表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/21

15 三つ巴

 



 約六十年前、阿賀野川水系只見川上流部の山奥に建設された奥銀山ダムと、それによって新潟と福島の県境に誕生した奥銀山湖は、現在でも国内最大級の湛水面積や貯水容量を誇る水力発電の一大拠点らしい。一六〇メートルもの堤高をもつ重力式コンクリートダムで、認可出力は約六十万キロワット。純然たる自然エネルギー利用でありながら、原子力発電所一基分にも引けを取らない発電能力を持つ、見上げるような巨大ダムだ。

 その奥銀山ダムで数年前、脱炭素化の時勢に応え、最新の発電設備を導入して出力を大幅に引き上げる計画が始まった。四基ある既存の発電機をすべて置き換えたうえ、新たに一基を増設することで、認可出力は一気に九十万キロワットにまで増加する。この一大プロジェクトを成し遂げるため、ダムを管理する株式会社日本発電事業開発は、ダム最寄りの新潟県魚沼市内に臨時の奥銀山現地本部を設置。初代本部長には本店勤務の幹部職員が選ばれ、少なくとも数年にわたり新潟へ派遣されることになった──。


「……その幹部ってのが、奏のお父さんなんだ」


 読み終えたオンライン記事を消してスマートフォンを放りながら、私は手近にあった抱き枕を引き寄せた。

 勉強机の前の剥がれかけの日本地図が、目をこするたびに霞んでぼやけた。奥銀山ダムがどこにあって、どれほどの時間がかかるのか、首都圏から出たことのない私には想像も及ばない。しいて言えば、緑の深い山奥にたたずむダムの写真は、それが関東平野の外側にある遥か遠方の景色であることを端的に示している。

 そこにあるのはあまりにも埋めがたい、絶対的な隔たりだ。中学受験で地元を離れた私の比じゃない。どんな偶然が働いても、もはや私たちがすれ違うことはなくなる。電車内で鉢合わせることも、近場のファミレスで落ち合うこともできなくなる。私たちは今度こそ正真正銘、赤の他人になる。けれどもそれもこれも全部、旅立つ奏は織り込み済みなのだろう。

 卑怯だ。

 ひとりだけ格好つけて、最後まで善人を演じて。

 奏だって普通の男子中学生だ。生まれ育った街を離れる決断を前にして、人並みの葛藤に溺れなかったはずがない。それでも奏は葛藤をひとりで抱え込んだ。何事もないふりをして、孤立していた私をみんなのもとへ引き戻そうとした。置いて行かれる私の心境も考えずに。そういう無神経なところが昔から嫌いだったのだ。周りの目も顧みずに私をチームへ誘い込んだり、反対を押し切って主役に据えようとしたり──。

 嫌い。

 あれもこれも嫌い。

 舞に負けないくらい、ずっとずっと嫌い。

 けれどもそんな中川奏を、私は好きになってしまったのだ。それこそ嫌というほどに。


「奏……」


 私は枕を強く抱きしめた。


「私、何をしてあげられる……?」


 三年前、私も奏のようにすべてをひとりで抱え込んだ。みんなを捨てたことへの罪悪感はひとりじゃ拭えなくて、いまも昔の仲間とすれ違えば胸が痛む。こんなにもみじめな思いを奏にも抱いてほしくはない。幸せを祈るだけじゃ飽き足らない。なんでもいいから力になりたい。たとえ試験対策の役には立てなくとも、抱え込んだままの葛藤を聞き出して分かち合うことならできるかもしれない。たったそれだけでも、私、奏の役に立てるだろうか。

 冷えた抱き枕が肌に触れて、こそばゆい痛みが身体中を駆け回る。閉じた網膜の裏に奏の顔が浮かぶ。奏は黙って、つぐんだ口を丸めて、静かに私を抱きしめ返してくれる。まなざしは前髪に隠れて分からない。穏やかに持ち上がった口角が耳元でささやく。『余計なお世話だよ』──って。

