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16 待ち伏せ

 



 南千住駅の西口を出て、駅前広場や高層マンションを右に見ながら道を進むこと一分。交差点の正面に並ぶ三階建ての建物を、横断歩道を渡りながら私は睨んだ。壁から下がる看板には【進学講座グロリア】の文字がある。小学生から高校生まで幅広い層の受験指導を行う、個別指導が売りの大手進学塾だ。ここが奏の通塾先であることを、ずいぶん前、まだ待ち合わせて同じ電車へ乗っていた頃に本人から聞いた。

 息が凍る。吹き抜ける北風は冷えたナイフのように鋭い。街路灯の柱にもたれて首をすくめて、肌に刺さる寒気を我慢した。正面には校舎の出入口がある。こうしていれば通塾生は嫌でも私を目の当たりにする。浅い深呼吸をひとつ、ふたつと重ねながら、私はコートの袖を少しまくった。腕時計の示す時刻は午後八時過ぎ。自習室は午後十一時まで開いているらしい。生徒会の仕事で遅くなると両親には連絡を入れてあった。

 目を閉じて、奏の姿を思い浮かべる。会わなくなって一ヶ月以上が経った今も、端整な奏の顔立ちはすぐに浮かんでくる。見てくれに惹かれて恋に落ちたわけじゃない。それでも触れがたいほどの爽やかな笑顔に、きめ細かな頬の肌に、いつも否応なしに視線を奪われる。「あばたもえくぼ」なんて言葉、奏には要らないとさえ思う。そっと私は唇を結んだ。こわばった身体を柱に任せて、鳴り止まない胸に右手を添えた。

 三年前、学芸会の舞台で、王子様になった奏の背中を見つめたあの日から、一度も鳴り止まない胸の高鳴り。奏のそばに立って息をして、おぼつかない鼓動を数えるたび、生きているのを実感する。ひとりの人間として地平に立っているのを自覚する。あの人がいたから私は小学校生活を乗り切れた。痴漢の脅威からも逃れて、いまもこうして生きている。奏を特別に想うべき事情はいくらでもある。それなのに奏の側には、私を特別に想う事情は何もない。私に声をかけて復縁を望んだのは他意のない、下心のない、ただの幼馴染ゆえのありふれた親近感が理由なのだと、いつか奏本人が断じていた。奏にとっての私は、無数に存在する幼馴染の一人でしかない。私たちのあいだに横たわっているのは互恵関係じゃない。さもなければ家庭事情のひとつやふたつ開陳してくれてもよかったはずだ。こちらから問い詰めないことには引っ越しの件も教えてもらえなかった。奏は心を閉ざし、すべてを自分で抱え込む道を選んだ。

 ねぇ、奏。

 お願いだから、もう手遅れなんて言わないでよ。

 一度きりでいいからチャンスが欲しいよ。

 祈る思いでコートにくるまっているうちに、三十分が過ぎ、一時間が過ぎた。空腹で痛み出した胃がゴロゴロと泣いた。私は懸命に沈黙を保った。このくらいの痛み、受験勉強の労苦とは比べるべくもなかった。無為の時間が積み上がるにつれて痛みはキレを増してゆく。全身の関節に乳酸が溜まって、ただでさえ緊張で固まった私をいっそう動けなくさせる。刃物みたいな険しい寒さが肌を脅かす。行き交う塾帰りの生徒たちが(いぶか)しげに私をうかがう。真っ赤な頬をマフラーに隠して耐えながら、この待ちぼうけの地獄が一刻も早く終わることを願った。いくら願っても時間は早送りできないから、目を閉じて、奏のことばかり考えた。──ああ、早く会いたい。最後に触れた手は温かかったな。どんな優れた暖房よりも静かに、穏やかに、水底で冷え切って縮んだ私の心を元に戻してくれたんだ──。


