14 砂糖がけの憎しみ
思い返せば、色々なことが腑に落ちた。
──『あいつ、基本的に人前で勉強したがらねぇんだよ。受験勉強だって、俺らと違ってわざわざ隣町の塾に通いながらやってる。解いてる過去問も見せたがらねぇし』
いつか小台くんが、そんな言葉で奏の腹の内を訝っていたのを覚えている。言わんとすることも分からないではないけれど、そもそも勉強の進め方に王道はない。大人数で教え合うスタイルを好む子もいれば、ひとりで黙々と解き進めることに向く子もいる。だから、小台くんの示唆を私は重く受け止めなかった。奏は独力で勉強に没頭するタイプなのだと解釈して、奏の為人を理解した気になっていた。
もしも、それが私の思い違いだとしたら?
勉強会を開きたがらなかったのも、過去問を見せたがらなかったのも、わざわざ遠方の塾に通っているのも、すべては転居を悟られないためだったのだとしたら?
本人の弁がないから確証は持てない。でも、奏が小台くんの言うように「心を閉ざしている」なら、合理的な説明は容易につけられる。私が湯附への進学を周囲に明かさなかったのと同じ理由だ。当時、私は小学校の人間関係を残らず捨て去る覚悟だった。結果的には奏に問い詰められて白状してしまったのだけど、さもなければ卒業まで黙っているつもりだった。もしも、奏が同じことを、彼を取り巻くすべての人間関係を相手に企んでいるのだとしたら──。
ぞっと鳥肌が立った。
動きのないメッセージアプリを開いて、夢中で奏の名前を探した。
私の送った【どうして……】を最後に、奏とのメッセージのやり取りは静止している。むかしだったら既読はつけてくれたのに、いまの奏はそれすらしてくれない。聞く気もないと言わんばかりだ。そして奏の言葉を素直に信じるなら、遠ざけられてるのは私だけじゃない。小台くんや、同級生たちや、元カノの梅島さんでさえ、奏の核心に近付くことを許されない。そこまでして奏は何を守ろうとしているのだろうか。
分からない。
たったそれだけの現実が、あまりにも、歯痒い。
『──北千住、北千住。ご乗車ありがとうございます』
無機質なアナウンスとともにドアが開いて、押しのけられるままにプラットホームへ降りる。雑踏に埋もれながら私は顔を上げた。十八時三十四分。水戸行きの常磐線普通電車は、定刻通り私の街へたどり着いた。
香水、汗、柔軟剤。流れゆく乗降客の波間を無数の匂いが漂っている。私の知っている人の匂いはそこにはない。包み込むように温かな人の匂いも、私を無抵抗の人形としか思わないハイエナの匂いもない。おずおずと人混みを抜けたところで立ち止まって、降りたばかりのドアを振り返る。奏と待ち合わせる時の定位置だった、二号車のいちばん水戸寄りの扉が、バタンと無感情な音を響かせながら閉じた。
あの扉の向こうに、今日も奏は現れなかった。
「…………」
きゅうと胸が詰まった。唇を結びながら私はエスカレーターを目指した。道すがらスマートフォンを取り出して、新着通知のないメッセージアプリを無意味に開いた。今朝、家を出る前にしたためて送った奏宛ての言葉が、なんの反応もないまま画面の端に沈んでいた。
【たまには息抜きしなよ】
【根詰めてばっかりだと疲れるよ】
【カラオケとかなら付き合うけど】
我ながら、こんなに下手な誘い文句もないものだと呆れ返る。シクシクと胸が痛んで、せっかく取り出したスマートフォンをポケットに戻してしまった。一歩、一歩、階段を踏みしめる足取りが重たく沈み込む。行く手に改札口が見えてくる。虚ろな目をもたげて、気づけば奏の姿を探していた。どこかに奏がいて、無様な私を穏やかに笑っている気がした。──改札口、いない。精算機の前にもいない。トイレの出入り口にも、券売機や窓口の前にも、駅ビルへ続くガラス張りのドアの前にもいない。
塩辛い泡に私は溺れた。
