19 残り香
中川家の威容は私の予想を裏切らなかった。
ロフトもある。駐車場もある。それほど広くはなさそうだけれど庭もある。どれも私の家にはないものだ。立派なSUVのボンネットには桜の花びらが一枚のっていた。とぼけた色の花のかけらは、手入れの行き届いた銀色のボディの上では憐れにくすんでいた。
千寿桜葉小学校の校門から徒歩三分。雑然とした狭い住宅街の一角に、奏の家族は場違いなほど立派な居を構えている。玄関をくぐった先には居間へ続く廊下がまっすぐに伸びていて、右手には水回りの部屋と、それから誰かの寝室があった。
「入るよ、奏」
案内に立ってくれた奏のお父さんは、居間には向かわず、右手の寝室のドアノブを握った。
カーテンの閉ざされた寝室はひんやりとしていた。主のいないベッドの脇には、小さな木製の棚が寄り添うように置かれていた。黒い額縁に入れられた一枚の写真と、一抱えもある箱が、棚の上で静かに肩を並べている。込み上げる吐き気を私は寸前で我慢した。よろめくように棚の前へ座り込んで、「これが……」と問うた。いまさら問うまでもないのだけれど、誰かの言葉で確かめずにはいられなかった。
「息子です」
奏のお父さんは気丈だった。
「なにぶん身体は立派に育っていたもので、サイズの大きな成人用の骨壺を用意していただいたんです。骨もしっかり焼け残っていて、壺に納めるのに苦労したものです。もっと大きくなるはずだったでしょうが、遺された親としてはせめて、そんなことでも慰みにするしかない……」
おそるおそる私は骨壺入りの箱に手を伸ばした。箱は専用の白い袋にすっぽり収まっていて、まるで神様へのお供え物か、あるいは神体そのもののように厳かだった。この中に私の大好きな人が収まっているようには、まだ上手く信じられない。幸か不幸か、いまだに私は今度の件を含め、葬儀には一度も参列したことがない。焼骨後の亡骸がどんな姿になってしまうのかも、どれほど重みを欠いてしまうのかも知らない。
ねぇ、奏。
新しいベッドは綺麗だね。
もう、痛くないんでしょ。怖くないんでしょ。
頬を落ちる光を指先ですくい取って、その手で箱を撫でてみる。箱はひどく冷たかった。あの包み込むような温もりはそこにはなかった。優しい匂いだけがあたりを漂っている。部屋中の形見に気配が残っている。いつまでもここにいると溺れて息が詰まりそうだ。
「……ありがとうございました」
追悼を終えて立ち上がると、「いえ」と奏のお父さんは首を振った。
「来ていただけてよかった。息子もよろこんでいるでしょう」
父親の言葉を裏付けるように、額縁のなかで奏は微笑している。私にはまぶしすぎて直視できなかった。この数か月間、私の前ではちっとも笑ってくれなかったのにな──。ぐずぐずと深まる悲嘆をこぶしでぬぐって、お父さんと一緒に奏の部屋を出た。小さな胸はふたたび奏の匂いで満たされた。息を吸っても、吐いても、消え去ることはなかった。
窓の外をうかがえば、風に乗ってたどり着いた桜の花びらが、ささやかな庭を点々と彩っている。三月半ば、東京のソメイヨシノは気象庁の開花予想通りに見頃を迎えた。二月上旬に奏が死んで以来、早くも一ヶ月以上の歳月が経とうとしていた。
本当は、もっと早く中川家に来たかった。けれども心の整頓がつかないうちはどうにもならなかったし、それには途方もない時間が必要だった。ひかりとゆかりの献身的なサポートのおかげで、胸底に巣食っていたドロドロの自己嫌悪も多少は目減りしたように思う。苦しみを打ち明けようにも最初は感情が収束しなくて、吹きこぼれた泡のように喉からあふれるばかりだった。ぎこちない言葉に置き換えられるようになったのは今月上旬のことだ。解毒の作業は思ったほどスムーズにはいかなかった。
自分を客観視するのは難しい。置かれた状況を素直に俯瞰できるほど、私の頭脳は器用じゃない。だから私には時間が必要だった。時間をかけて少しずつ、喉に絡みついた瘡蓋を剥がしながら、これまでのすべてを言葉に置き換えた。小学校での出会いの経緯から、痴漢との一件、勉強会、そして死別の瞬間に至るまで、私の目にしたすべてを二人に話した。そしてそれはとりもなおさず、私自身の胸に語り聞かせて情報を整理するためでもあった。