「……綾瀬?」


 飛びかけの意識を揺り戻されて私は顔を上げた。

 制服姿の男子が立っていた。今しがた塾を出てきたばかりの出で立ちで、右手には参考書を携えたまま、真ん丸の瞳で私を見つめていた。たちまち、熱い(あぶく)がいくつも湧き上がって、凍り付いた喉を一息で融かしてしまう。私は絞り出すように「()()」と名前を呼んだ。()はうなずき返さなかった。


「なんで、ここ、いるの」

「あんたがここに通ってるって教えたんでしょ」

「そういう問題じゃないっていうか……。だって綾瀬、この駅では降りないだろ」


 その通りだ。そういう問題じゃない。身を起こした私は、コートの前を掴みながら奏に詰め寄った。煮立った胃の底から無数の気泡が湧き上がった。ぎょっと奏が後ずさりをした。


「なんで黙ってたの」


 奏は露骨に目をそらした。


「なんで引っ越すこと話してくれなかったの? 新潟だか福島だか分からないけど、すっごい遠くに行っちゃうんでしょ? なんで? そんなに私のこと信用できないわけ? 私なんかどうでもいいって思ったわけ?」


 あふれ返った(あぶく)が喉に詰まって、叫びながら何度も嘔吐(えづ)きかけた。血みどろの狭い喉をくぐり抜けて出てこられたのは、どれもこれも本心とはほど遠い、虚勢同然の小さな(あぶく)ばかりだ。呼気に溺れながら私は落胆した。ああ、私は結局、こんなツンデレまがいのアプローチを試みることしかできないんだ。なにも薄情な奏を糾弾するつもりで会いに来たわけじゃないのに、熱く煮えたぎった心が、血が、言うことを聞かない。


「……そんなことのために僕を待ち伏せてたの」


 先に嘆息したのは奏のほうだった。ゆるゆると肩で息をしながら、奏は私を一瞥して、それからふたたび目をそらしてしまった。丁寧に磨かれた彼の革靴が、横断歩道を目指して歩き出す。私も負けじとリュックサックを背負い直して、奏の背中を追いかけた。


「深い理由なんて何もないよ」


 横たわる高架駅を見上げながら奏はつぶやいた。


「だって、引っ越し先が新潟だろうが沖縄だろうが北海道だろうが、綾瀬がついてくるわけじゃないでしょ。他の連中だってそうだろ。だから誰にも話してない。誰から聞き出したのか知らないけど、僕の口からは何も明かしてないよ」


 いわれてみれば舞の情報源も奏の母親だった。意地を張って隣に並びながら「屁理屈いわないでよ」と私は言い返した。足取りが早くて追いつくのも精一杯だ。一か月前までの奏は、こんなに早歩きではなかった気がする。


「行き先がどこかなんて関係ないじゃん。引っ越すことすら秘密にされてた私の気持ちにもなってよ。いなくなったことに気づいたときの私のショックくらい想像できないわけっ」

「三年前に同じことをした綾瀬がそれ言うの?」


 畳み掛ける台詞を奏が静かに遮った。

 氷のような声だった。ビル風に巻かれて凍えながら私は黙り込んだ。返す言葉に困ったから黙ったのではなかった。あの優しかった奏の口から、こんなにも底意地の悪い問いかけがなされたことに、頭の中が混乱の渦を巻いていた。

 違う。絶対に違う。奏はこんな物言いをする人じゃなかった。包み込むように温かな、いつもの奏の匂いがしない。代わりにナイフのような剣呑な気配が肌を脅かしている。奏は豹変してしまった。他人の空似を疑いたくなるほどに。


「綾瀬だって僕が聞き出すまで、湯附に進学すること教えてくれなかっただろ。綾瀬のやり方を真似ただけだよ。心配かけたくないからさ。どこに行くかも伝えないで、黙ってみんなの前から消えようとしただけ。でも、綾瀬に勘づかれたってことは、きっと他の連中にも勘づかれてるんだろうな」

