02 人魚姫の憂鬱
綾瀬灯里、十五歳。
身長一六〇センチ。体格は普通。
特技も特徴も恋愛経験もない、ありふれた思春期の中学生。
経験ゼロは誇張じゃない。足掛け九年間、ずっと共学の学校で過ごしているのに、付き合ったこともなければ告白したこともない。そもそも中学に上がって以来、誰かに心をときめかせた記憶がない。上級生や同級生の素敵な一面に触れても、すぐに心が醒めてしまって熱が持たないのだ。どんな美形にも靡かない退屈な私に、同級生たちは寄ってたかって「堅物」のレッテルを貼った。色恋沙汰になんか興味のない、いつでも真面目な堅物優等生。それが三年間の中学生活で私の背負ったレッテルだった。本当は興味津々なのに──。誤解だらけの色眼鏡で見られるたび、きゅっと喉が絞まって息苦しくなる。友達に彼氏ができたのを知ったときは一丁前に羨んだりもした。情けなくて言葉には出せなかったけれど。
初恋の相手は小学校の同級生だった。いつも物腰柔らかで仲間に囲まれていて、そのくせ地味な私にも気さくな人だった。隣り合っていると頬が火照って、優しくされるたびに息苦しくなって、気づけば彼の姿を懸命に追うようになった。この小さな胸に滲む紅色の憧れが恋だと気づいたとき、すでに私は六年生だった。別れの時は着実に迫りつつあった。私は中学受験をして地元を離れ、初恋の相手とは違う学校へ進むことに決めていた。いっそ入試に落ちてしまえばよかったのに、重ねた努力は嘘をつかなかった。
初めての恋心は泡みたいだった。ふわふわと淡く透き通っていて、指先でつつけば割れそうなほどに脆かった。ついぞ告白できないまま卒業の日を迎え、行き場のなくなった大きな泡を、私は泣く泣く海の底に沈めた。いつか、存在もろとも忘れ去ってしまえたらいいな。その頃には私も大きくなって、次の恋に夢中になっているだろうから──。情けない打算とともに成就のチャンスを封印した私は、多分、そのとき同時に、恋に落ちるための鍵も水底へ落としてしまった。あれから私は一度も誰かを好きになれないでいる。初めての憧れを叶えきれなかった悔いが、根深い遺恨となって心の奥に棲みついている。
中川奏。
私の初恋を奪った人の名前だ。
そして、いまだに私を呪い続けている人の名前でもある。
無為のうちに三年の月日が経った。とうとう次の恋で履歴を上書きすることもないまま、思いがけず中川と再会を果たしてしまった。ショックで周りが見えなくなって、気づけば動揺のあまり中川を突き放していた。たぶん、泡は割れた。私の初恋劇は三分足らずで幕を閉じた。叶わぬ恋に焦がれて海の藻屑になった人魚姫のように、呆気なく、跡形もなく。
一晩たっても動揺は収まらなかった。起床早々、目覚まし時計代わりのスマートフォンを顔面に落として、朝食の目玉焼きをスウェットにこぼして、しまいにはリュックサックを忘れたまま玄関を飛び出しかけて、お母さんに怪訝な顔をされた。「寝ぼけてただけ」と下手くそな嘘を繰り返して、逃げるように私は家を出た。
言えるわけない。
中川のことも、痴漢のことも。
この醜い身体の秘密を知られたら、きっと軽蔑されるから。
冬晴れの空が目を焼き焦がす、明るい朝だった。心の中は隙間のない曇天だった。やることなすこと全てに意欲が湧かなかった。夢遊病みたいな足取りで電車を乗り継いで、通学路の急坂を登って、守衛さんの挨拶にも機械的に頭を下げ返した。白塗りの校門の向こうに広がる校地には、二棟の校舎と中庭、テニスコートやバスケットボールコートが漫然と並んでいる。朝練に励む子たちの声のまばゆさに、引きずる影がちょっぴり重たくなった。