泣きそうになるのをこらえて、自動改札機にICカードを押し付けた。
奏と連絡が取れなくなって数日が過ぎた。いまだにちっとも心の整理がつかなくて、まだ、ぜんぶ絵空事なのじゃないかと都合のいい疑いをかけてしまう。理解しようとしても脳が無意識に拒否反応を起こすのだ。だって、奏が中学卒業とともに東京を離れて、どこか遠くの街へ去ってしまうなんて、そんな乱暴な現実をにわかに受け入れられるはずもない。
問い詰めたいことがたくさんある。交流を絶つといってメッセージを返してくれなくなったのも、本当は勉強に専念するためじゃなくて、私の前からフェードアウトするための方策だったんじゃないの。そこまでしてどうして東京を離れなきゃいけないの。家族の都合ってそんなに大事なの。何も話さないまま行ってしまわないでよ。せめて一言「さよなら」だけでも伝えに来てよ。でなきゃ私、納得できないよ。諦めきれないよ。どうしたらいいのか分からないよ。奏のいなくなったこの街で、どうやって生きてゆけばいいか分からないよ。
「会いたいよ……」
消え入りそうな声がまろび出た。
言霊と一緒に力も抜けて、自由通路の真ん中へ私は立ち尽くした。
頭の奥が針を刺されたように痛い。身体中の感覚が鈍って、まるで浜辺に打ち上げられた魚のようだ。生き延びることも潔く死ぬことも許されずに、命の尽きる瞬間を虫の息で待ち続けている。
不意に重い衝撃が肩を殴りつけた。
身体が前につんのめった。夢遊病のような心持ちは弾けて消えた。
「痛っ!」
バランスを崩してよろめきながら、私は顔を上げた。傍らを追い越していった制服姿の女の子が「やば」と叫んで私を振り返った。肩に触れたのは彼女だったらしい。
「すいません。ちゃんと前見てなくてっ」
「そんな、私の方が悪いんです。こんな邪魔な場所に立ってたから……」
おずおずと頭を下げても女の子からの返答はなかった。嫌な予感が胸をかすめた。視界の隅に映る女の子の格好には見覚えがあった。短く折ったスカート、紺色基調のセーラー服、ゆるふわな明るめのツインテール。思い切って顔を上げたら彼女と目が合った。「うわ」と苦々しく彼女はつぶやいた。
「そっか。電車通学してるんだったっけ、あんた」
梅島舞。
むかしの同級生。
そして、奏の元カノだ。
湯気の立つ黄金色のドーナツを、くわっと桃色の唇が開いて頬張る。香ばしい匂いが辺りに立ち込める。ぼんやり眺めていると「食べないの」と梅島さんが視線を持ち上げた。おずおずと私は手元のドーナツを取った。たっぷり砂糖の掛かった大きなドーナツは、かじってみると外はカリカリ、中は綿菓子みたいに柔らかで、胃が重くなるほど甘かった。
ドーナツ屋の店内は閑散としていた。午後七時前を指す腕時計の針を見つめながら、こんな時間にドーナツ食べに来る人もいないよな、と思った。私だって一度も思い立ったことがない。ここでこうしているのは梅島さんに連れ込まれたからだ。どういう風の吹き回しか知らないけれど、気づいたら梅島さんに手を引かれて、駅ビルの二階にあるドーナツ屋さんに入店していた。
「あの」
一口かじったばかりのドーナツを置くと、梅島さんが「なに?」と眉を傾けた。
「ドーナツなんか食べちゃってよかったの。夕食とか色々あるでしょ。私は別にいいけど……」
「食べたい気分だったから。ここのクラッシュドーナツ、わたし好きなんだよね」
「はぁ……」
「来たことないわけ?」
私は小首を垂れた。恥ずかしながら、ここがドーナツ屋であることも知らなかった。ペデストリアンデッキに面したフロアに看板が出ているのは知っていたけれど、およそ私には縁のない、お洒落なカフェか何かの類いだと決めつけていた。
世間知らずな私を見て梅島さんは「へぇ」と頬杖をついた。
「電車通学してるんだし常連だと思ってた。crush creamの美味しさも知らないとかマジで人生損してるよ」
「……悪かったね」
