17 衝動
小菅優。
三十五歳男性。職業は無職。東京都葛飾区在住。
二か月にわたり私を付け狙った痴漢、その人だ。
資産家の息子として生まれ育った彼は、小学校の頃から人間関係を苦にしてたびたび不登校に陥り、高校卒業とともに引きこもりになった。他者からの愛情や承認に飢えた彼の心は、ありあまる金銭や快楽では満たせなかった。業を煮やした両親にも社会復帰を促され、北千住駅前の公共職業安定所へ立ち寄って仕事を紹介された帰り道に、偶然、学校帰りの私を見かけた。無職の身分をいいことに何日も費やして私を付け回し、通学ルートを特定した彼は、下校する私を待ち受けてはストーキングするようになった。最後の一区間を狙って痴漢に及んでいたのは、遠大なストーキングのついでに過ぎなかった。
結局、奏たちの努力もあって彼は警察に捕まった。彼の潔癖な経歴には「迷惑防止条例違反の逮捕歴」という傷がついた。もっとも、社会的信用のある両親の負ったそれに比べれば、失うものの少ない小さな傷だったことだろう。当然ながら彼は両親の逆鱗に触れた。さらに多額の保釈金や慰謝料も背負わせてしまい、居場所の消え失せる恐怖におののいた彼は精神的に追い詰められていった。けれどもその理不尽な恨みは私には向かわなかった。いわく、彼は私を気にかけていたのだそうだ。しきりに付け狙ったのは私に振り向いてほしかったからなのだという。代わりに目をつけられたのは、奏だった。痴漢行為を妨害した奏に逆恨みをぶつけるべく、保釈された小菅学はふたたび私へのストーキングを再開した。予想に反して私と奏が会うことはなかったけれど、それでもめげずに彼は私を追いかけた。そうしてついに、南千住駅で降りた私が奏を待ち伏せする瞬間に立ち会ったのだ。
ひそかに後を追って電車に乗り込もうとしたが、ICカードの残額不足で自動改札機に引っかかった。入金を済ませて改札を突破すると、すでに電車は出発寸前だった。慌てて飛び乗り、奏の姿を探した。奏は私に問い詰められていた。無防備な背中を狙うべく刃物の準備をしていたら、突き飛ばされた奏が思いがけず倒れ込んできた。小菅優は無我夢中で背中を刺した。殺すつもりはなかったのに、偶然にも刃は一撃で左胸を貫通した。心臓を引き裂かれた奏は血を吐いた。行き過ぎた復讐の達成をようやく後悔し始めた頃には、ふたたび小菅優は手錠に拘束され、殺人容疑で留置場に放り込まれていた。
奏は死んでしまったらしい。
ほとんど即死だったようだと刑事さんは言っていた。
司法解剖とかいうのが行われて、奏の身体はふたたび刃物に刺された。即死だったかどうかなんて本人に聞かなきゃ分からないのに、いったい何の意味があるのだろうと私は思った。どこか他人事のようにしか思われなかったのは、たぶん、実感を欠いていたせいだ。亡骸の写真を見せられたわけでもないし、葬式にも参列しなかったから。
私は何日も学校を休んだ。
ひかりやゆかりとも連絡を取らなかった。
勉強にも生徒会の仕事にも手をつけなかった。
事情聴取に来る刑事さんの相手をして、あとは日がな一日、ぼんやり時間を浪費した。
もっとも、その刑事さんもたいそう時間を無駄にしていたことと思う。私が事件の瞬間を覚えていなかったからだ。自暴自棄になって奏を突き放したことは思い出せるのに、そこから先、何を見て、何を嗅いで、何をしていたのか、どうしても分からない。奏が死んだ実感さえないのだからどうしようもない。とぼとぼとうつろに受け答えする私を見て、両親や刑事さんは「PTSDだ」と眉を曇らせた。つらい記憶の想起を脳が無意識に拒否するのも心的外傷後ストレス障害の一症状なのだと、口やかましく説いた。
「──被害者の中川くんとはどういった関係だったのかな」
「中川くんの身の回りに、なにか怨恨に繋がるような事情はなかっただろうか」
数ある刑事さんの質問事項の中でも、これがいちばん答えにくかった。首を振る気力も湧かず、私は机に目を落とした。消え入りそうな声がこぼれた。
