足元は散りたての花びらで埋め尽くされ、木々のまとう桜の着物は日を追うごとにわびしく、緑混じりの地味な色合いに変わっていった。
卒業式の日取りが迫ってきた。もっとも、八割の生徒がエスカレーター式に進学する湯附において、中学部の卒業式はそれほど重視されない。盛り上がるのはもっぱら高校部のほうで、中学部の卒業式は高校部のそれを邪魔しないよう、ひっそりと手短に片付けられる印象だ。式が迫るにつれて教室が奇妙な浮揚感と悲壮感に満たされていった、小学校のときとはまるで感覚が違う。あの日のように私が置き去りにされることもない。そうか、あれからもう三年も経つんだ。学期末テストの難問に頭を悩ませては窓の外へ視線を放りながら、はらはらと舞いしきる花びらの行方に懐かしい景色を重ねた。
三年前から私はどれほど変われたのだろう。喉に手を当てて、深呼吸をひとつすれば、流れるようにこぼれた息が答案の隅をわずかに揺らす。喉に詰まった瘡蓋が吐き気を生むことはない。ひかりやゆかりに事の次第を打ち明け、お母さんの前でも弱い姿を見せたことで、あんなにも頑固だった私の“呪い”はすっかり剥がれ落ちてしまったらしい。本音を叫べずに悪戦苦闘した過去が嘘のようだ。けれどもそれは言い換えれば、感情の無秩序な流出を防ぐためのダムが決壊したのと同じことで、当然ながら弊害もある。
「奏……っ」
「かなでぇ……」
「っう……ううぅ……っ」
ふとした拍子に奏の死を思い返すと、感情の制御が利かなくなって、ひかりやゆかりの胸にすがりついて泣いてしまう。いまでは二人も手慣れたもので、またか、と苦笑しながら私を受け入れてくれる。情けなさのあまり私も顔を上げられなくなる。生真面目で、堅物で、完璧主義な私は、とかく子供のように振る舞うことが罪であるかのように錯覚しがちだ。実際問題、まだ一人では何の責任も取れないのに。
変容を遂げたのは私ばかりではなかった。近頃、ひかりはたびたび夜中に電話をかけてくるようになった。たびたび湧き起こる激しいフラッシュバックと自傷衝動を、ひかり一人では耐えきれないためだ。ゆかりも交えた深夜のグループ通話は、ときに数時間、長いときには朝方近くまで及んだ。とりたてて何かをするでもなく、繰り広げられるのは普段通りの取るに足らない雑談だけ。それでもひかりにとっては気が紛れていいのだという。「しょうもない話で二人と盛り上がってると、死にたいとか、自分をめちゃくちゃにしてやりたいとか、そういう負の気持ちが蜃気楼みたいに消えてくんだ」──。そういってひかりはいつも、照れくさそうに手首を掻く。あれほど常用していたタートルネックやスパッツもいつの間にか見なくなった。暑くなってきたからだと本人は言うけれど、袖から覗く手首の傷跡が癒えて目立たなくなってきたのと無関係ではないと私は思う。
もっと目覚ましい変化を遂げたのはゆかりだ。私たちの何も知らない間に、ゆかりは“彼氏”との関係を清算してしまった。聞けば、連絡先もブロックしてしまったらしい。驚きを隠せないでいた私の手を握って、ゆかりは「あかりのおかげだよ」と熱っぽく訴えた。
「あの人よりも優先すべき相手ができたから、わたし、あの人との関係を断ち切れたんだよ」
ひかりとゆかりは相変わらず私の帰宅に同行してくれている。そうとは知らない“彼氏”が少し前、平日の夕方にもかかわらず、ゆかりを呼び出そうと連絡してきた。私の護送と“彼氏”との望まぬ逢瀬を、嫌でもゆかりは天秤にかけざるを得なくなった。その結果、天秤は私の側に傾いた。大事な用事があるの、だから行けない──。それまで一度も口ごたえをしたことのなかったゆかりが急に態度を翻したことで、意表をつかれた“彼氏”は怒り、口論に発展したが、ゆかりは最後まで譲らなかった。勇気を振り絞って「ずっと嫌だった」「二度と会いたくない」と伝え、“彼氏”との関係を完全に断絶した。そこまでしてでも私やひかりとの関係を優先したかったのだと、ゆかりは震えながら微笑んでいた。誤魔化しきれない不安の余韻が唇の端に染みていた。
