18 つないだ手
窓の外を夜景が流れてゆく。
あの日のように私たちは電車に乗っていた。
細かな振動が景色を揺らしていた。誰のものともつかない汗の匂いと、奏の匂いと、血なまぐさい気配があたりに立ち込めていた。奏は吊革も握らずに立ちながら、卑小な私を冷ややかに見下ろしていた。
『──いいってば。無理してくれなくても』
『綾瀬には何の期待もしてないから』
『綾瀬だって僕に何の期待もしてないんだろ』
穏やかに吐き捨てる奏の表情は、長い前髪に隠れて伺えなかった。そのときまでにどんなやり取りがあったのかは思い出せない。たまらなく私は憤慨していた。シクシクと痛む胸から、鋭い言葉が反射的に迸った。
『中川のことなんか知らない! 大っ嫌いっ!』
なけなしの恋心を踏みにじられた痛みを、私は怒号で表現することしかできなかった。叫んだ拍子に突き出した両手が、私の身体から奏を遠ざける。狭い電車の中で奏はよろめき、数歩ばかり後ずさった。よれて垂れ下がった前髪の下で、瞳が暗い光を宿すのを私は見た。
奏は首を振った。
それから、そっと口角を上げた。
『これでいいんだ』
身の毛のよだつ予感が足元から私を染め上げた。カバンへ手を突っ込む奏を見守りながら、この大人びた男子がどんなに嘘つきであったのかを私は思い出した。ありもしない勉強会をでっち上げた前科もある。誰かのためなら嘘も虚言も厭わないのが、中川奏という人のやり方だ。この人は分かっていた。いずれ私たちが離ればなれになることも、置き去りにされた私が孤独に苛まれるであろうことも、きっと初めから織り込み済だった。
奏の手がナイフを握った。
刃渡り十数センチはあろうかという凶悪なナイフを、奏は振り上げた。
その切っ先は奏自身の胸を捉えている。
『待って』
衝動的に差し伸べた手は、奏の手元に届かなかった。なおも私は叫んだ。取り返しのつかない喪失の接近を全身が認識していた。もはや奏の虚言を鵜呑みにはしなかった。突き放すような言葉も、振る舞いも、すべては演技だったのだ。奏は私に嫌われることを望んだのだ。それが私のためになると信じて──。
『待って、お願い、待ってっ……!』
奏は力いっぱいナイフを胸に刺した。
噴水のような血しぶきが頭から降りかかった。
苦悶に顔を歪めながら奏は座り込み、立ちすくむ私を見上げた。いまにも消え入りそうな声で『大丈夫』『これでいいんだ』と彼は繰り返した。
『もう……大丈夫だから』
私は崩れ落ちた。亡骸と化した奏の身体を抱きしめ、声が枯れるほど泣き叫んだ。肩を揺さぶっても奏は目を覚まさない。刻一刻と冷え、固まってゆく奏の胸から、おぼつかない手つきでナイフを引き抜く。どろりと流れ出した泡交じりの鮮血に、煮詰まりすぎた自己嫌悪が溶け込んでゆく。私が奏を殺したんだ。素直になれない私の性が、奏を望まない自死に追いやったんだ。こんなことなら大嫌いなんて言わなきゃよかった。勢いに任せて奏を突き放さなきゃよかった。だけどそれもこれも全部、手遅れなんだ──。
「────ぁ、っ」
嗚咽に溺れながら私は目を覚ました。
胸に抱えているのは掛け布団だった。
カーテンの隙間から染み出す陽光を見上げて、夢を見ていたのだと気づいた。目覚まし時計は早朝を示していた。上体を起こした拍子にぼろぼろ涙がこぼれて、血糊のようにスウェットの胸元を湿らせてゆく。ベッドの上で私は膝を抱えた。しゃくり上げる胸は刻々と痛みを増していった。
前々回は教室での首吊り。
前回は国道を走る大型トラックへの飛び込み。
そして今度はとうとう、ナイフをみずから胸に刺した。
これで一週間連続だ。毎晩、毎晩、性懲りもなく、奏の死ぬ夢を見る。あの手この手で奏は自殺を繰り返した。『大嫌い!』と叫ぶのを私は止められなかった。気づいて我に返ったときには、自動人形のように奏は自殺を決行していた。愚かな私は奏を止められない。あわれな奏の亡骸にすがりついて、伝えきれなかった思いの丈を叫ぶのが関の山だ。