「別に……ただの知り合いです。小学校の頃の。むかし同級生だったっていうだけです」
「そうですか。被疑者の供述調書には、かなり親しくしていた様子だったとあるが……」
「ずっと引きこもってたような人に人間関係の機微の何が分かるんですか」
かたわらの両親が青ざめるほどの暴言を、気づけば痰を切るような感覚で口にしていた。刑事さんも冷や汗をかいていた気がする。ダメ押しのつもりで、私は退屈げな奏の眼差しを脳裏に描き起こした。綾瀬には何の期待もしてないから──。最後に聞いた奏の言葉が延々とリフレインした。
「ほんとに何でもなかったんです」
私も真似をして、退屈げな笑みを口元に引いた。
「だって私、中川に好かれてなかったから」
どろりと胸の底で血が濁った。泡の消えた喉は気味が悪いほど通りがよかった。それでもこびりついたままの血の塊はまだ取れない。薄汚い私を見て刑事さんは言葉を失った。それから二度と、同じ話題を持ち出さなかった。
帰宅時間帯の通勤電車で起きた凄惨な事件は、声ばかり大きなマスコミの手で『常磐線車内ストーカー殺人事件』と名付けられた。警察は私の名前を徹底的に隠してくれたようで、我が家に取材が押しかけてくることはなかった。もっとも来られたとしても話せることは何もなかった。だって、何も覚えていないから。
刑事さんたちが帰ってしまえば会話の気力も潰えて、毎日、毎日、ぼんやりスマートフォンで時間をつぶした。テレビの視聴には両親が反対した。気分転換になるだろうといって、苦しい家計を押して高価な家庭用ゲーム機を買ってきてくれたけれど、一時間もプレイしないうちに疲れて放り出した。スマートフォンのいいところは、放っておいても向こうから好き放題に情報をくれること。無気力な私には誂え向きの存在だ。
ニュースサイトの通知の半分は、奏が殺された件を声高に報じるものだった。遺族のコメントも新聞を通じて発表された。奏の父親が実名を明かして、犯人に対するやるせない思いの丈を語っていた。葬儀は近親者だけで済ませたと末尾に附記されていた。──そっか、死んじゃったんだからお葬式が要るよな。奏はどんな顔で眠っていたんだろう。刺されて死んだみたいだから、きっと苦痛に歪んだ顔だったのだろうな。それなら見なくていいや──。まだ他人事のままの脳裏で、そんなことにばかり延々と思いを馳せた。両親が私にテレビを見せたがらなかった理由を、頭の隅でようやく理解しながら。
寝る間際になって、不意にメッセージアプリに着信が届いた。奏の名前を期待してアプリを起動したけれど、そこには見知らぬユーザーからの新着があるのみだった。彼女は『May』と名乗っていた。それじゃマイじゃなくてメイだよと突っ込む元気もなく、私は機械的にメッセージを開いた。
【死ねよ】
【あんたのせいで死んだんでしょ、奏】
【奏を返せよ】
【奏の代わりに死んで来てよ】
私は返信することなくスマートフォンを伏せた。
頭から布団をかぶって、汚らしい身体を丸めた。
血の匂いが消えない。この手で奏の亡骸を抱きしめて以来、日増しに濃くなるばかりだ。もしかすると、記憶の飛んでいる数時間のあいだに私自身が奏を刺し殺して、あの小菅とかいう人は痴漢の罪悪感から私をかばってくれただけなのかもしれない。
ああ。
やっぱり私、罪深いな。
うずく右手を広げながら、目元に流れ出した透明の血を指先ですくった。
十日もの沈黙を挟んで登校した私を、湯附の生徒たちは奇異の目で出迎えた。
「なんかあったの?」
「すっごいやつれてんじゃん」
「病気でもした?」
それとなく気を配ってくれたのは生徒会の仲間くらいのもので、有象無象の同級生たちは露骨に私を遠巻きにしていた。担任の先生にすら徹底的に事情を伏せてあったので、私が殺人事件の現場に居合わせたことは誰も知らないはずだ。どうやらまだ、私の身体は血の匂いを帯びているらしい。