「あの人と関わっても幸せなんて何もない。ただ、怖いだけだった。本当はずっと前から嫌だと思ってたのに、わたし、もうどうにもならないんだって思い込んで、自分の気持ちに蓋をしてた。あのとき二人とケンカして自暴自棄にならなかったら、いまでもわたし、気づかないふりを続けてたと思う。だからこれは二人のおかげでもあるの」
「嬉しいけど、なんか、実感わかないな……」
「わたしもまだ実感わかないよ。あの人からは一生逃げられないと思ってたもん。素直な気持ちを叫べる日が来るなんて考えてもみなかった」
しみじみとゆかりは首を振った。
「これからどうなるんだろうとか、あの人に嫌がらせをされないかとか、不安の種は数え始めたらきりがないけど……。でも、素直になるのって、心地いいね」
さらり、風に揺れた前髪の下で、つぶらな瞳が静かな艶を放っていた。息を呑むほどに綺麗だったから、いやに気後れして、うつむいてしまったのを覚えている。積年の“呪い”の解けた今も、素直な心境を明かすことに私は前向きになれない。それは多分、まだ私自身が、素直な自分のあり方を認めてあげられないからなのだと思う。ありのままの私は身体も心も醜いから、隠さなければ人前にも立てない。愛を口ずさむことさえ烏滸がましい。みずから進んでトラウマと向き合ってみせた二人のように、醜い自分を認めてやるにはどうしたらいいのだろう。以前のように軽口を叩き合っては怒り、許し、また笑い合う関係に戻った二人を見つめながら、今日も私は黒々とした置いてけぼりの自己嫌悪を持て余す。すると二人は曇りきった私の瞳を覗き込んで、「また独りで抱え込んでる」と唇を尖らせるのだ。
「そんなに言いづらいなら力づくで吐き出させてあげようか」
「久しくやってないよね、拷問」
「ほんとだよ。ちっともあかりがさせてくれないから。腕が鈍ってたらどうしてくれんの」
「知らないよ……。勝手に鈍っててよ」
呆れ果てて嘆息しながら、私は組んだ腕に口元を埋める。さりげなく身を隠す所作のひとつひとつにさえ自信のなさが現れていて悲しくなる。へこむ私を二人は「仕方ないなぁ」と笑う。そして、癖のついたみっともない私の髪を撫でる。
「ま、話したくなったら勝手に話してくれるか」
親友と呼ぶには少し緩い、けれども決してほどけることのない糸で、私たちは今日も不器用に繋がっている。互いを尊重する心さえ忘れなければ、多少のケンカや仲違いで決裂することはない。だから、いざという時には胸襟を開ける。誰かを信頼するというのはつまり、そういうことなのだ。
腕の中でつぶやいた「ありがとう」の五文字に二人が気づくことはなかった。私は重みの減った頭をもたげて、上体を起こして、おもむろに授業の予習に取り掛かった。この問題わかんない、また零点とっちゃうとゆかりが嘆いた。取っても平気なくせにとひかりが嘲った。ゆかりが憤慨して、ひかりが舌を出して、私が呆れて、そうして三人でまた、笑った。
三月二十七日。
卒業式は滞りなく閉幕した。
栄えある百三十一期の卒業生として、私は湯島大学附属中学校を巣立った。
春からは隣の校舎にある高校部へ通い始めるので、率直にいって卒業の実感はない。それでも、九年間の義務教育課程を終えた証が円筒の中で弾むたび、込み上げてくるものは色々とある。
「……はぁ」
着替えるのも億劫になってベッドに寝転びながら、私は卒業証書の筒をもてあそんだ。すっかり着古した制服風のブレザーが布団の上でゴワゴワとよれた。三年前に比べれば少し窮屈になったけれども、明日も、新学期からも、これまで通りに着てゆくつもりだ。休む暇なんてないよ、明日は生徒会の仕事だからね──。瞳を閉じて呼びかけたら、くすんだ生地の色がわずかに濃く、糊の乗った昔の匂いを取り戻した。
卒業式を迎えても私の湯附生活は終わらない。一週間もすれば入学式があるし、春の総会に向けて生徒会の仕事も大詰めだ。明日は会長の青井先輩を筆頭に執行部メンバーが勢揃いして、私の用意した制服再導入案の資料を検討することになっている。すでに青井先輩には目を通してもらったところだ。いつものようにソファへ横たわりながら、先輩は柄にもなく真剣な眼差しで資料を読み込んでいた。心の裏側を覗かれているようで、気まずさを覚えて顔をそむけていたら、『ふふ』と先輩は静かな笑みを含んだ。