私は片想い相手のことを何ひとつ知らなかった。
そんな皮肉な現実が、打ち明けるたびに刻一刻と浮き彫りになった。
中川奏は何を思って私に近づき、親しくなり、痴漢から私を守ろうとして死んでいったのか。二人の呈した疑問に私は何も答えられなかった。幼馴染の元同級生だから、としか説明できなかった。実際問題、私自身も最後まで知らされなかったのだから仕方がない。たったひとつ確かなのは、不可解な奏の本性を知る努力も払わず、その勇気さえも持てないまま、私は奏に恋をして、奏の庇護を当てにしていたということだけ。──そう思うと、ひどく盲目的な、依存のような恋だったのかもしれない。
奏を知りたい。
私の恋した人のすべてを知りたい。
知ったところで未来は変わらないとしても。
そう吐露すると、二人は背中を押してくれた。おかげでこうして中川家の門戸を叩く決意ができた。両親にも事の次第を明かして、お母さんが同行を申し出てくれた。「もっと早く頼ってもらいたかったのに」と萎れ気味につぶやいたお母さんの声色には、どことなく、安堵じみた淡い青色の深みが聴き取れた。
奥銀山ダム再開発事業の本格化に伴い、日本発電事業開発の設置した奥銀山現地本部は、新年度を境に本格稼働を開始する。中川家もそれに合わせて予定通り、三月末に東京の家を引き払って新潟県魚沼市へ移住するらしい。奏の納骨を澄ませていないのもそのためで、引っ越し先で墓を探して埋葬するつもりだとお父さんは語った。もともと奏のお父さん自身が新潟出身なのだそうで、県内には実家や先祖の墓もある。奏も寂しくないでしょうと語るお父さんの目は、静かだった。
「ただでさえ身体の悪かった家内が、このところいっそう病状を悪くしましてね……。じつは今も入院中なものでして、ご挨拶もできずに申し訳ない」
丁寧な物腰で頭を下げられたものだから、お母さんも私も面食らって、慌ただしく頭を下げ返した。私の方から頭を下げて許しを乞うつもりでいたのに、これではタイミングが台無しだ。
「あの」
消え入りそうな声を投げかけると、お父さんが顔を上げた。たちまち粘っこい血が喉へ絡んで、私は言葉を絞り出すのもやっとだった。
「ずっと……謝らなきゃと思ってたんです。ごめんなさい……私のせいで……」
「あなたのせいとは我が家の誰も考えていません」
きっぱりとお父さんは遮った。
「どんな理由があろうとも殺人は殺人ですから。責めを負うべきは息子を手にかけた犯人だけです」
「……それは、そう、ですけど」
「話は伺っています。今度の犯人は以前、あなたに痴漢行為を働いていたのでしょう。その痴漢からあなたを守るために、息子は力を尽くしたのだと」
落ち着かない心をなだめてうなずくと、奏のお父さんは穏やかな深呼吸で肩の力を抜いた。ゆるゆると落ちていった視線が、居間の片隅に置かれた家族写真入りのガラスプレートを覗き込んだ。
「息子は命を懸けてあなたを守り、卑劣な犯罪者に立ち向かったんでしょう。命を落としたことは悔やまれてならないが、同時に親として、息子の生き様は誇らしいものだった。それで十分だ。だから恨むのも犯人だけで十分です。原因が誰にあるとか、そのまた遠因は誰にあるとか、そんな追究を重ねてもきりがない」
大人びている。激情に任せて【死ね】と一方的にメッセージを送りつけてきた、どこかの舞とは大違いだ。苦味の深いつばをぐっと喉の奥へ押し込んで、空しくなって、私は背中を丸めた。とやかく人のことを言えたものか。もしも立場が逆だったなら、私だって舞のように逆上していたかもしれないのに。
泣いても、笑っても、奏は戻らない。
いつかは誰もが奏の死を乗り越えて、ふたたび広い大地を歩き出すことを迫られる。