「何それ……。嫌味のつもりなの」

「別に。どう思ってくれてもいいけど」


 当てつけのように奏は私の口癖を真似た。


「でも、わざわざ待ち伏せまでして僕を問いただすくらい腹が立ってるなら、三年前の僕が同じ気持ちだったことにも気づいてくれてもいいんじゃない」


 またしても論破されて沈黙した私をよそに、相変わらずの早歩きで奏は駅前広場を抜け、自動改札機にICカードを押し付け、エスカレーターを無視して階段を上ってゆく。ナイフのような気配が遠くなる。上り電車の発車を告げるアナウンスが頭蓋骨に反響する。めまいを生じて転びかけて、かたわらの手すりを私は必死に掴んだ。頭が割れそうだ。お腹も空いたし、くたびれたし、そのうえ奏はふらつく私を(かえり)みてもくれない。

 何もかもが想定と違う。

 私、どこで間違えた?

 なにを間違えた?

 こんなはずじゃなかったのに──。

 やっとのことで奏の隣に立って、込み上げてきた血なまぐさい吐息をぐっと飲み込む。十五両編成の電車がホームの反対側を出発してゆく。紺色の帯と銀色のドアが交互にあらわれては流れ去る光景を、吹きつける風に凍えながら見つめた。


「……付き合ってたんでしょ。舞と」


 怖いもの見たさ半分、鎌かけ半分の心境でつぶやいたら、わずかに奏が声を硬くした。


「あの子のこと『舞』って呼ぶようになったんだ」

「こないだ会って話したとき、呼び方を変えろって言われたから変えただけ」

「そんで()()行きの件も舞から聞き出したわけか」


 図星だ。もっとも舞自身は具体的な市町村名までは知らないようだったけれど。唇を結んで先を促すと、またも奏は大袈裟に嘆息した。


「何が聞きたいの」

「何って……」

「言っとくけど、そもそもあの子のことは好きじゃない。付き合ってって求められたから付き合っただけ。それ以上でもそれ以下でもないから」


 やはりそうだった。今となっては舞の不幸が他人事には思われなくて、動揺を隠すつもりで「何それ」と私は奏を睨んだ。


「そんないい加減な気持ちで舞の初めてを奪ったりしたんだ。最低……」

「あの子が望んだことだよ。そこまでされたら僕も好きになれるかなって期待してたけど、駄目だった。()()()()僕には合わなかった」

「それならなんで綺麗さっぱり舞を振らなかったわけ? 友達みたいな距離感で今も接してるわけ? はたから見れば今でも十分カップルじゃん。勉強会の時だって、舞は中川の気を引こうと頑張ってたよ。中川だって好きになる努力のひとつやふたつ……」

「僕の何を知ってて言ってんの」


 冷ややかに奏がせせら笑った。


「努力で何とかなるならとっくにやってた。だけどどうにもならなかった。そもそも舞には最初からちゃんと説明してあった。今は誰のことも好きになれない、だから舞のことも恋人として見られないと思うって」


 私はまばたきを何べんも繰り返した。

 牙を抜かれた猛獣みたいに、睨みつける眼力がとろりと弱った。意味もなく「意味わかんない……」と脳幹だけで反応しながら、たったいま奏の口にしたことの意味を考えた。いやな胸騒ぎが呼吸を狭めた。

 誰のことも好きになれない。

 確かに、そう聞こえた。


「恋愛的な意味だけじゃないよ。誰のことも好きになれないんだ。もう、何年も前から」


 そっぽを向いた奏のかすかな自嘲は、甲高い構内放送の接近メロディにかき消された。アナウンスが下り電車の到着を告げ始めた。二十一時二十五分発、常磐線快速取手(とりで)行き。かすかな金属質の音とともに、横たわる二本の線路に緊張が走る。それが乗り込まねばならない電車であることも忘れて、まばゆい前照灯の光に飲まれながら私は接近中の電車を見つめた。電車を見たかったのじゃない。奏を見たくなかった。見上げたら最後、我慢しきれずに尋ねてしまう気がした。「私のことも好きにならないの」──って。