『綾瀬はやっぱり素直じゃないね』
『なんですか、急に』
『本音が資料に滲みまくってる。本当は綾瀬、制服なんて着たくないんじゃないの』
痛いところを突かれた私は凍り付いた。自由に作っていいと指示を受けていたので、つい出来心で、再導入のデメリットを強調してしまったのだ。先輩はソファから身を起こして、直立不動の私をまじまじと眺め回した。『すみません』と頭を下げたら、『ううん』と先輩は口角を上げた。
『謝ることないよ。むしろこれでいいんだよ』
『え……?』
『前に言ったでしょ。綾瀬には図々しさが足りないって。振り返ってみると私、綾瀬から本音の匂いを感じたことがほとんどないんだよね。私らが生徒会に引きずり込んだ時も、副代表やら庶務やら面倒な役職を押し付けた時も、綾瀬は嫌な顔ひとつしなかった』
『……そうだったでしたっけ』
『私たちの仕事は楽しいばかりじゃない。面倒事や厄介事もたくさんあるし、引き受けたがらない子もたくさんいるけど、それでも誰かがやらないと回らない。だから綾瀬みたいに根が真面目な子は、放っておくといいように使われちゃう。それってきっと外の世界も同じでさ。確固たる自分を持たない、持っていても上手く表現できない不器用な子は、自分勝手な社会の中で翻弄されてどんどんすり減っていく。綾瀬にはそういう道をたどってほしくないんだよ。だからこうやって、うんと裁量の広い仕事を丸投げして、自分の色を出してもらいたかったわけ』
ぺしん、と先輩は資料を丸めて叩いて、それから不敵に唇を歪めた。
『ねぇ、二人で根回しして引っくり返しちゃおうか。制服再導入の賛成多数なんてさ』
立場上なかなか表明できずにいただけで、先輩も制服の導入には賛同していないらしい。堅苦しい規則に縛られるのはもうたくさん、服装くらい好きなものを着たいんだと自由人の青井先輩が叫ぶ姿には、いやが上にも説得力がついて回っていた。この人に声をかけられて生徒会に勧誘されたとき、不思議と嫌な気分にならなかったことを、遠い昔のように私は思い出した。私とは正反対の魅力を持つ青井先輩に、生き生きと働く仲間たちの姿に、少なからず憧れを抱いていたせいかもしれない。
振り返れば私は憧れの塊だった。
勉強を得意になりたかった。運動で仲間の足を引っ張りたくなかった。顔も財力も性格も自力ではどうにもならないから、せめて無数の魅力をまとって、人並みに褒められたかった。人並みに愛されたかった。そんな強迫観念じみた無心の祈りが、これまでの私のすべてを決定づけてきた気がする。人並み以上の何かを成し得る才能なんて本当はないのに、意地を張って目標にしがみついて、そうしてたくさんのものを見失った。
去年の十二月までは、奏も、そうして見失った存在のひとりだと思ってきた。とうの昔に手が届かなくなった、はるか海の上の王子様なのだと。
「…………」
私は背中を丸めてうずくまった。
卒業証書の筒をかたわらに転がして、すん、と右手の匂いを嗅いだ。
優しい匂いがする。中川家を訪れて以来、一日たりとも消えたことはない匂いだ。けれどもそれが本当に奏の匂いだったのかは、日を追うごとに思い出せなくなってゆく。もとからあった匂いなのか、それとも私の身体が新たな匂いをまとい始めたのか、いまの私には判別がつかない。これが、奏の望んだ「忘れる」ということなのだろうか。いつか奏の匂いも、温もりも、声色さえも忘れて、何事もなかったかのように私は前を向くのだろうか。
きっと奏はそんな未来を望んでいる。
それが私のためになることも理解している。
それなのに今、こんなにも寂しい。胸が張り裂けそうなほどに。
はらり、心のかけらが頬を伝った。瞳に映る景色がくしゃりと歪んだ。袖で頬をぬぐいながら、ささやくように「奏」と名前を呼んだ。冷えた布団に私の声は吸われて消えた。卒業式を見届けた両親は仕事に戻ってしまったので、いま、私は家の中でひとりぼっち。たとえ大声で喚こうとも聞き咎める人はいない。ぐずついた鼻をすすって、もう一度、心を込めて「奏」と呼んでみる。