六時間の授業は物静かに進んだ。十日分の損失を埋められず、見覚えのない数式や英文法を前にして「分かりません」と頭を下げる私を、みんなはひたすらに気味悪がった。三年前に見た光景との酷似に、こんな状況でもなければ笑けてくる。異端の私はクラスメートから遠巻きにされ、奏がいなければ完全に孤立していた。いまは奏の立ち位置をひかりやゆかりが占めている。けれどもそのひかりやゆかりとは、口喧嘩の末に決裂した。いまも二人は複雑な面持ちを浮かべ、私が視線を向ければ顔をそらしてしまう。
恐れた通りだ。結局、私が私であるうちは、何度やり直そうとも行き着く先は同じ。物言わぬひとりぼっちの私は、誰の姿もない深海へ沈んでゆくしかないのだ。
クラス委員の子に頭を下げてノートを借り、休み時間を見つけて自分のノートに中身を写した。中休みも、昼休みも、昼食も食べずに黙々と没頭した。それでも十日分の遅れを取り戻すのは一筋縄じゃいかない。帰りのホームルームが終わっても私だけは教室に居残った。写し終えたノートは委員の子の机に返却する約束だった。
四時を過ぎた。
五時を過ぎた。
六時も過ぎた。
やおらに真っ暗な人影がふたつ、ノートの紙面に落ちてきた。
「……帰んないの」
ひかりの声も落ちてきた。顔を上げると、部活帰りのひかりとゆかりが机の前に立っていた。気まずくなって私はふたたびペンを執った。
「まだ、終わんないから」
「どうしても今日中に終わらせなきゃいけないわけ、それ」
「別にそういうわけじゃないけど」
「じゃあさ、帰ろう。あたしたちも帰るから」
提案の意図を読み切れずに私は眉を傾けた。視線を迷わせながらゆかりが切り出した。
「あかり、なにか大変なことに巻き込まれたんじゃないの。みんな口には出してないけど気づいてるよ。あかりが急に十日も学校を休むなんて普通じゃない、なにか重大な問題でも抱えたんじゃないかって。ニュースを見てればなんとなく察しもつくっていうか……」
灰色の吐息を私はノートにこぼした。みなまで聞かずともゆかりの示唆する意味は伝わった。どうして私はこんなにも隠し事が下手なのだろうか。
「一緒に帰ろう。あたしたちも同行する。どこまでかは決めてないけど、行ける限りの場所まで一緒に行く」
有無を言わさぬ口ぶりで畳み掛けたひかりは、次の瞬間には瞳に私を映して、乾いた唇をもどかしげに閉じた。
「……あかりがいいなら、だけどさ」
「いいよ。二人の好きにしてよ」
私はなけなしの意地を張った。二人が同伴したところで何かが変わるようにも思われなかったけれど、さりとて二人の機嫌を損ねるのも嫌だった。うつむいて帰宅準備を始めた私を、ひかりも、ゆかりも、生ぬるい無言を湛えながら見守った。荒波に揉まれて傷んだ魚鱗のように、私たちを結ぶ三角形の表面は醜くざらついたままだった。
いつまでも自堕落に過ごしていては、お金をかけて湯附に入れてくれた両親に申し訳が立たない。だから、登校を再開した。たったそれだけの理由でも、私にとっては大事なことだ。当の両親の反対を押し切って乗り込んだ朝の通学電車は、痴漢や殺人犯でさえも身動きが取れなくなるほどの大混雑だった。まばゆい朝の光が車窓から殴り込んできて、無数のスマートフォンやタブレット端末に反射してちらちらと輝いていた。身体が強張ることも、足がすくむこともなく、平穏無事に学校へたどり着いて拍子抜けしたのを覚えている。だから、帰りの電車も平気だ。ひかりやゆかりの身辺警護なんて必要ない。
くたびれたリュックと一緒に意地も背負いながら、私は家路に立った。混雑する地下鉄や山手線を乗り継いで、淡々と旅を続ける私を、二人はわずかに距離を取りながら見守っていた。乗換駅が迫ってくる。モニターに表示された乗換情報のなかに常磐線の名前を見つけて「まだ一緒に来るの」と尋ねると、二人は顔を見合わせた。
「ひかりもあかりも常磐線には乗らないでしょ」
「うん、まぁ……」
「だけど、その、常磐線なんだよね。問題が起きたのって」
おずおずとゆかりが尋ね返した。