「てかさ、電車通学って嫌になんないの? わたし今日はじめて夕方のTXに乗ったんだけど、マジ最悪。混んでるし、臭いし、キモいおっさんに胸とかガン見されるし」
どっと胸が跳ねた。痴漢の件を見抜かれた気がして、冷や汗を隠しながら私は「なんで電車なんか乗ったの」と話題をそらした。梅島さんは金色のレモネードスカッシュをストローで吸い上げた。
「綾瀬と同じ。春から電車通学すんの。高校受かったからさ、さっき入学手続きを済ませてきたところ」
「もう決まったんだ」
「推薦だよ。文スポってやつ。ちなみにテニス」
うろ覚えの知識を私は思い返した。都立高校の入試には文化スポーツ等特別推薦という枠があって、二月の上旬には合否が明らかになる。よほどスポーツの腕が高くなければ勝ち取れない枠のはずだけれど、澄ました顔でドーナツにかぶりつく梅島さんの眼差しは誇りの光を湛えているでもなく、ただ、どこまでも黒々と空虚に澄んでいた。
「大した学校じゃないし。綾瀬のところとじゃ比べ物にならないけどさ」
余計な一言を付け加えて私を黙らせた梅島さんは、すかさず「で」と畳み掛けて、身を乗り出してきた。怯んだ私はドーナツを皿の上に落とした。
「な、なに」
「奏と仲良いんでしょ、綾瀬。あいつがどこの高校を受けるか聞いてないの」
私は言葉を失った。梅島さんが私を店に連れ込んだわけを一瞬のうちに悟った。
「別に仲良くなんて……」
「そういうのいいから。なんとなく勘で分かってんの、こっちは」
「……知らない。何も教えてもらってない。梅島さんこそ何か聞いてるんじゃないの。その……付き合ったりしてたんでしょ」
「その『梅島さん』って呼び方やめてもらえる? 苦手なんだよね、苗字呼び。下の名前でいいから」
どろりと粘っこい吐息を舞はこぼした。
「ま、その様子じゃ、収穫なしか……」
見る間に彼女の興味が逸れてゆく。すがる思いで「あの」と切り出したら、食べかけのドーナツに伸びた舞の指が止まった。
「私、ほんとに何も知らない。中川が引っ越すことも数日前に聞かされたばっかりで……。しかもそれから連絡取れてない」
「ふぅん」
「中川、どこの県に引っ越すの。舞もぜんぜん知らないの」
「細かい場所は知らないよ。だから聞いたんじゃん。でも、何となくこのへんってのは知ってる」
「やっぱり知ってるんだ」
「奏が教えてくれたんじゃないよ。あいつのママと仲良くなって、めっちゃ粘って聞き出したの。もうマジ、綾瀬から情報料とりたいくらい大変だったんだから」
舞は面倒くさそうにスマートフォンをタップして、地図アプリの画面を鼻先に押し付けてきた。ピンが立っているのは新潟県と福島県の県境にある広大なダム湖だった。
「奥銀山ダム……?」
「そこ、水力発電をしてるダムなんだって。ジェイなんとかっていう会社が管理してて、奏のパパはその会社に勤めてんの」
日本発電事業開発、通称ジェイ・ジェネレート。地方電力会社の発電能力を補うために戦後まもなく設立された、日本中に発電所を持つ企業だ。奏の父親はどこかの有名企業の重役らしい──。はるか昔に耳へ入れたことのある噂話が脳裏によみがえった。
「そこのダムが工事をすることになって、四月から新潟に事務所を置くらしいんだけど。そこの一番偉い責任者に、奏のパパが任命されることになったんだって」
「そんなの単身赴任で済ませればいいんじゃ……」
「ほんとにあいつのこと何も知らないんだね」
舞は目を細めた。私を敵視するような眉間の険しさは、いつしか静かに鳴りを潜めていた。
「奏のママ、もう長いこと病気で臥せってんの。いくら奏が自立してたって、弱ってるママの世話を一人じゃ見きれないし、だからってママひとり東京に置いて行くわけにもいかないから、みんなまとめて引っ越すわけ。向こうは田舎だから空気も綺麗だし、ゆっくり病気を治すにはちょうどいいから……って」