ねぇ。
私、卒業しちゃったよ。
奏は卒業できなかったのに。
三年前のみじめな記憶も今となっては夢のようだ。あのとき奏から逃げることしかできなかった私は、たくさんの宿題を抱えながら湯附に進んだ。積み残した宿題の消化はいまも終わっていない。こうして中学校から卒業した今も、小学校からの卒業は済ませられずにいる気分だ。──おかしな話でしょ。私は二度と卒業できないんだよ。あんたが一足先に死んじゃったから。何も伝えられないでいるうちに、三途の川の彼方へ行ってしまったから。
着替えるのも忘れて私は奏の名前を呼んだ。
腫れぼったい目頭から疲労が滲み出して、ぐったりと枕元に染みを広げてゆく。
まぶたが沈み込んだ。誘われるままに私は目を閉じた。人間になったばかりの私の足は、抱えた心は、踊るように地面を歩くのにはまだ重すぎた。数日後には始まる高校生活のことも、生徒会の仕事も、ひかりやゆかりや他の誰かのこともすべて忘れて、ひたすらに眠り続けたい気分だった。泥のように、たゆたう水草のように、痛みも悩みもない穏やかな海の底で眠っていられたら。いつか誰かが私を見つけて、そっと揺り起こしてくれるまで──。
『──ここ、いていい?』
聞き覚えのある声が耳をくすぐった。
私は跳ね起きるようにまぶたを開いた。
夕暮れの金色の光が斜めに差している。そこは見慣れた千寿桜葉小学校の校舎の階段だった。私は防火扉の影へうずくまるように座り込んでいた。傍らには学ラン姿の男子が一人、壁にもたれかかって、穏やかなまなざしで私を見下ろしていた。
懐かしい匂いが鼻先に膨らむ。
よく知っている人のものだ。優しくて、温かな。
溺れるように私は「中川」と名前を呼んだ。目の前に横たわる現実を脳が理解しきれなかった。どうして奏がここに? 夢に出てくるのはやめたんじゃなかったの? ──引きつった私の顔を奏は覗き込んだ。それからそっと口角を上げて、『卒業おめでとう』と言った。
『卒業生代表のスピーチ、かっこよかったよ。凛々しい綾瀬を見られて幸せだった』
かっと私は顔を赤らめた。生徒会の中学部副代表を務めていた縁もあって、今度の卒業式では卒業生代表として登壇したのだった。あんまり緊張したものだから、何を話したのかは覚えていない。自由とは何か、そこから生じる責任と私たちはどのように向き合うべきか──。手元の原稿には徹夜で編み出した適当な話題が延々と綴られていた。要するに「制服は着たくないです」を迂遠に伝えたかっただけなのだと思う。
「聞いてたの……」
『言ったでしょ。綾瀬がみんなの前で輝いてる姿を見たかったって』
私は小さく息を呑んだ。私だけが覚えているものとばかり思っていた数年前の何気ない言葉を、当たり前のように奏は反芻してみせた。
奏は頬を緩めた。
黄金色に燃える笑顔は、差した影のせいでいやに寂しげに映った。
『生徒会でも大きな仕事を任されてるんだろ。僕の知らないところで、綾瀬はとっくの昔に立派に輝いてたんだな。ぜんぶ杞憂だったみたいだ』
「杞憂だったって、何が……」
『綾瀬はもう、僕がいなくても平気だ、ってこと』
足元へ空いた大穴に転落するような感覚が私を襲った。思わず総毛だった肩をさすりながら、消え入りそうな声で「どういう意味」と尋ね返した。奏はいやに明るい声を張った。
『お節介に感じるかもしれないけどさ。卒業して離ればなれになってからも、ずっと綾瀬のことが気にかかってたんだ。中学では友達できたのかな、また独りぼっちになってるんじゃないかって、ひとりで勝手に心配してた。でも、それも要らないって分かった。昔みたいに僕がお節介を焼かなくても、綾瀬はちゃんと自分で居場所を見つけて生きてる。それが分かっただけでも一安心だよ。……もう、全部、大丈夫なんだ』
寒気に脅かされながら私は奏を見つめた。心の色を感じさせない奏の口ぶりは、少なくとも聞き手の私を安心させる代物ではなかった。『僕がいなくても平気』という称賛めいた言葉を、この人はもっと他の用途に使おうとしている。たとえば、私から離れてゆくための口実とか。