 ぞっと身体が跳ねた。

 我に返って布団に沈みながら、私はいよいよ枕を強く引き寄せた。

 嘘だ。まやかしだ。いくら冷淡になろうとも奏はそんな口を利かない。分かっているのに震えが収まらないのは、きっと嫌われたくないせいだ。いやだ、絶対に嫌だ。奏に嫌われるくらいなら死んだ方がマシだ。私を人間扱いしてくれるのは奏だけなのだ。奏に守られ、奏を愛して初めて、私は人間としての体裁を保っていられる。私の世界は奏を中心に回っている。核を失った世界は崩れるしかない。泡になって消えた人魚姫のように。

 どろどろと流れ出した気泡混じりの血が、枕元に透明な血だまりを描いてゆく。溺れるように息をして、熱い身体を抱き枕で冷やして、奏の名前を呼んだ。(くら)い自室に醜悪な私の声が転がった。

 奏。

 かなた。

 どうか彼方へ行ってしまわないでよ。

 どうか──弱い私をひとりにしないでよ。



「……高二のぶん、終わったよ」


 教室のドアを引き開けたゆかりが、くたびれた足取りで私のもとまでやってきた。


「あとはどこが残ってるの」

「高校三年のフロアだけ。あたしらの方で束を分けといたから、三人で手分けして終わらせよ」

「まだけっこうあるね……」


 分厚い冊子の束を見下ろしたゆかりが、うんざりとばかりに眉を曇らせる。思い切って私は「もういいよ」と切り出した。


「部活終わりで疲れてるでしょ。お金になるわけでもないんだし、二人とも帰ってよ。あとは私ひとりで頑張るよ」

「いまさらそんなこと言わないでよね。ここまでやったんだから最後まで手伝うってば」


 後頭部を掻きながらひかりが嘆息すると、ゆかりも黙ってうなずいた。いつもならどんなに心強いか知れない二人の協力姿勢が、今日はなんだか仄暗(ほのぐら)い意地のあらわれにも思えた。「ありがとう」と小声で応じて一山を持ち上げると、ひかりも、ゆかりも、それぞれに冊子の束を抱えた。

 湯附の生徒会は月に一度、全校生徒に数ページの広報誌を配布している。生徒自治を促す観点からみれば大事な取り組みなのだろうけれど、毎月の広報誌の作成にかかる労力は生半可じゃない。そればかりか、庶務は一三〇〇名にも上る全校生徒の机に広報誌を配布する作業を、毎月一回は欠かさず行うことになる。普段だったら生徒会のメンバーが配布を手伝ってくれるのに、今日は全員「用事がある」といって先に帰ってしまった。仕方なく、自分の教室で仕分け作業をしていると、部活帰りのひかりとゆかりが通りかかった。お節介な二人はわざわざカバンを置き、私の手伝いに回ってくれた。

 湯附中の一学年は二〇五人。三で割ると七十人ほど。残りわずかな配布作業を一気に終えて教室へ戻ってきた時には、時計の針は下校時刻間際の午後六時半を指していた。遅れて戻ってきたひかりやゆかりが「疲れた……」「やっと帰れるね」とぼやきながら手近な机へ腰かけた。


「三人で手分けしてもこんな時間か。あかり一人だったら何時に終わってたんだろうね」

「ほんとだよ。下校時刻過ぎても配り終わらないじゃん」

「終わらなかったら朝一番に登校して終わらせるつもりだった」


 余分に印刷しておいた未配布の広報誌をまとめながら答えると、「そういうとこだぞ」とひかりが唇を尖らせた。


「はじめから声かけてくれれば手伝ったのに。そうやって自分でぜんぶ抱え込もうとするの、あかりの悪い癖だよ。今に始まったことじゃないけどさ」


 答える代わりに私は束を叩いて整えた。甲高い音が教室にこだまして、ひかりもゆかりも顔をしかめた。自覚のある物事を外から声高に指摘されるほど、気分の萎えることはない。きゅっと引き締まって硬化した心が、私なんて、と無言で吐き捨てる。

 この程度で音を上げていられるものか。もっと孤独な苦労を強いられている人が世の中にはあふれている。たとえば──私の大好きな人だってその一人だ。


「……あのさ」


 広報誌の残りをリュックに押し込んだ勢いで、私は二人を見上げた。


「ひとりで何もかも抱え込んでる人の力になりたいと思うのって、自然なことだと思う?」


 ひかりもゆかりも、陸へ打ち上げられたクジラみたいにきょとんとする。


「まぁ、いまのあたしたちだってそうだし」

「そうだよね。普通だよね。……嫌がられたりなんてしないよね」

「何の話?」


 ほっと胸を撫で下ろす間もなく、ゆかりの端的な質問に私は声を詰まらせた。「別に」と常套句を放つ唇が震えた。ひかりとゆかりは顔を見合わせた。いつもの拷問が始まるかと無意識に身構えたけれど、二人は首をすくめて、また元のように目をそらした。