慎重に言葉を濁しているあたり、やはり二人は何もかも分かっているようだ。もはや隠したところで意味はないと私は割り切ることにした。閉じかけた唇をそっと剥がして、「うん」と首を垂れてみる。二人の喉を打つ音が響いた。
「でも、たぶん、大丈夫」
「なんで言い切れんの」
「私、何ひとつ覚えてないから。あいつが刺された瞬間も、犯人の顔も。いまだにあいつが死んだことも信じられないし」
ゆかりの目がひきつった。
通りの良くなった喉からは汚れた言葉が流暢に流れ出す。もっと意地悪な言葉を畳み掛けそうになって、私は真っ白の能面で唇に蓋をした。
私のせいで奏は死んだらしい。
舞に言わせれば、そういうことみたい。
私の世界は核を失った。なんの期待もしないと言い残しながら、私の腕の中で奏は息を引き取った。たったひとり現世に置き去りにされた私を、奏の身近な人たちはきっと許しはしない。現に元カノの舞が私を許していない。私は人殺しの大罪人だ。あの小菅とかいう男の人は、結果的に引き鉄を引いただけの哀れな通行人に過ぎないのだ。
私たちを吐き出した山手線は瞬く間に駅を去っていった。案内表示に従って階段を上り、狭い乗換コンコースを渡って常磐線のホームへ下りた。見慣れない景色に戸惑ったのか、それとも血なまぐさい私に引いたのか、二人はいっそう私から距離を取っていた。下り快速電車の到着を構内放送が告げている。いつもの二号車の停車位置へ歩みを進めながら、いまさら二号車にこだわる必要もないのだと思い直したけれど、歩き出してしまったものは仕方なかった。
奏との待ち合わせに使っていた二号車水戸寄りのドアは、十五両編成の後ろから二両目。ほとんど最後尾だ。はじめて奏が守ってくれた日、たまたま乗り込んでいたのが二号車だった。だから、そこをそのまま待ち合わせ場所にした。あの日の恩を忘れない、私なりの不器用な意思表示のつもりだったのだけれど、いまとなってはすべてが水泡に帰した。私の想いは最後まで奏に通じなかった。
当たり前だ。
口にしなかったものは伝わらないのだから。
虫のいい以心伝心で通じ合えるほど、人間は高等な生き物じゃない。はるか昔の先祖が言語による意思の疎通を選んだ日から、私たちの文明は言葉を基盤にして発達した。残された言葉こそが結論になり、正義になり、歴史を作った。そんな大仰な喩えを持ち出さなくとも、個人の関係にだって同じことは言える。
死に際に奏は言った。
綾瀬には何の期待もしてないから、って。
私たちの関係はそこで成長を止めた。
死人に口なし。もはや奏が言葉を発することはない。素直になれなかった間に失ったチャンスを、可能性を、信頼を、私は永遠に挽回できないのだ。
「ねぇ、どこまで行くの……」
ゆかりの不安げな声を無視して、二号車のドア位置の前に立つ。ゆるやかな右カーブを描く銀色の線路を、まばゆい前照灯で睨みつけながら電車が走ってくる。猛烈なスピードだ。迫り来る二つの光を私はぼんやりと見つめた。──ああ、海の底で見たものと同じ光だ。あの光に飛び込んだなら、あの世で奏に会えるだろうか。いいや、きっと無理だな。だって私は奏に嫌われてしまったのだから。どんなに想いをかけようとも、決して振り向いてはもらえないんだから──。
投げやりな熱を帯びた足が一歩を踏み出す。
点字ブロックの凹凸が靴の裏に警告を発する。
事態に勘付いたひかりが、ゆかりが、駆け出すのを感じた。すでに私は取り返しのつかないところまで踏み込んでいた。最後の一歩がホームのふちにかかった。勢いのついた足取りは、ちょっとやそっとじゃ踏みとどまれない。けたたましい警笛が空気をつんざく。死にものぐるいで私を威嚇しながら、電車がホームに滑り込んでくる。危険です、お下がりくださいと、構内放送が金切り声で私を引き留める。ひかりやゆかりの上げた悲鳴が、轟音を押しのけて耳に突き刺さる。
「待って……!」
「あかり────ッ!」
私は目を閉じた。
血と、汗と、涙の匂いが弾けた。
時速七十キロの風圧が全身を叩きのめした。