東京都文京区の北西端、閑静な住宅街の隙間を縫って大学や高校がひしめく文教地区の一角に、私の学校は居を構えている。湯島大学附属中学高等学校、略して湯附。国立の総合大・湯島大学を母体に持つ、由緒正しい男女共学の中高一貫校だ。進学校にありがちの自由な校風で、制服も存在しない。私自身、適当に選んだブレザーを着込んで登下校している。これといって服装にこだわりを持っているわけでもない私には、身の丈に合ったものを選べるなんちゃって制服は便利で好都合だった。
「はー疲れた! 朝からめっちゃ汗かいちゃった」
晴れやかに飛び込んできた声の主が、机に突っ伏す私を目ざとく見つけた。軽い足音が近づいてくる。私はちょっぴり身体を固めて、組んだ腕から顔を上げた。
「おはよ、あかりっ」
「……おはよ」
「朝から元気ないな。親とケンカでもしたの」
「それは昨日のひかりでしょ」
へへ、と舌を出しながら、彼女はショートカットの髪を掻き上げた。クラスメートの女の子、新井光莉。女子バスケ部の中学チーム主将を務める子だ。ブレザーのジャケットの下に大きなパーカーを羽織り、ジャケットの前を思いっきり開け放っている。見た目通りの開けっ広げな性格が垣間見える。
「だって小遣い減額とか言い出すんだよ? ありえる? 据え置きならまだしも減額とか聞いたことないし! いくら抗議しても耳も傾けてくんないしさっ」
「どうせほとんどゲームの課金に使ったんでしょ」
「決まってんじゃん。イベが近いんだもん」
「それで一体いくら使い込んだわけ」
「いくらだろ……月に五千円くらい?」
減額されて当然だ。私は腕に顔を埋め戻した。「あかりまであたしを見放した!」とひかりが騒ぎ立てたけれど、そんな些細な問題で大騒ぎしないでほしいものだった。ひかりのレベルで親と喧嘩できるなら、毎月わずか千円のお小遣いで我慢している私は暴動やテロにも訴えられる。
「朝から盛り上がってるね」
寝癖まみれのボブカットの女の子が、ぽわぽわとあくびをしながら隣の席にやってきた。目を配ったひかりが「うわ」とつぶやいた。
「ひどい頭」
彼女は真っ赤になって、荒れ果てた植木みたいな髪の毛を撫でつけにかかった。
「これはその、寝坊寸前で、とかす暇なくてっ」
「まーた遅くまで絵でも描いてたんでしょ」
「なんで分かるの……」
「バレバレなんだっての。そんな格好じゃ彼氏の一人もできないぞ」
ひかりが呆れ笑いを滲ませる。寝癖の彼女は頬を膨らませて「あかりだって寝癖ついてるじゃん」と言い募った。「私のは天パだから」と私も言い返した。こんな怠け者と一緒にされてたまるものかと思った。毎朝、毎朝、身だしなみを整えようと必死に格闘しているのに。
イラスト研究会副代表、加平縁李。国語と英語と芸術に能力を全振りしている女の子だ。ひかりと違ってブレザーはきっちり着ているけれど、締まりのない性格は髪を見れば歴然。私の友達は誰も彼もこんな調子だ。異性の目なんか気にも留めずに、平然とスカートの裾を仰いで風を送ったりする。ガサツで、無頓着で、子どもっぽい。けれども類は友を呼ぶというから、本質的には私も二人の仲間なのかもしれない。
自分の飾り方なんて分からない。お洒落をしたって似合っている気がしない。ほの暗い自己否定に背中を刺されて、いつも無難な格好を選んでしまう。こんなことだから取っつきにくい堅物だと思われて距離を置かれるわけだ。きっと私はまだ、一人前の色恋沙汰を嗜むには幼すぎるのだ。神様もそれを分かっていたから、あんな風に中川と私を引き合わせて、フラグを粉々にするような運命を仕向けたのだろうか。
べこん、と間抜けな音を立てて、また心が凹む。腕に埋もれたまま吐息に溺れる私を、おっかなびっくりゆかりが覗き込んできた。
「どうしたの、あかり。調子悪いの?」
「なんかあったっぽいんだけど白状してくれないんだよね」
頬杖をついたひかりが、心の色を伺うように私を眺め回す。また少し身体が強張って、心の守りを硬くする。残念ながら事の次第を白状する気は皆無だった。腕の中に閉じこもって沈黙を守っていると、ひかりとゆかりが意味ありげに視線を交わした。