「あかりのことだから話さないだろうね」

「今に始まったことじゃないもんな」

「わたしたちってつくづくあかりに信頼されてないと思わない?」

「お互い様でしょ、そんなの。ゆかりだってあたしのこと信頼してないだろうしさ」

「そうだね。お互い様かな」


 肩透かしを食らいながら私はうつむいた。二人の言葉はウニのように棘だらけで、口走った本人の血にまみれながら互いの肌を傷つけ合っていた。もちろん棘の攻撃は私にも効く。立ち尽くす二人の影を見つめながら、穴の開いた心が出血しているのを感じ取る。二人の足元にも血溜まりができている。私のそれよりも輪をかけて大きな、信じてきたものに裏切られ続けて生まれたような血溜まりだ。


──『わたしの事情なんか話したって、きっと二人は理解してくれないよ。そのつもりがないとかじゃなくて、できないの』

──『わたしたちは一〇〇%分かり合えるわけじゃない。どんなに仲良くても結局は他人だもん』


 いつかのゆかりが冷たい声で笑っている。

 いたたまれなくなって握りしめた拳を、私は膝に押し当てた。

 もうたくさんだ。互いの出方を臆病に探り合うのはやめて、もとのような朗らかな私たちに戻りたい。そのために誰かが口火を切らなければならないなら、私が切ってやる。二人は私の初恋の件を知っているのだから、いまさら失うものは何もない。それに……ここで暴露したところで、どうせ叶いはしないのだ。


「分かったよ。そんなに知りたいんなら話すよ」


 いささか乱暴に切り出した私を、ひかりもゆかりも驚いたように見つめ返した。


「初恋の男子のこと、前に話したでしょ。そいつ、家族の事情で東京を離れることになったの。詳しい行先は聞いてないけど、たぶん新潟。家族の事情だから本人も拒めなかったみたいで、あいつは今、誰にも志望校を告げないで、ひとりで県外の高校の受験勉強してるの」

「…………」

「友達とも全員交流を絶ってるって言ってた。私にも途中からメッセージ返してくれなくなって、いまも未読無視され続けてる。だから今、あいつがどこで何をしてるのか、私にはちっとも分かんないの。分からなくても支えてやりたいの。だけど、そんな私の気持ちがあいつの迷惑になったら嫌だなって思って、それで……」

「……そんなに好きになったんだ」


 腕組みをしたひかりが私の弁を遮った。

 ほんの鎌かけのつもりだったのだろう。私はこうべを垂れるのも辞さなかった。この期に及んで認めないわけにもいかなかった。案の定、ひかりが不器用に目を見開いた。


「好きだよ。死にたくなるくらい好き。たくさん嫌な思いして、何度も泣いたのに、それでもあいつを忘れられないの。右手を握られたときの感触が消えないの。これが恋じゃなかったら何なのか分かんないよ」

「嫌な思いってどういうこと。何されたわけ」

「何って……。今だって未読無視されてるし、引っ越すことも最後まで教えてくれなかったし、彼女がいたことも黙ってたし、それに……」

「だから言ったんじゃん。警戒した方がいいんじゃないのって!」


 ひかりが急に声を荒げた。

 身を乗り出すような彼女の勢いに身がすくんで、私は言葉を切ってしまった。


「そんだけ不誠実な真似されて不信感を持たないあかりもあかりだよ。大体、いくら受験勉強が忙しくても普通メッセージくらい返せるでしょ。そういう扱いを受けてる時点で、あかりはそいつに邪険にされてるんだよ。冷静になりなよ。傷ついてる自覚を持ちなよ。このままじゃダメ恋まっしぐらだよ。尽くすだけ尽くして捨てられたら目も当てらんないよ」