口を利けなくなった私は椅子の上で縮こまった。
あいつのこと何も知らないんだね──。舞の辛辣な批判に返す言葉を持たない自分を、こんなにも情けなく思ったことは他になかった。確かに私は奏の境遇には明るくない。母親の病気のことも今の今まで知らなかった。知りたくなかったわけじゃない。ただ、チャンスがなかった。知り得た事実を受け止めて消化するだけの余裕もなかった。
いまなら少し、奏の抱える並々ならない覚悟の片鱗を窺い知れる気がする。奏は大事な家族のためを思って、東京と、そこに住まう友達を捨てる決意を固めたのだ。一度きりの高校受験で失敗するわけにもいかないから、いまもたったひとりで猛勉強に励んでいる。それに引き換え私ときたら、あいつの邪魔をしてばかりだ。身勝手な片想いに心を割いて、つっけんどんに奏を突き放したり手を引いたりして……。
「なんで泣きそうな顔してんの」
食べ終えた舞が口を拭きながら尋ねた。
「泣きそうなんかじゃ……」
「だからそういうのいいって。分かるんだってば」
いささかの恨みを込めて私は舞を睨みつけた。冷めた面持ちで嘆息しながら、舞は「分かるに決まってんじゃん」と繰り返した。まばたきをするたび、長い睫毛が不器用にしおれた。
「誰かが誰かを大事に想ってるのってさ、言葉に表さなくても態度で分かるもんでしょ。勉強会の時だってそうだったし。わたしがどんなに気を引いても、奏の目は綾瀬にばっかり向かってたし」
「え……」
「自覚なかったのかよ。だいたいさ、途中退席する子をわざわざ外まで見送るなんて普通ありえないでしょ。VIP待遇かよって話じゃん」
呆気に取られて抜けた魂を補えないまま、上の空気味に「どういう意味」と私は尋ねた。奏の気を引いていた自覚など少しもなかったのだから当然だった。
「さあね」と舞はレモネードスカッシュを一気に吸い上げた。
「奏に聞けば分かるんじゃない。わたしは別に知りたくもないから」
ぷは、と口元に見えない泡が弾ける。勢いのままに舞は私の顔を覗き込んだ。
「あのさ。悪いこと言わないからやめとけば。あいつに関わってもいいことないよ。綾瀬みたいに臆病で気弱そうなのは特にね」
黒々と澄んだままの瞳が、左右さかさまの私を丸く映し出す。いやに既視感のある忠告に私は言葉を失った。舞までもが、あの二人と同じことを。
「わたしだってそうだったし。かれこれ一年以上付き合ってきたけど、デートしてて楽しいことなんてほとんどなかったもん。キスも下手くそだし、雰囲気作りも下手くそだし、いつも心ここに在らずって感じだったし。そのくせ外面も外見もいいからみんなには羨ましがられるし……」
そういえば舞は奏の元カノなのだった。どんな面持ちを浮かべたものかも分からず、私はうつむいた。テーブルの下で舞がこぶしを固めているのが見えた。小さな手のひらにスカートのふちを握り込んだまま、舞は堰の切れた湖みたいに奏の悪口をばらまき続けている。
「わたしが隣にいるのに、いつも無関係の人にばっかり気を遣ってさ。迷子や落とし物なんかの相手してる暇があるなら、隣のわたしにもっと時間を割いてよって何度も思ったよ。あいつのそういうところ大っ嫌い。誰にでも優しくて、誰の前でも笑顔で、だけどいつも上の空だし無神経だし。わたしのこと好きじゃないなら潔く振ってくれればよかったのに、それさえしないでダラダラ関係を続けてさ。最低。ほんとバカらしい。ほんと時間の無駄だった。一年間のわたしの努力と愛情を返してほしいよ」
「そんなに言わなくても……」
耐え切れずに遮ったら、ぎょろりと舞が魚眼のように目を剥いた。
「あんたにあいつの何が分かんの?」
伸ばした背筋が恐怖で弱る。とっさの防衛本能で視線をそらしながら「分かんないけど……」と私は呻いた。肝心なところで確信を失う自分の情けなさが骨身に沁みた。それでも、どうしても伝えたかったのだ。元恋人の奏を批判すればするほど、舞は自分を追い詰めようとしているように見えるのだと──。