居間には引っ越し業者の段ボール箱がいくつも積まれている。いまだ嘆くことをやめられない私をよそに、奏の家族は一歩を踏み出しつつあるようだ。いつになったら私も後を追えるのだろうか。ひかりやゆかりの手を借りて現実と向き合い始めた今も、毎晩、毎晩、奏の死ぬ夢を見ては泣いてばかりいるのに。
「そんなに悲痛な顔をしないでいただきたい。責めていないというのは本当ですよ」
背中を丸める私に、そっと奏のお父さんはティーカップを差し出した。「息子の好きだった銘柄です」と余計な一言まで添えられて、私は思わず紅茶を塩味に染めかけた。
「むしろ、あなたには感謝を申し上げたいくらいだ。息子と仲良くしてくれてありがとう。世話になりました」
「世話だなんて……。私なんてたくさんいる友達のひとりに過ぎなかったと思います」
肩をすくめながら私は紅茶を啜った。とりたてて深い意味や自虐を込めたつもりはなかったのに、お父さんは「うん?」と眉をひそめた。
「そうなんですか。息子の話を聞く限り、あまり友達もおらずに寂しく過ごしているものだと思っていたんだが……」
今度は私が吃驚する番だった。そっくりそのまま「そうなんですか」と問い返すと、難しい顔でお父さんは首肯した。それでも実感が湧かない。小学校ではアイドルのように持て囃されていた奏が、「友達もおらずに寂しく過ごして」いたようには思われない。
「……息子は良くも悪くもまっすぐな子でね」
ガラスプレートの中の家族写真に積もった埃を、いたわるようにお父さんは親指の腹で払った。
「世間一般に比べると、うちの家庭環境はそれなりに恵まれている方だ。あの子は幼い頃からそれを分かっていました。われわれ親が口酸っぱく言い含めすぎたのもあるかもしれませんが、とにかく経済事情とか、容姿とか、家柄とか、そういう生来的な要素で誰かを差別しない子に育った。けれども世間はなかなかそうもいかない。聞けば、息子はずいぶんちやほやされていたみたいでね。容姿がいいだの、持ち物が高級だの、本人の力ではどうにもならない生得的な事情で持ち上げられることに、息子はだんだん嫌気が差していったようなんです」
ティーカップを置くのも忘れて私は聞き入った。どこか能面じみた奏の笑顔が、幻灯みたいに脳裏をよぎった。いつも無数の同級生に囲まれ、朗らかに笑い合っていた奏のまなざしを、そういえば私は鮮明に覚えていない。目が笑っていなかったからなのだろうか。
「しょせん環境によって美化されているだけで、自分は大したことのない人間なのだと、あの頃から息子は何度も口にしていた。やけに思いつめていると思ったら、どうも小学校の六年間、勉強でも運動でも決して敵わない相手がクラスの中にいたんだそうで。金管バンドに入って楽器を始めたのもその頃でした。息子なりに精一杯、新たな世界を開拓して、開いた彼我の差を埋めたかったのかもしれません」
目を細めながらお父さんは紅茶を啜っている。何気ない思い出話で場の空気を温めながら、冷え切ってゆく心の中をも温めようと望んだのだろうか。どうりで私の変容には気づかないはずだった。
息が浅く、早くなった。
身に覚えのある過去を私は無意識に反芻した。
六年間、私は奏と一緒だった。全学年を見渡しても、ほかに該当者は一、二名しか見当たらない。そして私は通信簿の数字で奏を下回ったことがない。学期末のテストでも、体力測定でも、奏にスコアで負けたことは一度もなかった。それだけが私の取り柄だったと言ってもいい。
「結局、その子とは中学進学を機に離ればなれになってしまったみたいでね。あいにく私には誰のことか分からないんですが……」
湯気の昇るカップからお父さんは顔を上げた。
琥珀色の湖面に切ない色の瞳が揺れていた。
「息子の人間嫌いは中学でさらに悪化したようでした。なまじまっすぐな子であるばかりに、いろいろな人間関係の綾に直面してくたびれてしまったんでしょう。新潟行きの件も厳重に口止めをされたものです。恋人の女の子にだけはしゃべってしまったと家内が漏らしていましたがね」
「……みんなのこと、置いて行くつもりだったんですね」
「はじめは私も誤解したんです。背水の陣を敷いて試験勉強に励むための方策なのだろうと。でも、いまにして思えば、あなたの言う通りの理由だったのかもしれない」