「そうだよ。そんな子を好きになったって傷つくばっかりだよ。だいたい前からなんか怪しかったじゃん。受験前の忙しい時期に胡散(うさん)(くさ)い勉強会なんか開いて、再会したばっかりのあかりを誘い込んだりとか……」


 ゆかりまでもが寄ってたかって口火を切った。詰め寄られて後ずさりながら、血の気が引いてゆくのを私は自覚した。(つば)を飛ばす二人の形相は鬼のようだった。まるで、みずからも傷ついたのだと嘆かんばかりに。


「今なら引き返せるよ。きれいさっぱり忘れちゃいなよ。そいつも引っ越しでいなくなるんだからちょうどいいじゃん。二度と会わないんだって思えばいくらでも憎めるでしょ」

「わたしたち、あかりのためを思って言ってるんだよ。信用できない相手に心も身体も費やしてほしくないんだよ。ねぇ、何とか言ってよ、あかり──」

「──もういいよ!」


 無我夢中で私は叫んだ。一息に凍り付いた二人の足を見つめながら、首を振り回した。

 聞くに堪えなかった。大好きな人を声高に罵倒されて、心の痛まない人なんてどこにもいない。あふれ返った深紅の激情が喉に込み上げて、いつもの汚い吐き気に変わる。悪心をこらえながら私はひかりやゆかりを睨みつけた。二人も私を睨んでいた。


「よく分かった。二人が奏のことを嫌ってるのはもう分かったよ。だけどそれを私に押し付けないでよ、勝手にダメ恋なんて決めつけないでよ! 当事者でも何でもないくせに偉そうに! 私がどんなに悩んでたか知りもしないくせに!」

「ちょっと、そんな言い方──」

「あれだけあいつのこと悪しざまに(けな)しておいて、どの口で私の言い方を非難できると思ってるわけ?」


 ひかりの瞳孔が縮まった。濡れた瞳を私は床へ向けた。いまにもこぼれそうな心のかけらを、赤く燃えたぎった嘆きを、いまの二人には見せたくなかった。


「どうせ私なんてダメ恋まっしぐらな恋愛初心者だよ。()()()()な二人に比べたら、泡になって消えた人魚姫にも笑われるくらいの恋愛下手だよ。だけど私だって恋くらいするんだよ、誰かを好きになっちゃったんだよ! たったそれだけのことをどうしてここまで言われなきゃならないの!?」

「違うってば、そんなつもりじゃ……」

「いいよねひかりは! 好きになった人と結ばれたんだから! 私みたいに不器用で、まともに告白もできないで振り回されるばっかりの子の気持ちなんて、ひかりには一生かかっても──」


 どんと腹に響く音が私の台詞を引き裂いた。

 ひかりが手元の机を握り拳で殴った音だった。

 乱れた前髪が瞳の色を隠している。ものの一瞬で豹変したひかりを、ゆかりまでもが怯えた目で振りあおいだ。ひかりはゆらりと揺れた。その細い指が、途方もない時間をかけて、ぶかぶかのパーカーに隠れた長袖シャツのカフスをめくってゆく。

 抵抗を試みることもできなかった。

 地割れのように手首を走る幾本もの痛ましいミミズ腫れを、見開いた瞳で私は直視してしまった。


「……まだ見たい?」


 私たちの応答も待たずにひかりはタートルネックの首元を引き下げた。紫色のあざが蛇のように首へ絡みついていた。さらにスカートをめくってスパッツも引っ張り上げようとしたところで、ついに「待って」とゆかりがひかりを押しとどめた。


「もうやめてよ……。どういうこと、これ」

「先輩と別れてから自傷が止まらなくてさ」


 ひかりは真っ暗な顔で笑った。


「二人には話したことなかったよね。あたしさ、ずっと先輩のサンドバッグだったんだ。部活でミスすると殴られたし、勉強が上手くいってないと蹴られたし、喧嘩になるとすぐに手を出してくるし……。それでも好きだったから我慢してたら、浮気された。女バスの先輩に取られた。最後の意地であたしから振ってやったけど、むしろ捨てられたのはあたしの方なんだよね。なんなら別れ際にさんざん殴られて蹴られて、思いつく限りの悪口も言われて、こんなでっかい後遺症まで残して逃げられてさ」