現実も同じ。
大好きな奏は死んだ。
大嫌いな私だけが、奏のおかげでのうのうと生き延びている。
「……私が死んじゃえばよかった」
「あいつの代わりに刺されればよかった」
ついうっかり、思いの丈を朝食の場で口走ってしまって、両親の大目玉を食らった。なんだってそんなことを言うんだ、命がどれだけ大事なものだと思ってるんだ──。そういって私を抱きしめたお父さんの手は、荒々しく鞣した皮革のようにぼろぼろだった。お母さんもうつむいたまま啜り泣いていた。私は不思議と両親の前では泣けなくて、銅像みたいに身を固めながら、見えない心をナイフで何度も刺して痛めつけることに腐心した。いくら家計の苦しさに喘いでいたとはいえ、多感な時期の一人娘を仕事にかまけて置き去りにしておいて、いまさら大事な我が子のように扱われても実感が湧かない。傷つき疲れた両親の顔を見ても、もはや私は傷つかない。ただ、ぐったりと失望が深まるばかりだ。
王子様の手を離れた私は、ふたたび海の底へと沈んでいった。
慣れない足のせいで泳ぐことも叶わない。
あんなに憧れた王子様の姿も見えない。
もう人間にはなれない。人魚にも戻れない。
ここが私の終着点なのだろうか。
どこまでも深く、昏い海の底で、泡になって潰える未来を恐れながら、また誰かの救いを待ちわびるのだろうか。
奏の最期を思い出して以来、すっかり電車が怖くなった。汗の満ちた空間に身体を押し込み、吊革に手を伸ばすたび、見えない圧迫が私を押し潰す。怖くなって足がすくんで、乗るつもりの電車を二本、三本と見送って、周囲の白眼視に急かされてようやく乗り込む。それでも恐怖はぬぐえないから、電車の中では息を潜めて、誰の目にも留まらない死体を演じる。トラウマなんて小説の中だけの代物だと思っていたのに、いざ我が身に降りかかってみると、それはヘドロのように粘着質で、どんなに守りを固めても心の隙間から忍び込んでくる。そうして、耳にまとわりついてささやくのだ。「あの男の子がいなきゃ、怖くてなんにもできないくせに」──って。
今日も結局、予定より三十分も遅れて登校した。
早朝の校内は人影もまばらだった。廊下に足音が響くたび、遊泳禁止の海に迷い込んだような後ろめたさが背筋を脅かす。足早に自分の教室へたどり着いて、冷えた引き戸に手をかけ、そっと開いた。そこには私のよく知る二つの顔があった。
「おはよ」
私の机に腰かけていたひかりが、そっと床へ舞い降りた。溜め息交じりに「もう来てたんだ」と尋ねたら、枕代わりのカバンからゆかりが顔を上げた。額が赤くなっている。
「どうせあかりも早く来るだろうって思って」
「勉強するんでしょ」
私はうつむきがちに二人のそばを通り過ぎて、自分の席に収まった。取り出したノートを並べる手がわずかに強張った。指慣らしのつもりでページの右上に日付を書き入れ、教科書をめくって前回の復習箇所を探す。浮き輪へしがみつくように教材と向き合う私を、ひかりも、ゆかりも、口をつぐんだまま見守っている。
小鳥のさえずる声が窓の外を彩る。
時刻は午前七時。
八時過ぎの始業まで、まだしばらく時間がある。
試験期間でもない限り、こんな早くに登校してくる物好きはいない。早朝の教室は私だけのための自習室だ。いまだに私は十日分の授業の遅れを取り戻せていなかった。できれば放課後を復習の時間に充てたかったのだけど、あいにく積み残しているのは勉強だけではなかった。生徒会の仕事も山積していて、わずか三時間の放課後はことごとく雑務に溶けてしまう。自宅での勉強を苦手とする私がみんなに置いてゆかれないために、この早朝勉強は欠かすことのできない自助努力なのだった。そこにひかりやゆかりの姿が加わったのはいつのことだっただろう。多分、私が電車に飛び込んだ次の日からだ。
「──そこ、式が違うよ」
不意にひかりの声が伸びてきた。