「分かんないなら黙っててよ。好きだったのかどうか知らないけど、付き合った経験もないやつにあいつを語られたくない」
「そうかもしれないけど、でも、さっきから聞いてたら悪口ばっかりじゃない。付き合ってた人のことをそんなに扱き下ろさなくたって……」
「うるさいな。嫌いなやつを扱き下ろそうが何しようがわたしの勝手でしょ」
「好きだったんじゃ、ないの」
「大好きだったよ! あいつと違って! だからムカつくんじゃん!」
舞が吼えた。テーブルの上には唾と、明らかに唾じゃない別の水玉が弾けた。
「爽やかイケメンでかっこよくて優しくて、そのうえ楽器も上手くてさ、すっごく憧れたんだよ。どうしても奏の一番になりたくて、勇気出して告白だってしたんだよ。わたしの全部を投げ出すつもりでファーストキスだって初体験だってあげたんだよ! だけどふたを開けてみれば、あいつはキスもそういうことも初めてじゃなかった! わたしがどれだけ好きって言っても曖昧に笑うばっかりで、わたしが求めなきゃ一度も言ってくれなかった! どんな言葉もぜんぶ上っ面で、嘘ばっかりで、東京を出ていくことさえ教えてもらえなかったっ! きっとわたしなんて都合のいい暇つぶしの相手でしかなかったんだ。好き好き言ってキスして、手を繋いで、抱き合って、ときどきヤることやるだけのっ……」
唇を震わせながら舞は肩で息をした。大きな瞳は透き通った色の血に濡れていた。私は気迫に呑まれて動くこともできなかった。どくどくと高鳴る心音を数えながら、いまにも嫉妬に狂いそうな自分の手綱を懸命に引いた。なんだかんだ言ってるけど、舞だって好き放題にやることやってたんじゃない。私にはできなかったことをたくさん──。黒く淀んだ心のなかを必死に浚渫して、すっと素直な感情が流れ込むのを待ってみる。流れ込んできたのは多分、共感だったと思う。
痛かったんだろう。
苦しかったんだろう。
八つ当たりのように舞はドーナツをほおばって噛みちぎる。鷲掴みされたドーナツがくしゃりと歪んで削れるのを、泣きそうな気分で私は見つめた。喉が大きく嚥下するたび、言葉にならなかった彼女の痛みが飲み込まれて消えてゆくのを見た。砂糖のコーティングを帯びた甘ったるいドーナツは、素直になれない私たちの心模様にも似ている。中身の重みを誰よりも知っているから、受け止めてもらえる自信が持てずに、つい誤魔化して隠したくなってしまうのだ。当然、握りつぶされた心は悲鳴を上げる。どれだけ嘘を重ねて心を隠しても、秘めた想いだけはなかったことにできない。──だから今、舞は泣きながらドーナツを頬張っているのだ。
「……そんなに嫌いになったのに、どうして受ける高校なんか知りたがったの」
こらえきれなかった疑問を私はこぼした。返ってくる言葉は何となく分かっていた。最後のひとかけらを一気に飲み込んだ舞は「なんでって?」と自嘲気味に鼻息を漏らした。泡の弾けた痕が目尻にも目頭にも残っていた。
「そんなの憎いからに決まってんじゃん」
「……そう、だよね」
「憎いあいつが幸せになったことを確かめたいの。あいつに幸せになってもらいたいの。わたしはあいつの一番にはなれなかったけど、あいつの幸せを一番に祈ることなら許してもらえる。わたしがしてやれることなんて、もう、それしか残ってないから」
舞は鼻を啜り上げた。
それからそっと、レモネードスカッシュの残りを吸い上げた。
細かな無数の泡が飲まれてゆくのを私は見つめていた。ごくんと切なく喉を鳴らして、舞は笑った。あまりにも倒錯した愛情を、伏せられた瞳のふちに浮かべたまま。
「わたし、もう、あいつのこと素直に『好き』って言えないから」
「きっと一生、この傷と失敗を引きずりながら生きていくんだ」
▶▶▶次回 『15 三つ巴』