頼りなげにお父さんは頬を崩した。
「そんな人間嫌いの息子が、身体を張って守ろうとしたのがあなただった。きっと息子は、あなたには相応の親愛を抱いていたんでしょう。だからこそ感謝を申し上げたかったんです。私たち家族が寄り添ってやれなかった分、息子の心はあなたに支えられていたのかもしれないから」
私は首を振った。
いまにも気が狂いそうなのを、しわがつくほどスカートを握りしめて誤魔化しながら。
そんな上等な関係じゃない。だって私は奏を支えてあげられなかった。天邪鬼で、素直になれなくて、いつもあいつの前から逃げ出してばかりだった。それでも途中までは奏のほうが積極的だった。逃げ回る私との距離を、あの手この手で詰めようとしていた──。
我に返った瞬間、はらりと涙がこぼれた。
おずおずとお父さんがティッシュの箱を差し出してくれた。「すみません」と頭も下げられた。傷つくような話をしてしまっていたなら申し訳ない、ただの思い出話です。そういって私のお母さんにも頭を下げるのを、涙を拭いながら私は見上げた。違うんです、そうじゃないんですと叫びたかったけれど、叫べなかった。私が奏に憧れ、恋していた過去を、目の前の二人は知らない。これはどこまでいっても私だけの個人的な問題なのだ。
憧れと、恋と、守りたいと願う心境に、どんな違いがあるのか私には上手く説明できない。もしもそれらすべての根っこが同じところにあるのなら、私を守って死んだ奏はつまり、私に憧れていた。私に恋をしていた。そういうことになってしまう。にわかには信じがたいし、信じたくもない。でも、その青天の霹靂じみた解釈に従えば、これまでの奏の言動を余すことなく説明できてしまう。辻褄の合わない部分は一か所きりだ。
綾瀬と再会できて普通に嬉しい。
また昔みたいに仲良くやりたかった。
下心や他意なんて何もない。
街角で二度目の再会を果たしたときの、いやに強調するような奏の台詞。分かり切った現実を突きつけられたことに戸惑い、切なさを募らせたあの日の私は、まだ、奏の嘘つき度合いを知らなかった。知っていたなら少しは疑えたはずだ。それが、奏の本心を隠すための方便であった可能性を──。
「……あの」
涙の染みた袖を払って、私は顔を上げた。奏のお父さんはバツが悪そうに縮んでいた。
「なんでしょうか」
「その……。棺の中の奏、どんな様子でしたか。痛そうでしたか。苦しそうでしたか。私、怖くてお葬式、行けなかったから……」
問いかけながら、どうか苦しげな最期であってほしいと最低な期待を投げかけている自分に気づいた。奏の好意を打ち消すような証拠をひとつでも集めて、いっときの醜い安心にすがりたかった。果たして、お父さんは痛ましく唇を結んだ。息子の死に顔に好印象を抱く親もいるまいと思ったのに、やがてお父さんは静かに口角を上げて、切り出した。
「ずいぶん安らかだったことを覚えていますよ。背中に刃物を刺されて、ひどく痛い思いをしたはずなのに。とりたてて厚いエンゼルケアも必要なかったと納棺師の方から聞きました」
「……そうなんですか」
「こういってはなんですが、今にも起き上がりそうだった。優しい顔をしていた。誰かを守り切ったぞ、という気概の感じられる面持ちでした。だから巻き込まれたあなたのことを知ったときは合点がいったんです。嬉しかったものだ」
くたびれてしわの寄った目尻が赤みを帯びた。
それでも奏のお父さんは最後まで泣かなかった。
「家での息子は可哀想になるほど人間不信だった。そんな息子が、たとえ今際の一瞬だけでも、誰かを守ることの喜びを感じてくれたのなら、こんなに嬉しいことは他にない。……奏は、幸せ者でした」
靴を履いて外へ出ると、バケツいっぱいの水をぶちまけたようなはしゃぎ声が響いた。プリントの詰まった荷物袋を振り回しながら駆けてゆく子どもたちに、「元気だな」とお母さんが目を細めた。
「懐かしいね。もうすぐ卒業式か」
「……うん」