 生々しい傷が説得力をいや増しにする。絶句する私たちを見上げて、ひかりは(おぞ)ましい笑顔を消した。どす黒い光が瞳を濁している。

「だからさ」とひかりは凍えるような声で続けた。


「ダメ恋第一号はあたしなわけ」

「ひかり……」

「いいよね、二人は。恋を叶えた先に何が待ち受けてるのかなんて知らないでしょ。あたしだって知らずに済むなら知りたくなかったよ。きっと一生、この傷と失敗を引きずりながら生きていくんだ。もう取り返しなんてつかないんだよ」

「…………」

「そんなにお花畑じみた恋愛脳のままで生きていきたいならそうすればいいよ。だけどあたしの願いや祈りまで否定しないでよね。あたし、ただ、二人にあたしみたいな後悔をしてほしくなかっただけなんだよ。どうせ伝わらないんだろうけどさ……」


 返す言葉もなく私は立ちすくんだ。返せるだけの重みのある経験を、過去を、私は何も持たなかった。痛みに震えながら元彼の背中を見送ったひかりの心境を、いまの私では想像することもできない。これが私の限界なのだ。こわばった肩を縮めて黙り込んでいると、うつむいたゆかりが小声で何事かを口走った。


「……じゃん」

「何?」

「いいじゃん。それでも、好きだったんなら」


 ひかりの眼差しが濁りを深めた。ゆかりはひかりを視界に入れてもいなかった。地べたを見つめる瞳のふちが不意に盛り上がって、ぼたぼたとしずくを落とし始めるのを、茫然と立ち尽くしながら私は見つめていた。


「殴られたって、冷たくされたって、それでも好きならもう仕方ないじゃん。わたしには二人の気持ちなんて分かんないよ。だってわたし、好きってどういう感覚なのかちっとも分かんないもん」

「どういう意味、それ」

「わたしなんか好きでもない人と()()()()()()させられてるんだよ」


 思わず口走った問いを、ゆかりは涙色の叫び声で叩きのめした。私が踏みつけたのか、ひかりが踏みつけたのか、ともかく特大の地雷が炸裂したのを私は理解した。年末の生理不順の騒動が瞬く間に脳裏をよぎった。「ねぇ!」と声を震わせたゆかりが、凍り付いたひかりに詰め寄った。


「わたしの目、ちゃんと見てよ。ひかりだってわたしの気持ちなんか分かんないでしょ。好きでも何でもない男子に恋人ごっこを強いられて、キスされて、身体も触られて、そこまでされても関係を断てないわたしのこと、気持ち悪い深海魚みたいに見えるでしょ!」

「待ってよ。どういうこと。初耳なんだけど。なんで一言くらい相談してくれなかったわけ……」

「言えるわけないじゃん。言ったら軽蔑されるに決まってるもんっ」


 ゆかりはかぶりを振った。


「わたし、小学校でいじめられてたの。そのときいちばん怖かった男子が、卒業式の日に急に手のひら返して、わたしのこと好きだとか何とか言ってきたの。付き合えって迫られて、怖くて抵抗できなくて、そのまま今も関係が続いてるの。わたしからは一度も求めてないの。だけど呼び出しを受けるたびに身がすくんで、従わなかったらどうなるか想像しちゃうの。こんな関係でも相手はわたしのこと好きだって言うんだよ。わたしたちの間柄を恋人って呼ぶんだよ。わたし、もう分かんないよ。誰かを好きになる気持ちなんてちっとも分かんないよ。二人のことが羨ましいよ。わたしだってもっと普通に恋してみたかったよっ……!」


 しゃくり上げながら座り込むゆかりを、私も、ひかりも、助け起こせなかった。濡れた唇をこじ開けても言葉が浮かばなかった。どんなに穏当な言葉を投げかけようとも、今のゆかりには刃となって突き刺さるように思われた。炙り出されたルサンチマンの痛切さに、おぞましさに、心が(ひる)んで言葉を失っていた。