答えの出ない数式に悩む頭を、おもむろに私は持ち上げた。
「どこ」
「最初の二次関数。傾きaの数字が間違ってる。もっかい問題文みてみ」
「嘘……」
嘘なんか言わないよ、とばかりにひかりが肩の力を抜く。数学の苦手なゆかりはカバンに顔を横たえたまま、ぎこちない私たちのやり取りを見守っている。おもむろに消しゴムを取り、ノートに走らせながら、私は目を伏せた。いたたまれない思いが淀んで重みを増した。
助言を頼んだ覚えはない。私ひとりでも勉強は進められる。それでも二人がこうして私を見張っているのは、たぶん、危なっかしくて目を離せないからなのだろう。油断して監視を解いた途端、いまの私は校舎の窓から飛び降りて死にかねない。私は二人の信頼を失ったのだ。もとから信頼があったのかどうかも、今となっては怪しいけれど。
ペンが引っ掛かった。
解き進められなくなったノートを私は見つめた。
「……あのさ」
「うん」
「もう、いいよ。私ひとりで頑張るよ。二人とも私の相手してる暇があったら、もっとゆっくり朝を過ごしたいでしょ。ひかりは朝練だってあるんだし……」
ゆかりがふたたびカバンから顔を上げた。どちらの顔も見られないまま、私は乾いた唇を弱々しく結んだ。詰まったままの喉から一筋の血が流れ出した。
「ごめん。……こんなことに付き合わせて」
しばらく沈黙が垂れ込めた。
机の軋む音が響いた。重い睫毛を持ち上げると、スパッツを穿いた太ももが眼前の机に乗っかっていた。
「違うでしょ」
ひかりの丹念な声が胸の暗がりを照らし出した。
「あたしたち、そんな言葉を聞きたくて、朝早くに起き出してきたんじゃないんだけど」
「ほかに思ってることなんて……」
「迷惑かけてるっていう前提はとりあえず取っ払ってもらえる?」
「迷惑なんか被ってないって言いたいの」
「ほんとに迷惑だったらジュースの一本くらい要求してるよね、わたしたち」
つかつかと歩み寄ってきた足音が、私の目と鼻の先で止まった。ぶらぶら不満げに揺れるひかりの足と、所在なげにたたずむゆかりの足とを、目を伏せながら私は見比べた。ジュースごときで贖罪が済むなら何本だっておごるのに。浮かびかけた思いをそっと消しゴムでぬぐって、そうじゃない、とつぶやく。おぼつかない手つきで消しカスを払いのけると、その跡には五文字の平仮名がうっすらと浮かび上がった。私は他人事のように平仮名を読み上げた。
「……ありがとう」
口にしながら、求めていた答えがそこにあったことを自覚した。「言えたじゃん」とひかりが肩をすくめた。
「ほんと一苦労だな。あかりから拷問抜きに本音を引き出すのは……」
積年の宿願を果たしたみたいに、あわい、重い、静かな苦笑が唇を染めている。その痛々しいまでの面持ちに意識を引かれて、私は目をそらせなくなった。じんと熱が高まって目頭に染みた。それまで影も形もなかったはずの素直な思いが、不意に、どこからか熱水泉のように湧き出して、こんこんと胸底に溜まってゆくのを覚えた。
ううん。影も形もなかったわけじゃない。あまりにも淡い、透明な色をしていたから、暗く澱んで血にまみれた心の底では目立たなかっただけだ。ひかりやゆかりのおかげで私はひとりぼっちじゃなかった。ゆかりは英語や国語以外の科目では役に立たないし、ひかりだって私の凡ミスを指摘するだけ。それでもここに二人がいるから、私は不自由なく復習を進められる。そこに二人の目があるから、帰り道に電車へ飛び込むこともない。
私はひとりでは生きられない。痴漢の手ひとつも払い除けられない。それでも今日まで生きてこられたのは、奏ばかりのおかげじゃない。二人が、両親が、身の回りを占める大勢の人たちがいてくれたからじゃないか。──いまさら考え直さなくても、そんなこと、ずっと前から分かっていたのに。
「どうして……っ」