ゆっくりと首を振り、奏は私から目線を外してゆく。夕刻の校舎内に照明はまだ灯っていない。紫色の薄暮の立ち込める上り階段の先を奏は見上げた。おぞましい気配が不意に私を飲み込んだ。たぶん、階段の先に待ち受けているものの正体を無意識に理解したのだと思う。そのまま彼が一段目に足を掛けようとしたので、焦りを深めた私は思わず「待って!」と腰を上げた。
「どこいくの」
奏が立ち止まった。
『どこもいかないよ』
「見え透いた嘘つかないでよ。いつだって嘘ばっかりじゃん。勉強会の時だって、痴漢から助けてくれた時だってっ」
奏は分かりやすく動揺した。引き揚げられた魚のように奏は小さく跳ねて、目の端だけで私を振り向いて、『何のこと』と問うた。「あんたがいちばん分かってるでしょ」と私は言い返した。何がなんでも奏を階段の手前で引き留めねばならなかった。
「ねぇ、中川。ずっと隠してたことがあるんじゃないの。痴漢から私を助けてくれた夜、約束したじゃん。また会えたらそのときちゃんと話す、って……」
よもや忘れてはいまい。記憶力のいい奏のことだ。しがみつく思いで問いかけると、奏は小さく喉を鳴らして、またも私から目を背けた。学ランを羽織った大きな背中が、そのとき一瞬、ひどく萎びて見えた。
『……なんで覚えてるんだよ、そんなの』
声に感情が乗り始めたのを私は悟った。
『なんでもない。綾瀬を助けたのは気まぐれ。本当にそれだけだよ。隠し立てするようなことなんて本当は何もなかったんだ』
「言ってるそばからまた嘘つくわけ。さっきは『ずっと気にかかってた』って話してたくせに」
『う……』
「本当のことを言うのがそんなに怖いの」
『……そういうわけじゃ、ない』
「どうせそれも嘘なんでしょ」
奏は押し黙った。
「私だって怖いよ。本心をさらけ出すのはいつだって怖い。だけど口にされなきゃ何も分かんない。都合のいい以心伝心で分かり合えるほど、きっと私も中川も器用じゃないんだよ。お願いだからもう、何も隠さないでよ。分かり合えないまま離ればなれになりたくないよ。私も逃げないって約束する。どんな言葉もはねのけないで受け止める。だから、ちゃんと私を見てよ。最期くらい……」
喘ぐように私は奏を追い詰めた。どれだけ言葉を尽くしても信用されることはないと、心のどこかに自覚は持っていた。これまでの言動を少しでも顧みれば、よほど私の説得の方が信憑性を欠いていると誰もが思うだろう。だからこそ、今は畳み掛けるしかないのだ。このひとの胸へ確かに届くまで。
どうあっても奏は私を振り向かない。
大きな背中がわずかにこわばってゆく。
『きっと……迷惑になる』
肩を震わせ、喘ぐように奏は訴えた。
私は千切れるほど首を振った。かすれた声で「ならない」と叫んだら、また奏の肩が震えた。伸びた夕陽が足元の暗がりを照らし出す。手入れの行き届いた革靴の踵が、ちらちらと光を照り返して私を見る。長い、長い、途方もない逡巡が続いた。
『……気になってたのは、嘘じゃないよ』
消え入るような声が足元に散らばった。
『でも、普通の意味の“気になる”じゃない。もっと生々しい方の意味。……小学生の頃から、綾瀬に、憧れてた』
誰の靴音もない、静まり返った校舎の片隅に、溜め息交じりの言葉が染み入るように広がってゆく。私は黙って耳を傾けることに徹した。奏のお父さんから大要を聞いていたおかげで、いくらか心の準備もできていた。
『綾瀬は他のやつらにはないものをたくさん持ってた。努力家で、まっすぐで、ほんの軽い表面上の動機で誰かをちやほやしたりしない。そこへ行くと僕なんか、家が金持ちだの容姿がいいだの、生まれつきのことで褒めそやされてばっかりだ。誰も僕の中身になんか目もくれないんだ。それってさ、すごく寂しいことなんだよ。綾瀬には嫌味に聞こえるかもしれないけど……』
「…………」