ぎこちなく私はマフラーを巻き直した。金色に輝く西空がまぶしかった。まだ冬の匂いの抜けきらない、冷えた夕凪に沈む街を、言葉少なに二人ならんで歩いた。
桜葉小の校門前にはランドセル姿の子どもたちがたむろしていた。春色の化粧をまとった木々の下で、誰もが和気あいあいと華やかな未来を夢見ているようだった。なんとなく気後れがして、道路の端を歩いて通り過ぎる。あのなかに私が混じっていたらどんな姿をしているだろうと、うつむきながら考えた。
「六年間、ずっと一緒だったんでしょ。あの子」
お母さんがとぼとぼと切り出した。
「ぜんぜん知らなかった。顔も思い出せなかったけど無理もないね。お母さんも、お父さんも、あんたの学校行事にはぜんぜん顔を出してあげられなかった。いつも病院がどうとか会社がどうとか言って、あんたのこと、ちっとも見てなかったね」
私は首を振った。「出さなくて正解だったよ」と応じたらお母さんは泣きそうな顔をしたけれど、こればかりは誠実な忠告のつもりだった。もしも顔を出していたら、クラスメートと馴染めずに孤立する悲惨な娘のすがたを、否応なしに目の当たりにしただろう。
「心配しないでよ。私、いつだってひとりで頑張ってたから。六年間いちども授業を休まなかったし、通信簿の成績だって良かったでしょ」
「そうね。うちの娘の成績とは思えないくらい。お母さんもお父さんも賢くなんてないのに……」
「賢くない親だなんて思ったことないよ、私」
そっと私は頭をもたげた。「そうかな」と嘆息したお母さんが、私の隣に並んだ。
お父さんもお母さんも最終学歴は高校で止まっている。三十年前、この国を飲み込んだ急激な経済の崩壊は、青春期の両親から進学という選択肢を奪った。学費の工面をつけられずに大学進学を諦めた両親は、職にも恵まれず、賃金水準の低い非正規の仕事を転々とした。製造業の営業マンや病院の看護助手という、比較的安定した仕事にありついた今も、苦心の記憶は両親を苛んでいる。私にきょうだいがいないのもそのためで、両親は幾人もの子供を持て余すよりも、たったひとりの娘にすべてを注ぐ未来を選んだのだ。まだ三年も先だというのに、大学にも通わせてあげると確約を受けている。
これが愛情でなければ一体なんだろうか。
だのに私は多忙な両親が相手をしてくれないことに傷つき、褒められない家事を引き受けることに疲れ、次第に心の開き方を見失っていった。
私は身を守ることしか知らなかった。助けを呼ぶという発想も能力もなかった。分厚い心の殻に閉じこもっていたのは、そうしたかったからじゃない。それしか選択肢を持たなかったからだ。──そんな私の閉塞的な状況に、奏はいつから、どこまで気づいていたのだろう。
「灯里」
覚めやらぬ冬の匂いのなかでお母さんが尋ねた。
「ずっと聞いてみたかったの」
「うん」
「あんたに中学受験を強いて正解だったのかなって。よかれと思って勧めたけど、本当は地元の学校に通って、この街の友達を大事にしたかったんじゃないのかなって。……無責任でごめんね。あれから三年も経つのに、今も迷いが消えないんだ」
アスファルトの凹凸を数えながら私は立ち止まった。ひらり、舞い降りてきた桜色の花びらが地面に横たわって、黒一色の世界へ馴染めずに転がるのを見た。なんとはなしに腰をかがめて、灰色になりきらなかった花びらを拾い上げる。萎れているけれども綺麗な花びらだった。そっと包み込んだ手のなかで、小さな花びらは縮んで丸まった。
「……まだ、分かんない」
花びらを愛でながら私はつぶやいた。
「いまは目の前の毎日を生きるのに必死だから」
中学受験という賭けが未来にどんな花を咲かせるのかを見通すには、今はまだ、材料が乏しい。真面目な努力家が評価される環境、ひかりやゆかりのような友達、生徒会という居場所。湯附に通い始めたことで手に入れたものもあれば、失ったもの、こじれてしまったものもたくさんある。それらすべてを総括して「ああ、よかったな」と振り返れるのは、きっと、もっと先なのだろうと思う。
「大人だね、あんたは」
お母さんは寂しそうに微笑んだ。