 聞きたくない。

 奏の言葉でとどめを刺されたくない。

 でも、かたくなに目を合わせてくれない奏の様子を伺えば、おのずとそこに答えは浮かんでいる。

 轟音とともに電車がホームへなだれ込んでくる。心を閉ざされて戸惑う小台くんや舞の顔色が、車窓に映る無数の乗客に馴染んでは流れてゆく。本人の弁を信じるなら、たぶん、奏は誰の前でも好漢を演じていただけだったのだ。それがどれだけ人の心をもてあそぶ残酷な振る舞いであるかも、きっと分かっていて。

 風圧に紛れて「だから」と叫んだら、わずかに奏が身じろぎをした。


「卒業したら遠くに引っ越すこと、誰にも言わなかったの。試験勉強でみんなを頼らなかったの。みんなのことが好きじゃないから……」


 奏は答えない。

 そっぽを向いたままだ。


「なんでよ。意味わかんないよ。いつからそんな人になっちゃったの。そうやって全部ひとりで抱え込んで生きてゆく気なの。大事に想ってくれる人の存在も忘れて、善意も突っぱねて、ひとりぼっちで生きてゆくつもりなの」

「…………」

「むかしの中川はそんな人じゃなかったじゃん。いつでもみんなに囲まれて幸せそうで、私なんかが隣にいるのも不思議なくらいの人で、それなのに私のことも気にかけてくれて……。あの頃のお人好しな中川はどこへ行っちゃったの。今の中川、変だよ。おかしいよ」


 ドア開閉の電子音が言葉を遮った。顔をそむけながら乗り込んでゆく奏に、一瞬、私は出遅れた。発車ベルに背中を押されてドアを跨ぎながら、口にしきれなかった(あぶく)のかけらを奥歯ですりつぶした。苦い唾液が喉へ落ちてきて少し()せた。奏は私を振り向かずに奥のほうへ入ってゆく。『駆け込み乗車はおやめください』──。機械的なアナウンスとともに背後のドアがわずかに開いて、飛び込んできた最後の乗客を迎え入れる。乱暴な音を立ててふたたびドアが閉まった。電車は軋みながら南千住駅を滑り出した。


「待ってよっ」


 置いてゆかれたくない一心で私は乗客を押しのけた。混雑のピークを過ぎていたせいか、奏の正面に回り込むのは難しくなかった。


「ねぇ、聞いてんの。一言くらい話してよ。私、あんたのこと心配してるんだよ。三年前の私みたいになってほしくないんだよ」


 吊革も持たずに奏は立ち尽くしている。長い前髪の影にかくれて目の色は伺えない。それでも私は諦めたくなかった。ここで食らいつかなければ二度と奏に相手されない。重苦しい危機感に胸が支配されてゆく。浅い吐息に血の匂いが混じる。

 奏のそばにいたい。

 たとえ暴力を振るわれてもいいから。

 身体だけの関係にされてもいいから。

 愛されなくてもいいから……。


「なんで綾瀬が僕のことなんか心配するの?」


 冷たい声で奏が畳み掛けた。

 すさまじい熱がたちどころに身体中を巡った。無数の泡が、血が、沸騰した心の底から間歇泉のように湧き上がって、耐え難いほどの吐き気になって喉を詰まらせた。苦しさのあまり私は場所もわきまえずに叫びかけた。

 そんなの決まってるじゃない。

 好きだからだよ。狂おしいほど。

 私は、あんたを──。


「…………っ」


 わなわなと唇が震えて声にならない。だめだ、人前で嘔吐することなんて許されない。つまらないプライドに縛られて動けない私を前に、「ほらね」と奏がつぶやいた。


「言葉にならない程度の興味本位なんでしょ」


 違う。

 ぜんぜん違う。

 死にもの狂いで私は奏を見上げた。前髪の奥からふたつの瞳が覗いていて、ばっちり目が合った。無様な私をみて奏は退屈げに吐息を漏らした。


「いいってば。無理してくれなくても。綾瀬には何の期待もしてないから。綾瀬だって僕に何の期待もしてないんだろ」


 剣呑な気配が極限にまで張り詰めた。揺れる電車のなかへ佇みながら、積み上げてきたものが跡形もなく崩れてゆくのを私は感じた。少し立ち止まって考えれば、それが奏なりの意地悪な意趣返しに過ぎないことに気づけていたのかもしれない。気づく前に手足が動いていた。噛んだ唇をほどき、食い縛った歯を開け、渾身の力を込めて私は叫んだ。周囲の状況を(おもんぱか)ることもなく。