『僕は多分、頭の出来は綾瀬ほど良くない。運動神経だって良くない。綾瀬みたいな努力の蓄積もない。見てくれには多少の魅力があるとしても、中身を見られたら綾瀬には敵わない。それが悔しかったし、羨ましかったし、尊敬してた。自分にはないものをたくさん持ってるのに、いつもひとりぼっちで隅っこに腰かけてる綾瀬のこと、何とかして表の世界に引っ張り出して、みんなにも綾瀬の魅力を認めてほしかった』
「……それで、学芸会で私のことを?」
『望む通りにはならなかったけどさ』
奏の声色は沈鬱だった。
『いまもずっと後悔してる。みんなをねじ伏せてでも、あのとき綾瀬を主役に据えればよかった。台詞のない侍女役の綾瀬がぽつんと立ってるのを舞台の上で目の当たりにしたとき、ああ、この子に笑ってほしかったのにって心の底から悲しかった。舞台を降りて衣装を脱いでも胸の痛みは消えなかった。どうしたら綾瀬に笑ってもらえるだろうって、気づけば四六時中、綾瀬のことばっかり考えるようになって……』
たは、と奏は嗄れた声で笑った。
『おかしな話だろ。笑ってくれたらいいよ。僕、綾瀬に夢中だったんだよ。どうしようもなく綾瀬に憧れてたんだよ。それも単なる憧れじゃなかった。みんなに綾瀬のことを見てほしいのと同じか、それ以上に、綾瀬にも僕のことを見てほしかった。ほんの少しでもいいから笑いかけてほしかった。僕は多分、綾瀬のことが好きだったんだ。他の連中なんか目に入らなくなるくらいに……』
もたれた胃の底で私は奏の言葉を咀嚼した。恋愛に不慣れな私には、告白を受けたと悟るのにも数秒が必要だった。消化を終えて整理された奏の本心は、お父さんの語り聞かせてくれた内容とも矛盾していなかった。ぐったりと漏れ出した嘆息は、海の底から掻き上げたヘドロのように真っ黒だった。
ああ、分かっていても息が苦しいや。
もっと早く私が奏と向き合っていれば、こんなすれ違い、どこかで防げていたのかな。
にわかに身体が熱を帯びる。つんと痛んだ鼻先に、目頭に、塩味が染みる。やっぱり私の人生なんて反実仮想だらけだ。にわかにあふれ出した赤紅色の感情を、“呪い”の解けた喉は堰き止めてくれなかった。
「……なんで素直に言ってくれなかったの」
奏の肩が小さく動いた。骨ばった丸い背中に私は「ばか」と訴えた。跳ね返った言葉で私自身をも断罪するつもりで。
「本っ当、ばか。私もあんたも最高にバカ。私たち両想いだったんじゃん……っ」
ついに奏は私を振り向いた。
白化した珊瑚礁のような頬に赤紅色の感情が巡ってゆくのを、いまにも破れそうな心音を聴きながら私は見つめていた。見開いた目を閉じて、また開いて、『嘘だろ』と奏はうめいた。「嘘じゃないよ」と私は胸をつぶして叫んだ。この期に及んで嘘つきな奏と一緒にされてはたまらなかったから、目を閉じて、一歩を踏み出して、立ち尽くす奏の手を握りしめた。
熱い。
滲んだ汗が肌と肌の境界を融かしてゆく。
手のひら越しに伝わる奏の拍動が、打ち寄せる波のように刻一刻と早く、高くなる。──ああ、生きてる。夢じゃないみたいだ。なんだか声を上げて泣きたい気分だ。恐る恐る顔を上げたら奏と目が合った。奏はいまにも崩れそうなまなざしで、手を伸ばす私をゆらゆらと照らしていた。
『綾瀬……』
「灯里でいいよ」
そっと遮りながら、私は無理に口角を上げた。
「私もあんたのこと、下の名前で呼んでもいい?」
握りしめた手から流れ込んだ奏の体温が、じりじりと弱い肌を焼き焦がす。この手を離せば最後、奏は垂れ込める薄暮に呑まれて死んでしまう。痛ましいほど必死な私を、奏は呆然と見下ろすばかりだ。ああ、どうかここから離れないで。手の届かないところへ逝かないでよ。汗ばんだ手のひらに切実な祈りを込めて、ぎゅうと握りしめた。『灯里……』と奏が泣きそうな顔で呻いた。はじめて呼ばれた名前の甘美な響きに、私はくずおれそうなほど震えた。びりびりと身体が痺れて言うことを聞かない。この分不相応に可愛らしい名前も、可愛らしくない背格好も、名前負けしている性格も、あんなにも大嫌いだった自分の全てを、名前を呼ばれただけで肯定されたような気分だ。
あふれ返った多幸感は長くは続かなかった。
おもむろに奏は腕を持ち上げた。