「気になるね。あかりが悩み事なんて珍しいもん」
「ちょっとくらい話してくれたっていいのにな。あかりも強情だから」
「話すように仕向けるしかないんじゃない?」
「拷問して吐かせるか」
「わたしも同じこと思った」
私は腕の中で息を呑んだ。
ちょっと待って。やめて。お願いだからやめて。哀願しながら身構えた私の両脇に、ふたりの指が蟹のような動きで迫ってくる。脇腹を締めたときには手遅れだった。くすぐりの猛攻に私は身をよじっていた。だめ、だめ。耐えられない。身体が跳ねて言うことを聞かない。引き揚げられた蟹みたいに泡を吹きそうだ。
「くっ……ははっ……待ってお願い頼むから本当にっ……っふひひっ……!」
「分かったら観念して事情を吐け!」
「そうだそうだ! この敏感肌!」
敏感肌ってそういう意味じゃないと突っ込む余地も与えられない。きっかり三十秒もくすぐられ続けて、私は息を荒げながら机に崩れ落ちた。身体中が電流を浴びたように痙攣している。満足げな二人の笑みが網膜に焼き付く。二人が私の前で「拷問」と口にするときは大抵、この苛烈なくすぐり地獄を指していた。私の肌が刺激に弱いことを、この二人は腹が立つほど熟知しているのだった。
「観念した?」
ゆかりが嬉しそうに畳み掛ける。ぐったりと私はこうべを垂れた。
「観念したからもうやめて。話すから。ちゃんと話すから……」
ハッタリだ。それらしいカバーストーリーをでっち上げて、ひとまず二人を納得させて追及の手を逃れようと思い立ったのだった。そうとも知らない間抜けな二人は爛々と目を輝かせている。私は口元の泡を入念に拭った。くたびれた頭で昨日の出来事を因数分解して、パーツを並べ替えて、懸命に作り話を思案した。
──ああ。
何もかも本当に作り話だったらよかったのに。
中川との出会いも、別れも、再会も。
そしたら私だって今頃、誰かの前で真っ当に恋をしていたの?
ずんと胸が重たくなって、嘘を削り出すナイフの切っ先が震える。だんだん頭もこんがらがってきた。私、いま、どこまで作り話を組み立てたんだっけ。
「……昔の知り合いと会ったの。昨日、偶然、道端で」
ちびちび切り出すと、すかさず「昔って?」とひかりが茶々を入れた。
「昔は……昔だけど」
「小学校じゃない?」
「自然に考えたらそうなるよな」
「ちっ違うし! その、昔の友達ってだけで別に小学校なわけじゃっ……」
稚拙な弁解を垂れる私を、ひかりも、ゆかりも、ニヤニヤ口角を上げながら見守っている。
「それでそれで?」
「それで……ちょっと話したんだけど上手く話せなくて、逃げ出しちゃって、それで自己嫌悪してたっていうか」
「それだけでこんなに凹むことある?」
「知り合いって友達なの?」
「当たり前でしょ。普通の友達だよ。向こうは友達と思ってなかったかもしれないけど、その……」
「性別は?」
「……女子」
「男子だな」
「顔が男子って言ってるよね」
うっかり墓穴を掘りそうで何も言い返せない。もう嫌だ。当てずっぽうの無邪気な推理が、塗り潰したはずの真実を見る間に丸裸にしてゆく。
「え、まさかとは思うけどさ」
ひかりが身を乗り出してきた。
「むかし好きだった子と再会したのに上手く話せなかったとか、そういうやつ?」
好奇心いっぱいのまばゆい瞳が心の洞を照らした。どうにも誤魔化しきれなくなったのを悟って、力尽きた私は額を机に押し当てた。降参だった。
たちまち「へぇー!」とひかりがすっとんきょうな声を上げた。
「あかりにも好きな子っていたんだ。そういうのぜんぜん興味ないのかと思ってた」
「ねー。なんかこう、恋愛なんかくだらないって思ってるイメージだったのにな」
「ねね、どんな子なわけ? イケメン?」