身体中にまとった無数の汚れは、一思いに薙ぎ払われて虚空へ消し飛んだ。
生温かな感触が肩を包み込んだ。なだれ込んだ甲高い耳鳴りは世界を押し潰して、なだめて、やがて潮が引くように消えていった。白飛びを起こした視界が静寂を取り戻したとき、私は元のホームへ突き飛ばされたように尻餅をついていた。火花を散らしながら電車が速度を落としてゆく。非常停止ボタンの作動を告げるビープ音が延々と鳴り響いている。かたわらへ転がり込んだひかりとゆかりが、生存を確かめるように私の両腕を抱きしめた。
「あかりっ」
ひかりが声を詰まらせた。
「なんで……なんでっ……」
茫然と私は顔を上げた。かすかな息を吸って、吐いて、なぜ自分が血まみれになっていないのかを思案した。二人の制止は間に合っていなかった。飛び込みは確かに成功したはずだった。それが、風圧では説明がつかないほどの力でホームへ押し戻され、私はこうして生き永らえている。いまも胸元には温もりの残り香が漂っている。吹きすさぶ油交じりの風の中で、とらえた匂いを懸命に嗅ぎ分ける。それが奏の匂いであることに気づいた瞬間、瞳孔が開いた。心臓が潰れるような痛みを発した。
私はすべてを思い出していた。
奏が凶刃に斃れた一部始終のすべてを。
つんと血の香りが立ち込めた。痴漢に背中を刺され、苦悶に顔を歪めた奏は、飛び掛かるように私の胸へ倒れ込んできた。……いや、それは真実、わざと私の胸へ能動的に飛び込んだのだった。奏の背丈と肩幅があれば、華奢な私の身体をくまなく覆い隠せる。死力を尽くして私に覆いかぶさった奏は、血を吐きながら、息を枯らしながら、腕の中でつぶやいたのだ。私にしか聞こえない、泡混じりの壊れた声で。
『大丈夫』
『これでいいんだ』
『もう……大丈夫だから』
最期の一言を発した奏は動かなくなった。私への手出しを許されないまま、あえなく痴漢は取り押さえられた。いくらナイフの切っ先が鋭くとも、刃渡りが長くとも、覆いかぶさる奏の身体越しに私を殺傷することは難しかったはずだ。実際の痴漢には私を殺す意図はなかったみたいだけれど、そんなものは後出しの結果論でしかない。
あのとき嗅いだものと同じ匂いが、塩味まみれの鼻腔を満たしてゆく。肩を押した温もりが醒めてゆく。「待って」と叫んでも元には戻らない。こらえきれずに私は身を乗り出した。中途半端な位置で急停車したままの電車に向かって、溺れるように上体を持ち上げた。ひかりとゆかりの手がそれを許してくれなかった。
「待ってよっ……」
なおも私は叫んだ。
「置いてかないでよっ……奏ぁ……っ」
喉を突破してあふれた大量の泡が、ぼたぼたとホームに飛び散って染みを描いた。花開いた絶望が足元から私を飲み込んだ。奏の死を、取り返しのつかない喪失を、ついに心が受け入れたのだった。──ああ、どうしてもっと早く思い出せなかったのだろう。奏の最期の一言は『綾瀬には何の期待もしてない』なんかじゃなかった。やっぱり奏は優しい人だった。命の尽きる間際にも私を案じて、身を挺して守ってくれていたのだった。
なぜ?
どうして、こんな私を?
私のこと、嫌いになったんじゃなかったの?
どれだけ心を費やして問いかけても、もう奏は言葉を返してくれない。
「奏っ……奏ぁ……っああぁあぁ……」
くずおれて泣きじゃくる私を、二人が両脇から支えてくれる。ひかりもゆかりも嗚咽に溺れていた。すがりついたゆかりが「あかり」と呻いた。
「ごめんねっ……なにも気づけなくて、力になれなくてごめんねっ……お願いだから死んじゃわないでよっ……もう分かったふりなんてしないから……ちゃんと話も聞くからぁ……っ」
ビープ音が鳴り止んだ。
吹き抜ける夜風の中へ私は取り残された。
駆けつけてきた駅員さんに囲まれ、抱き起こされても、まだ、消え失せた奏の温もりや匂いを狂ったように探し求めていた。
「ほんと一苦労だな。あかりから拷問抜きに本音を引き出すのは」
▶▶▶次回 『18 つないだ手』