そっと振り払われた手のひらが空を掴んだ。
激しい寒気に呑まれて「あ……」と叫びながら、とっさに私は奏へ手を伸ばした。引き留めなきゃ──。切迫感に溺れる私の干渉を、奏は両手を隠すことで拒絶した。
『……駄目』
嗚咽を噛み砕くように奏は声を揺らした。
『もう、遅いんだ。なにもかも手遅れだから。灯里も僕なんかにこだわるなよ。もっと他にいい人を見つけて、その人を好きになりなよ。素敵な出会いなんかいくらでもあるだろ』
「なんでよ。あんたがいいって言ってるんじゃん。なんでいまさらそんなこと言うのっ……!」
『もう灯里のそばにはいられないからだよっ』
奏は目を瞑り、すがりつく私をはねのけた。
吹き飛んだ多幸感の代わりに現実がなだれ込んできた。すでに奏は死んでしまったのだという、身も蓋もない、取り返しのつかない現実だ。息を詰まらせてあえぐ私を、奏は顧みてもくれない。みずからの胸にも言い聞かせるように、冷えた手を胸に押し当てて、絞り出すように叫ぶばかりだ。
『いつか僕のこと、大嫌いって言ってくれたじゃないか。僕のすべてを好きになったわけじゃないなら、きっと嫌いにだってなれる。そのうち僕のことなんて忘れてしまってもいい。……ううん、忘れてほしかったんだ。灯里が僕に忘れられることを望んだのと同じだ』
「違う! 同じなんかじゃない……!」
『同じだよ! なぁ、頼むから言うことを聞いてよ。僕と出会わなきゃ、灯里は僕の死に立ち会うこともなかったんだ。僕への想いが実らなかったことを悔いる必要もなくなるんだ。そうだろ。僕が灯里を不幸にしたんだよ。綾瀬が忘れてくれなきゃ、きっと僕は十年たっても二十年たっても、つらい記憶で綾瀬を縛り続けることになる。そんなの絶対に嫌だ。綾瀬には笑って暮らしていってほしいんだ。幸せになってほしいんだよ……』
唇を噛んで、頭を振って、奏はうなだれた。
乱れた前髪が瞳の色を隠してゆく。
『頼むよ。……僕を嫌いになってくれよ』
私は悄然と階段下に立ちすくんだ。伸びきった夕暮れの日射しが足首にまとわりついた。奏の足元を照らす光はない。深海よりも昏い、二度と這い上がれない永久の暗闇が、いまにも階段の上から染み出すように広がって、無防備な奏を頭から飲もうとしている。私も同じ色の失意に染まりつつある。たとえ私が身体を張って止めようとも、夜の浸潤を抑え込むことはできない。私は奏を引き留められない。いや、もともと引き留められるはずがないのだ。だって現実の奏はすでに死んでいるのだから。
それなら私はどうすればいい?
望まれた通りに奏を嫌いになればいい?
中川のことなんて知らない、大っ嫌い──。むかし叩きつけた呪詛の言葉を、言われるまま、震える手でそっと心の底に並べる。痺れた胸に遠い日の痛みがよみがえる。あらゆる渾身の善意を否定され、『何の期待もしていない』とまで切り捨てられて、あのときの私は満身創痍だった。奏を嫌悪しないことには自分を保っていられなかった。いくら私を突き放すことが互いのために必要だったとしても、あんな言い草、あんまりじゃないか。そういう配慮のなさが昔から目についていたのだ。私を突き放せばすべてが丸く収まるという、浅はか極まりない短絡的な配慮。──ううん、そんなものは配慮とも呼べない。だって残された私の気持ちなど、少しも慮ってはいないじゃないか。
そういうところも嫌い。
あれも嫌い、これも嫌い。きっと挙げ始めたら際限がない。
だけど何よりも嫌いなのは、「嫌い」ばかりでは片付けられない私の心境を勝手に推し量って結論付けようとする、自分嫌いな奏の考え方そのものだ。
思うままにならない唇を私は小さくこじ開けた。
呪いの解けた喉から、ぽたりと心のかけらがこぼれ落ちて床に広がった。
「……嫌いだったよ」
奏が身じろぎをした。
「大っ嫌いだった。無神経なところも、不誠実なところも、ずっとずっと嫌いだった。それでも私、あんたにすがりついて生きるしかなかった。あんただけが私を人間として扱ってくれたから。ひとりぼっちにならないで済んだのは、あんたのおかげだったから……」