 これが、素直になるということ。

 抱え込んだ内面を互いにさらけ出した結果だ。

 ぶちまけられた三人分の苦悶は、悲痛は、細い腕で受け止めるにはあまりにも重すぎた。容量の小さな心はすでにハリセンボンのように膨らみ切って、ほんのわずかでも圧力をかければ破れそうだ。こんな有様で、二人の置かれた状況に共感や理解を示すだけの余力が残っているはずはない。ゆとりのない人間には誰かの苦痛を受け止めきれない。それに、たとえ余力が残っていたとしても、こうして話を聞いた程度で二人の境遇を知った気になって共感を示すこと自体、きっと思い上がりも(はなは)だしい殿様目線の傲慢なのだ。

 私には覚悟が足りなかった。さらけ出す痛みに耐える覚悟も、二人の痛みを引き受ける覚悟もないまま、デリケートな心の中へ土足で踏み入ってしまった。これがゆかりの恐れた「危ない橋を渡る」ことだというなら、もはや私はゆかりの顔を見られない。自分のしでかしたことがようやく分かった。ゆかりの望んだ平穏無事な、少なくとも表面上は和やかだった三人の居場所を、私は何も知らずに破壊してしまったのだ。それこそ取り返しがつかないほど──。

 握り固めた拳をおおう震えが、不意の物音で消え失せた。目元を拭ったひかりが教室のドアに目をやった。外の廊下を足音がこだましている。やがて足音は教室の前で止まって、耳障りな音とともにドアが開かれた。担任の先生だった。


「ちょっとあなたたち、何時だと思ってるの。下校時間でしょう」

「いま、何時ですか」

「七時半よ。もう校舎内にはあなたたちしか……」


 最後まで聞かずに私はリュックサックの紐を握りしめた。

 ひかりが「あ」と声を上げた。私は立ち止まらなかった。整然と並ぶ机をかき分け押しのけて、呆気に取られる先生の脇をかすめながら扉を目指す。ワックスの効いた床がするどい鳴き声を上げる。呼び止める二人の声が私の背中を押した。


「待ってっ!」

「あかりっ……」


 私は振り返らなかった。そのまま廊下に躍り出て、一階の昇降口を目指して階段を駆け下りた。一段飛ばしのジャンプを繰り返すたび、背負ったリュックサックの中身が乱暴に跳ねる。胸が痛い。呼吸が苦しい。噛み締めた唇を解き放つと、破れた唇の隙間から血の匂いが口腔いっぱいに広がって、走りながら私は目尻を袖で拭った。

 ごめん。

 ひかりも、ゆかりも。

 こんな形で気持ちを踏みにじりたくなかった。

 だけど、どうか分かってよ。私を止めないでよ。

 いまの私は二人の痛みを引き受けられない。本当は誰の痛みも引き受けられないのだけど、それでもまさに今、現在進行形の痛みに喘いでいる人のもとに寄り添って、彼の痛みを分かち合うことはできるかもしれない。ささやかな温もりを分け与えて、冷え切った心を融かすことはできるのかもしれない。ほんのわずかな可能性でも信じて(すが)りたい。そして、それができるのは世界中でたったひとり、あいつの通塾先を知っている私だけなのだ。

 奏に会いたい。あいつの悩みを、痛みを、今すぐ知って確かめたい。この世界は不幸ばかりじゃないってことを、あいつの身をもって教えてあげたい。傷つき続けて心の在処さえ分からなくなった二人のように、この恋を竜頭蛇尾の悲恋で終わらせたくない。たとえ三月が来れば離ればなれになるのだとしても、それまであいつをひとりぼっちにしてたまるものか。誰にも人間扱いされずに深海の底で泣いていた私を、奏は何度も救ってくれた。払っても払っても手を伸ばしてくれた。だから今度は私が奏を救うんだ。その営みはいつか巡り巡って、ひかりやゆかりのためにもなるはずだ。

 転げ落ちるように私は校門を出た。最寄り駅までの急坂を駆け下りる道すがら、スマートフォンを取り出した。メッセージアプリには何の応答もない。すぐさま画面を切り替えて、地図アプリを起動する。奏の通塾先は頭に入っている。【進学講座グロリア南千住校】と入力すると、すぐさま画面が遷移して、荒川区の一角に赤いピンが立った。祈る思いで私はスマートフォンを握りしめた。



 ──奏。

 お願い。

 今すぐ飛んでいくから。

 どうか、そこで待ってて。





「綾瀬だって僕に何の期待もしてないんだろ」


▶▶▶次回 『16 待ち伏せ』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