あふれ出した赤褐色の疑問符は、案の定、喉に引っかかって途切れてしまった。涙目でむせる私の背中を、おっかなびっくりゆかりがいたわってくれる。ぐいと私は袖で目尻をぬぐった。ぬぐってもぬぐっても泉の湧出は止まらなかった。
「どうして……こんな私のこと大事に扱ってくれんの」
「どうしてって……」
「私に尽くしたって何にもならないよ。そんな値打ちのある人間じゃないよ……。尽くしてくれたって何も返せない。これまでだって何も……」
「やめてよ。そんなことない。思ってもない」
ひかりが叫んだ。うつむいて袖に顔を埋めながら、私も「そんなことあるよ」と叫び返した。かすれきった声も、容貌も、言動も、人柄も、二人の目に映る私のすべてが汚らわしく思われて、いまにも泡になって消えてしまいたかった。
「広報誌を配ったあと、教室で話した時もそうだったじゃん……。二人は勇気を出して自分の話をしてくれたのに、私は二人を理解することも尊重することもできなくて、独りよがりに飛び出して逃げ出して、それで、あんな事件に遭ってっ……」
「…………」
「ちゃんと話したことなかったけど、私、長いこと痴漢に遭っててさ……。なんでだろうね、可愛くもないのにね……。だから太ももとか手垢だらけでベトベトで、すっごく汚くて。肌も荒れ放題だし、おまけに中川の血も浴びちゃって、もう本っ当に……汚いんだよ。心も身体も全部ぜんぶ……っ」
ぶるる、と身体が震える。支離滅裂に砕けた心のかけらが喉へ溜まってゆく。私はいよいよ身を引き締めて、二人の視線にさらされるのを恐れる。そういえば奏の健在だった頃、警察署の長椅子に並んで腰かけながら、同じ口ぶりで奏の関与を拒んだこともあったっけ。あれからずいぶん時間も経ったのに、いまも私はこうして自分の醜さばかりを論って、目の前の誰かを傷つける言動を繰り返すばかりだ。
ごめんね。
ひかり、ゆかり、それから奏。
私のせいで汚れてしまった人たち。
こんな私と出会わなければ、背負い込む不幸の量も少しくらいは減らせたのに。
「……そっか」
ひかりが静かに思考を遮った。
宥めるでもなく、嗤うでもなく、流れ落ちる涙を拭くでもなく。
「ありがとう。話してくれて」
私は首を横に振り回した。この期に及んで感謝を受けるべき理由が私には分からなかった。おもむろにひかりが手を伸ばして、乱れきった私の前髪を掻き上げた。
「あたしの目には汚くなんて見えないけど。でも、あかりにとっては汚く見えちゃうんだろうね。あたしにも身に覚えがあるよ、その感覚」
「……あるの、覚えなんて」
「あたしの場合は汚されたんじゃなくて、その……自分で切って汚したんだけどさ。だから自業自得だし、それにたぶん、ほんとに……汚いや」
ぎゅうと音が立つほどに、ひかりの右手が左の手首を押さえる。長袖に隠れた彼女の自傷の痕が脳裏をよぎった。不覚に気づいて「ごめん」と頭を垂れたら、「ううん」とひかりは首を振った。唇の端に滲んだ静かな感情の色は、苦笑にも、自嘲にも、あるいはそのどちらでもないようにも見えた。
「なんでだろうね。あかりのこと、他人事みたいに思えなかったんだ。分かり合えなくて傷ついたし、苦しい思いをしたのは否定しないよ。でも、それだけで終わりたくなかった。たったいま目の前で苦しんでるあかりのこと、どうしても放っておけなかった」
「……私、そんなに苦しそうに見えたの」
「うん。過去形っていうか、現在完了形」
机の隅に積み上げていた英語の参考書をひかりはぱらりとめくった。
「いまのあかりはさ、傷ついてた最中のあたしにそっくりなんだよ。基本的に正しいのは自分を取り巻く世界の方で、自分がその秩序を壊しちゃった、自分は悪者なんだって、不必要に自分を責めちゃう。そんで心の余裕もなくなって、他人の忠告にも耳を貸せなくなってさ……」
思い当たる節が多すぎる。私は首をすくめた。
「あたしも多分、同じなんだ」
肩の力を抜いたひかりが嘆息した。
「元彼の先輩に傷つけられたのはぜんぶ自分のせいだって思ってた。正直、今でも思ってる」