「もういいよっ! 中川のことなんか知らない! 大っ嫌いっ!」


 思いきり両手で突き飛ばされ、もんどりうって倒れ込む間抜けな奏の姿が、スローモーションよろしく瞳に焼き付いた。吊革を握ってないからだ、ばーか。そのまま頭でも打って怪我をして、引っ越しも何もかも取り止めになってしまえ。幼稚な反発心を悪態に込めてぶちまけながら、私は奏が転び終えるのを待った。絶対に助け起こしてやらない所存だった。裏切りに裏切りを重ねられてズタズタに裂かれた私の心の痛みを、後頭部を打った程度の痛みで帳消しにしてやるつもりはなかった。

 早く起き上がってよ。

 そしたら耳元で、精一杯の恨みを込めてささやいてやる。

 あんたと違って私は期待してたんだよ、あんたのこと好きだったんだよ、って──。

 倒れ込む奏の動きが止まった。

 背中の向こうで誰かが奏を支えていた。

 耳慣れない、重たい音が響いた。コートの胸元から何かが飛び出すのを私は見た。それが何なのかに思い当たるよりも、顔面蒼白になった奏の口元から赤黒い液体が噴き出すほうが早かった。


「ご、ほっ」


 次の瞬間、奏は海老のように跳ねて、立ちすくむ私に向かって倒れ込んできた。

 ほとんど抱き締めるような格好になった。大胆な行動への感慨も湧かないまま、おそるおそる私は奏の身体に手を回した。生温かな液体がぬるりと手にまとわりついた。隣に立っていたスーツ姿の女の人が、私の手を見て、壊れたホイッスルみたいな悲鳴を上げた。


「キャ────ッ!」

「子どもが刺されたぞ!」

「捕まえろ! そいつだ! 凶器を持ってる!」

「非常ボタン押して! 誰か! 早く──!」


 蜂の巣をつついたような喧騒に車内が飲み込まれてゆく。呆然と私は手のひらを見て、それから奏の立っていた場所を見た。刃渡り十数センチもあろうかというナイフを構えた男の人が、がくがくと足を震わせながら立ち尽くしていた。しまいに男の人はナイフを取り落とした。甲高い断末魔とともに、塗りたくられた赤い液体が足元へ跳ねた。


「お前が……お前のせいで僕はッ……許さない絶対にぜったいにッ……」


 彼が呪詛の言葉を誰に向けていたのか、私には分からなかった。どこかで見覚えのある男の人だと、真っ白にぼやけた頭の記憶を漁りながら考えた。考え事をするのも億劫だった。あらゆる能動的な思考を脳が拒んでいた。

 抱き止めた奏の拍動が弱まってゆく。

 何事かをつぶやいて、奏は静かになった。

『急停車します、ご注意ください』──。淡白な自動放送とともに制輪子の悲鳴が響いて、非常ブレーキをかけた電車は橋の真ん中で立ち往生した。取り押さえられた男の人が呪詛の続きを(わめ)いている。真っ先に悲鳴を上げた女の人は口元をおさえながら嘔吐している。私ひとりだけが状況を読み込めないまま、淀んだ空気の真ん中で、大嫌いな人の身体を後生大事に抱きしめていた。



 ──おかしいな。

 奏が息をしてないや。

 一緒にいるのに温かくない。

 なんで、こんなことになってるんだっけ。





「だって私、中川に好かれてなかったから」


▶▶▶次回 『17 衝動』

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