ぼろぼろこぼれた心は見る間に大きな水溜まりを描いてゆく。歪み切ってしおれた私の顔が地面に映った。ぐしゃりと私は制服の袖で顔を覆った。
「学芸会の主役に誘ってくれたこと、本当は、とっても嬉しかった。痴漢から助けてくれた時はもっと嬉しかった。手を握ってくれた時はもっともっともっと嬉しかった……。なのにあんたはいつも土壇場で私を裏切った。舞台の上では他の子と見つめ合って、勉強会でも私を置いてけぼりにして、握った手も勝手に振りほどいて……。あんたとの日々は幸せと不幸せの連続だった。振り回される私の気持ちなんてあんたには想像つかないんだろうね。あんたみたいな不誠実なやつに依存しちゃった私の痛みなんて、もう一生……分かんないんだろうね」
嗚咽が収まらない。
喉のキャパシティを越えて昂りすぎた感情が渋滞を起こしている。
それでも私は最後まで言葉を切りたくなかった。手のひらを胸に宛がって動悸を抑え込んで、しゃくり上げながら「それでもね」と続けた。
「私、幸せだったよ。あんたに振り回される時間は幸せだったんだよ……。この恋が依存でしかなかったんだとしても、それでも私、奏のこと、大好きだったんだよ……っ」
中川奏に恋をして、夢中になって、たくさん泣いて愛に飢え続けた日々の履歴を、私の口からはどうあっても否定できなかった。あふれ返った感情の処理が追いつかないでいるうちに、気づけば奏を下の名前で呼んでいた。しまった、やっちゃった──。慌てふためいて撤回を試みようと開いた口を、振り向いた奏の胸が飲み込んだ。
奏は私を力いっぱい抱き締めた。
息もできないほど懸命に。
『灯里』
奏は声を詰まらせた。
『ごめん……灯里……ごめんっ……』
涙の染みた学ランには奏の匂いが染みている。しがみつくように胸へ顔を埋めながら、むせ返るほどの匂いに私は溺れた。どうして謝るのかと尋ねることはしなかった。抱き締める腕の帯びた震えに、隠しきれない奏の本音がそのままあらわれているように思えたから。代わりに私も渾身の力を込めて奏を抱きしめ返した。「バカ」と罵る代わりに爪を立てて背中にしがみついて、「奏」と名前を呼んだ。沸き立った胸底から無数の泡が立ち上ってきた。せっかく呼んだ名前も泡と嗚咽にまみれて、奏の耳に届いたのかどうかも分からない。だから届くまで何度も呼んだ。たちまち声は嗄れ果てて、荒れた喉の奥からは赤紅色の鉄の味が流れ出した。それは、どんな語彙を尽くした「好き」や「愛してる」よりも深く、もどかしくて塩辛い、初恋の味だった。
ああ。
奏。
かなた。
私の大好きだった人。
私を愛してくれた人。
たくさん傷つけてごめんね。
素直になれなくてごめんね。
せめて彼方へ渡ってしまう前に、もう少しだけ、私のそばにいて。みじめな私を離さないで、その匂いと温もりと声色で私を染め上げて。二度と忘れられないくらいに──。
忍び寄る夜の気配を背中に感じながら、私は死にものぐるいに奏を抱きしめた。ぐちゃぐちゃの顔では奏を見上げることも叶わなかった。奏も私の名前を呼んだ。お互い、名前以外の言葉は何ひとつ口にできないまま、頼りない互いの温もりにぐったりと浸かり続けた。足元を照らす金色の夕陽が消え、立ち込めた宵闇が奏の影をおおい隠してゆくのを、細い腕が鳥肌を帯びながら感じ取った。やがて、視界にも夜の帳が下りて、ぱちんと音を立てて最後の泡が弾けたとき、私は自室のベッドへ横たわったまま、抱き止めるもののなくなった腕を片側に投げ出していた。力の入らない上体をもたげ、そこに奏の姿がないのを確かめたら、充血した目のふちを一筋の涙がこぼれ落ちていった。三年前の卒業式では流せなかった別れの涙だったことに気づいて、そっと私は背中を丸めた。穴のふさがった心が力強く血潮を送り出し、身体中に熱が行き渡ってゆくのを、小さな胸の中へ確かに感じ取った。
三年越しの“卒業”が終わった。
私たちは正真正銘、最後の別れを告げた。
明日からは私も、奏も、永遠に袂を分かって、決して交わることのない別々の世界を生きてゆく。
「また、会えるかな」
▶▶▶次回 『21 まだ見ぬ春の彼方に』