「なんでよ。ひかりは何も悪くないでしょ……」
「あたしってこんな性格じゃん。姿格好も振る舞いもガサツだし、小学校でも男子と喧嘩ばっかりしてて嫌われ者だったし、なんていうか、女の子として見られる経験が少なくて。だから付き合う前に先輩が初めて可愛いって言ってくれたとき、舞い上がっちゃったんだよね。そんで、もっとたくさん可愛いって言われたくなって、夢中になって付き合うところまで漕ぎつけた」
「…………」
「だけど、初めて先輩と、その……そういうことをするってなった時に、なんか身体がこわばっちゃって。たくさん言ってもらえた『可愛い』の意味、根こそぎ引っくり返されたような気がしたんだ。邪推の自覚はあったんだよ。あたしだってそういうことに興味はあったし、それはたぶん先輩も同じだと思うし……。それでも裏切られたような思いが収まらなくて、つい拒否しちゃってさ。今はそういうことしたくない……って」
話の先がなんとなく読めてしまって、そっと私は視線を押し下げた。──たぶん、わけも知らないまま性交渉を拒まれたことで、ひかりの元彼は愛情を否定されたように錯覚して暴力に走り始めた。ひかり自身もそのように認識しているのだろう。
「あたしのことを理解してくれてるのは先輩だけだと思ってた。あの人に捨てられたら世界が終わると思ってた。だから、裏切られても先輩を振れなかったし、痛い目に遭うのはぜんぶ自分のせいだって思ってた。視野狭窄の土壺にはまってることくらい、冷静になれば簡単に分かるのにさ。……でも、分かってても抜け出せないんだよね、そういうのって」
うつむきがちにひかりは弱々しく笑った。
それから、手首のおおいを解いて、そっと私の手を握りしめた。
赤黒い傷が袖から覗いた。いやに新しい、ここ数日で新たに刻まれたような傷も見えた。ひかりは一瞬、逡巡を挟んだけれど、とうとう傷跡を隠そうとはしなかった。
「あかりはまだ、引き返せる」
私は目を見開いた。
力強い、熱い一声だった。
ついでに目頭までも熱くなった。袖やハンカチで拭こうにも、両手はひかりに拘束されている。「あたしみたいにならないでよ」とひかりは声を震わせた。
「しんどかったら泣いていいんだよ。自分の気持ちを粗末にしないでさ、ちゃんと立ち直って、ひとりで歩き出せる足を取り戻してよ。何をすればいいか分かんないなら、あたしも一緒に考えるから。できる限りの力も貸すから。勉強に付き合うとか、一緒の電車に乗るとか、今はその程度のことしかできてないけど……」
「どうして、そこまで」
「言ったでしょ。他人事に思えないって。あかりが元のように立ち直れたら、あたしもいつかは真人間に戻れる気がする。あたしの壊れた未来にも朝日が差し込む気がするの。情けは人の為ならず、ってやつだよ。……それにさ」
ひかりは瞳のふちの光をすくった。
「あたしたち、友達でしょ?」
心臓の跳ねる音が胸をかき乱した。手垢がつくほど使い古されたはずの二文字の言葉に、一瞬、いやに私は面食らった。友達って何だっただろう──。暮れかけた思案をゆかりが邪魔した。それまで静かに立ち尽くしていたゆかりは、溺れるように「そうだよ」と叫んで、みずからの手をひかりの手のひらに重ねた。
「わたしたち友達なんだよ。胸を張って友達って呼んでいいんだよ。わたしもこれからそうする。いろんなことが分かんなくなって自信も確信もなくしかけてたけど、もうやめる。ひかりのおかげで目が覚めた気がする」
「ゆかり……」
「わたしも同じなの。顔を合わせるのもつらかったくらいなのに、あかりのこと、どうしても他人事みたいに思えなくって。それであかりが目の前で電車に飛び込んだとき、初めて気づいたの。わたしが今までやってきたことって、きっとあかりと一緒だったんだ……って」