開いた手のひらからはらりと花びらが飛んだ。
私はかすかに「そんなことないよ」とうめいた。
「私なんてまだちっとも……。誰かに守られないと生きていけないし」
「いいんだよ、守られながらで。子どもの特権なんだから」
なだめるようにお母さんが吐息をつく。それならやっぱり子供じゃないか。膨れかけた頬は春風に叩かれてしぼんだ。視線を落として、無数の花びらに彩られつつある地べたを見つめながら、私は「……ねぇ」と尋ねた。お母さんの足取りがゆるやかになった。
「お母さんたちはどうして、私のこと、大事にしてくれるの。守ろうとしてくれるの」
「どうしたの、急に」
お母さんが変な顔をする。「別に」と私は口ごもった。無意味な問いかけのつもりではなかったけれど、自分でも上手く理由を言語化できなかった。
「大事な娘だからに決まってるじゃない」
夕空を見上げながらお母さんは即答した。
「理由なんてそれで十分。あんたがどんなに不勉強でも、お転婆でも、手のかかる厄介な子でも、お母さんは力を尽くしてあんたを守ってあげたいって願ってる。きっとお父さんも同じように願ってると思う。それはあんたが子どもだからじゃないよ。あんたのことを愛してるから、そうするだけ」
「愛してるから……?」
「そう。守ることは愛することと同じだってお母さんは思ってる。むかし読んだ小説のセリフの受け売りだけどね。でも、どれだけ自分の頭で考えてみても、結局はその結論に落ち着いちゃうの。どんなに日々が多忙で辛くても頑張れるのは、一人娘のあんたが愛しくて、この身に代えても守ってあげたいからなんだよ」
こそばゆそうにお母さんは鼻の頭を掻いた。
胸に響いた一言一句を噛みしめながら、私は日暮れの中に立ちすくんだ。守ることは、愛すること。お母さんの与えてくれた等号の意味を、桜の海に佇んだまま反芻した。奏のお父さんの残した言葉が続々と脳裏によみがえる。──『きっと息子は、あなたには相応の親愛を抱いていたんでしょう』『誰かを守ることの喜びを感じてくれたのなら、こんなに嬉しいことは他にない』──。ああ。うすうす分かってはいたけれど、やっぱりそうだった。私と奏は最後まで互いを見つめ合っていたのだ。我に返ったときには目尻から心のかけらがあふれ出して、私は花びらの旅立った手のひらをぐしゃりと握りしめていた。
「……そうだよね」
つぶやく声が震えた。
「私、守られてたんだね。愛されてたんだね。お母さんにも、みんなにも……あいつにも……」
分かったところで現実はどうにもならないのに、悔恨を叫ばずにはいられない。いましがた今生の別れを確かめたばかりの奏に会いたくてたまらない。会って、真意を問うて、頭を下げたい。真っ先に口をつくのは「ごめんね」か、それとも「ありがとう」か。天邪鬼な私のことだから、きっと自分を下げようとしてしまうだろう。情けない体たらくの私をみて、奏は笑って許してくれるだろうか。
「……ずっと、たくさん、苦しかったんだね」
ぐずぐずと嗚咽に震える私の肩を、お母さんの大きな手が抱き寄せた。
「帰ろう。今晩はあんたの好きなもの、何でも作ってあげる」
何も言えずに私は鼻水をすすった。一枚、一枚、ひかりやゆかりやお母さんの手で剥がされた喉の瘡蓋が、花びらみたいに地面へ舞い落ちるのを見つめていた。あわい桜の香りが鼻腔を包んだ。夕暮れの街は穏やかな春に染まっていた。私が冬の匂いと思っていたものは、たったいま足元に落ちて砕けた、素直になれない呪いの残り香だった。
その夜から、奏は私の夢に現れなくなった。
まるですべてを見透かしていたみたいに。
真実を悟った私を敬遠するように。
悪夢から解き放たれた私の日常は、次第に元のリズムを取り戻していった。痛みの染みる胸を押さえて、泣きながら朝を迎えることもなくなった。急な変化に動揺を覚えることも、解き放たれた喜びに暮れることもなかった。──ただ、いつもの奏らしいやり口だなと、切なさに胸がシクシク震えたくらいだ。
「……僕を嫌いになってくれよ」
▶▶▶次回 『20 卒業』