「あかりのタイプなの? なんで好きになったの?」
尋問されるままに私は昨日の顛末を白状した。
どうにでもなってしまえ。どうせ叶わない恋なんだから。諦念に駆られて自暴自棄に染まりながらも、痴漢の件だけは厳重に隠匿するのを忘れなかった。ひかりもゆかりも猫みたいに目を光らせて聞き入っている。ガサツで、無頓着で、子どもっぽくても、こうして恋バナには夢中になるあたり、やっぱり私たちは疑いようのない年頃の中学生だった。
「──要するに素直になれなくて突き放しちゃったってこと?」
ひかりの尋問は包み隠すということを知らなかった。しぶしぶ、私は小首を垂れた。二人は雪解け水がこぼれるように表情筋をほころばせた。
「あかりらしい!」
「そういうとこ不器用そうだもんね、あかり」
「可愛いなぁ。真っ赤になって逃げ出すあかり見てみたかったよね。どんな顔してたんだろうな」
「見てよひかり、いまもちょっと耳が赤いよ」
うるさい。もう二人には何も期待しない。正直に話した私がバカだった。私はすっかりへそを曲げて、ふたたび腕枕の中へ閉じこもった。二人に悪気がないのは分かっているけれど、裏切られたような心持ちが消えない。私の不器用な純情は結局、取るに足らない退屈しのぎの話題にしかならなかったわけだ。
鈍い嘆息が口元を湿らせる。ふて寝を決め込んでいると、二人の下品なニヤニヤ笑いは聴こえなくなった。代わりに細い指が数本、束ねたポニーテールを掻き分けて、そっと私の頭を撫で始めた。跳ねかけた身体を引き締める私の耳元に、「大丈夫だよ」と丹念な声が吹き込まれる。ゆかりの声だった。
「初恋が破れたくらいで凹まなくたって、そのうちいい出会いがあるよ。あかりは純粋だし、真面目だし、良い子だもん」
「うんうん。そのへんのスレてる陽キャなんかより何倍も大事にされるよね」
「褒めてんの……それ」
「当たり前じゃん。なんで疑う必要あるわけ」
ふんとひかりが鼻を鳴らす。穏やかな冬晴れの差し込む教室に、二人の指先の醸し出す穏やかな温もりが染みて広がる。陽だまりの底で私は唇を結んだ。素敵な出会いなんてなくてもいいから、せめて今の気持ちに引導を渡してしまいたい気分だった。中川に軽蔑された──などというのは実のところ私の勝手な推定に過ぎなくて、本人の口からは何も聞けていない。私の初恋は浜辺に打ち上げられた魚のようだ。生き延びることも潔く死ぬことも許されずに、命の尽きる瞬間を虫の息で待ち続けている。
「……無理だよ。私に恋愛なんて」
やけくそ気味につぶやいたら、「またまたぁ」とゆかりが手を止めた。
「あのひかりにだって彼氏いたことあるんだよ。あかりだったら何も心配ないよ」
「どういう意味なのか詳しく聞かせてもらおうか」
隙のない笑顔のまま、ひかりがゆかりを羽交い絞めにする。「んにゃ!」とゆかりが悲鳴を上げる。私は目を伏せて痴話喧嘩から意識を外した。
もう別れてしまったみたいだけど、ひかりは先日まで男子バスケ部の先輩と交際していた。情熱的なデートの模様を語る彼女の笑顔は珊瑚みたいに華やかで、なんだかひどく気後れしたのを覚えている。思えば無理もないことだ。だって、初恋を無様に散らした私と違って、ひかりの恋は成就したのだから。
ああ。
もしも素直になれたなら、いまごろ私もひかりのような笑顔に恵まれていたのかな。
私じゃダメかもな。だって笑顔の少ない堅物だもん。暗澹たる諦念が差して、私はまたも腕に顔を埋めた。授業開始五分前の予鈴が遠く響いた。視界の外で「ねぇ腋の下はダメ! 拷問反対!」とゆかりが断末魔を発した。
「また昔みたいに仲良くやれたらいいなって思ったから、こうやって声をかけたんだ」
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