妊娠騒動の一件が脳裏をよぎった。ひかりの列挙した避妊の手段を拒み、すべてを受け入れるふりをして自暴自棄に陥っていたゆかりは、もしかすると私が電車へ飛び込んだように、ひかりが手首を刃物で切ったように、積極的に自分を断罪しようとしていたのだろうか。背負った苦痛の責任を、みずからに残らず転嫁して。
「わたしも、あかりも、ひかりも、ぜんぜん違う問題を抱えてる他人同士だし、いくら言葉を尽くしたって本当は分かり合えないのかもしれない」
ゆかりは決意を噛み締めるように首を振った。
「それでもわたし、二人と一緒にいたい。分かり合えなくても尊重し合える存在でいたい。わたしは一生かかってもあかりやひかりにはなれないけど、そばにいて、話を聞いて、温もりが足りない時には抱き締めて、力や知恵が必要なら貸してあげられる、そんな間柄でいたいの。それが今のわたしたちに必要なものだと思うの」
「一方的な依存じゃなくて、お互いに助け合える関係……ってこと?」
「うん。貸し借りのない、どこまでも対等な関係」
握りしめる手にぎゅうと力が加わった。ゆかりは私の顔を覗き込んで、「今はあかりの番」と畳み掛けた。
「いま、誰よりもしんどい思いをしてるのは、あかりだから。勉強でも何でも付き合うよ。遠慮なんかしないでよ。つらいことも嫌なことも好きなだけ吐き出してよ。自分の番が来たらわたしもそうするよ。だってわたしたち、友達だもん」
きっぱりと言い切った彼女の声には温もりがみなぎっていた。握られたままの手を私は見つめた。いくら言葉で説明されても実感が湧かないのは、たぶん、心を開く経験値があまりにも不足していて、開き方の見当さえついていないせいだ。それでも爆ぜるような勢いで肌越しに伝わり、広がった二人分の温もりは、心をおおう無数の氷にひびを入れ、弱り切った心を白日のもとへさらしてゆく。冷え切った私ひとり分の体温では、一筋のひびを入れることも叶わなかったのに。
ぴき、と小さな音がした。
喉の瘡蓋が少し砕けたことに気づいた時には、無意識に声が漏れ出ていた。
「ありがとう」
わなわなと唇が震えた。
「私のこと……友達扱いしてくれてっ……」
堰の切れた洪水は収まらない。握られたままの両手に王冠がいくつも弾けて、透明な血痕を描きながらかすれてゆく。それは喉をふさいでいた古傷と同じ匂いのする血だった。通りのよくなった喉からは嗚咽があふれて、口にしかけた言葉もみんな巻き込んで濁流をなしてゆく。
誰かと誰かが対等な関係を築く。互いが互いを一個の人間として尊重する。多くの人には当たり前にできるはずのことが、私にとっては少しも当たり前じゃない。たったひとり小学校での味方だった奏でさえも、思えば、私を一方的な庇護の対象として見ていた。私たちはあらゆる意味で対等じゃなかった。たとえ最初の心象は良くなくとも、分かり合えない人波の狭間で生きてゆくために、私は奏の手を取らざるを得なかった。そのうち、あの大きな手の温もりに溺れて、求めて、いつしか泳ぎ方も歩き方も忘れていった。
二人は私を引っ張って行ってはくれない。ただ、一緒に歩こうと言ってくれた。それがどれだけ特別なことか、いくら言葉を尽くそうとも二人には伝わらないかもしれない。それでもいい。だって、分かり合えることは「友達」の必須要件ではないのだから。
ああ。笑ってくれてもいいから、どうか私の無様な初恋の行方を聞いてよ。毎晩、毎晩、あいつの死ぬ夢を見るの。みずからの舌禍で奏を死なせてしまった現実を、きっと私はまだ受け止めきれていないの。どうしたら受け止められるのかな。どうすればよかったのかな。私、これから、どうやって前を向いて生きてゆけばいいのかな──。
「……今はまだ、言葉になんないか」
しゃくり上げる私の背中をひかりが撫でてくれる。
私は首を縦にも横にも振った。
無様な私の姿を二人は笑った。笑って、鼻をすすって、泣き止むまでそばにいてくれた。
「奏は、幸せ者でした」
▶▶▶次回 『19 残り香』




